迷走ナラタージュ

 早朝に目が覚めた。真夏の焼け付くような日差しは幾分和らぎ、寝る前に少しだけ開けた窓からは冷たい風が優しくふきつける。
 広い部屋に合わせて揃えた大きめのベッドは、一人でいることをさらに誇張させる。そうだ、今日はアメリカへ帰る日だ。承太郎は覚醒しない頭で、ぼんやりとそう思った。
 以前はここ、日本に住んでいた。成人して少ししてからは、拠点をアメリカへ移した。母親のホリィは心配そうにしていたが、承太郎自身は心配などという言葉は毛頭なかった。何しろアメリカへ行った所で祖父が用意したマンションに住み、何か動きがあるようならSPW財団からすぐに連絡が来るからだ。むしろアメリカへ渡ってからは、日常に何もないことの方が承太郎にとっては退屈なことだった。

 今いる部屋も、日本での活動の為にと以前、祖父が用意したものである。財団に近いから、と祖父は言ったが、承太郎は祖母と喧嘩した時に逃げてくる口実を作っているとしか思えなかった。

 承太郎は歯ブラシを手に取った。ソファへ座り歯を磨きながらテレビをつけると、アナウンサーが元気よく朝の挨拶をするところだった。
 つい、右腕を大きく広げソファの背もたれに置いてしまう。ハッとしてしばらく固まっていると、口の端から泡が垂れてきてしまった。慌てながら、うがいをしに洗面所へ向かう。歯ブラシを元の場所へ戻すと、二本分の音がカラカラと鳴った。
 そしてテレビから流れるアナウンサーの声色が変わり、先日起こった不可解な殺人事件の報道を始めるのが聞こえてくる。まさかスタンド使いではなかろうか、と考えつつ、財団から連絡は無いので違うのだろうかとも考える。いずれにせよ、後でこちらから連絡しておこう。

 出かけるにはまだ時間があった。コーヒーを淹れ、新聞を読む。久しぶりに漢字の羅列を見ているような気がする。
 承太郎は無意識に向かいを見た。一脚ぽつんと置かれた椅子には、誰も座っていない。承太郎は日本に滞在していた一週間程、無意識のうちにその場所を何回も見ていた。そこに誰かがいることを願うとでもいうような目つきで。

 承太郎が見るその椅子には、以前はみょうじなまえという女性が座っていた。彼女は承太郎と恋仲にあり、結婚  はしていなかったものの、いつかは、と承太郎は思っていた。
 それが数年前のある日、彼女は忽然と姿を消した。承太郎が仕事から帰ってくると、消えていた。洗濯物は干しっぱなし、点けたままのテレビ、作りかけの料理……まさに、消えた、という表現がぴたりと当てはまるような現場だった。

 もちろん、すぐに祖父や財団に連絡し、あらゆる限りの手を尽くしてなまえを探した。だが、とうとう彼女は見つからなかった。
 なまえが消えてからしばらく経った日だ。何気なく開けた棚の引き出しに、見慣れない手帳を見つけた。手帳を開くと、真っ黒に塗りつぶされている。子供が鉛筆で塗りたくったような線で、日付ごとにぐしゃぐしゃと黒に染まっていた。
 だが黒いぐしゃぐしゃの線はなまえが消えた日からは途絶えていた。それらの不可思議な点を除けば、あとは一般的な、どこにでもある手帳だった。
 そして、手帳の一番最後のページ。何も書かれていない無地の紙には、なまえの字で何かが書かれていた。

「許してください」

 謝罪の言葉だ。承太郎は分からなかった。なぜ謝るのか。声に出しても答える人はいない。






 何年も、何年も時が過ぎた。木々に生える葉が何回生まれ変わったかは分からない。男は、静かな部屋でその時を待っていた。精悍な顔つきは年と共に衰え、在りし日の面影は薄くなっていた。
 周りには人々が神妙な面もちでいる。その中に血の繋がったものはいない。男の枕元にはいつかの手帳が。男は震える手で、その手帳を何十年ぶりかに開いてみた。黒に塗りつぶされたページはひとつとして無く、彼女の言葉も消えていた。至って普通の手帳だった。

 目を閉じると、過去の日々が蘇ってくる。懐かしく、色鮮やかだ。彼女の姿が見える。手を伸ばしてみる。もう少しで届きそうだ。もう少し、もう少し……。

「承太郎?」

 驚いて目を開く。なまえだ。若い姿のままである。

「い、今は……いつだ?お前は」
「どうしたの、承太郎。変な夢でも見たの?」

 承太郎はカレンダーを確認すると、次に鏡で己の姿を見た。50年以上も前の姿に戻っていた。

「なまえ……だよな」
「そうだけど」

 承太郎は勢いよくなまえに抱きついた。何回も名前を呼び、普段は流さないであろう涙で頬を濡らす。なまえは、そんな承太郎を優しく抱きしめる。
 彼女のすぐ側には、手帳が落ちていた。

title:誰花/箱庭〜ミニチュアガーデン〜
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