仮想狂気

これの派生

 雨の中、ランドセルを背負った少女が傘もささず道を走っている。天気予報を見ていなかったのだ。夕立はすぐやむということを、まだ知らなかった。頭を手で覆いながら、家路を急ぐ。
 しばらく走ると、人気のない通りにさしかかった。あの角を曲がれば家だが、少女は走り続けたのでとても疲れていた。足をとめ、息を整える。
 早く帰らなきゃ  と顔をあげた少女は、目を疑った。曲がり角の所に、何かぼうっと浮かび上がる影が見えたのだ。雨が激しいので、その姿ははっきりとは分からない。だがその影は、人型のようだ。少女は首を捻った。おかしい、さっきまで人はいなかったのに……。
 考えて急に怖くなったが、家へ着く時刻が少しでも遅くなることの方が少女にとってはなんとしても避けたいことだった。いったん目をぎゅっと瞑り、それから少しだけ開いて、また勢いよく駆け出す。

「あっ!」

 角を曲がった所で、誰かにぶつかった。その拍子に転んでしまう。ごめんなさい、と言いながら立ち上がろうとした時、頭上から声が降ってくる。

「大丈夫かい?」

 男の声だ。顔をあげるが、なぜか靄がかかってよく見えない。その人は傘をさしていた。真っ黒な傘だ。手を差し伸べてくれた。その手を掴んで、立ち上がる。不意に、少女は後ろを振り返った。
 猫のような耳を生やした、人。人、とは言えないのかもしれないが、人だと少女は認識した。驚いて目を見開いたが、声を出すことはない。出してはいけないと本能で感じたからだろうか。

「何かあったのかい?」
「なんでもないです。ありがとうごさいました」

 ピピピ!と機械的な、それでいて大きな音が鳴る。耳に響いていたはずの雨音は、甲高いまでの騒音でかき消された。未だ覚醒しない頭を起こしながら、目覚まし時計を止める。
 ああ、夢か。昔の夢……懐かしい。私は大きく息を吐いた。
 直後、階下から私を呼ぶ大きい怒号が聞こえてくる。朝から煩いな、と思いながらも、私は無言で身支度し、リビングへ。
 今日も長い一日の始まりだ。




 親しい友人といると、心が安らぐ。学校は好きだ。ある程度の規則を守れば自由なのだから。あれをしろ、これをしろと指図されることもなければ、一定以上の技量を求められることもない。だが、成績はつけられる。それは通達される。今回は大丈夫。しっかり勉強したのだから。ただ、体育が問題だ。私は昔から体力が無かった。

「ばいばい、また明日ね」

 友人に相談すべきか、迷ったことがある。迷った末に、やめた。余計な心配をかけたくなかったのだ。相談したところで、それが公になったことを考えるとゾッとする。それなら、我慢した方がいい。我慢して、大人になればあの家を出ていける。もう少しの辛抱だ。
 家へ帰ると、おばさんが夕飯を作ってくれていた。私とは顔を合わそうともせず、挨拶もない。だが、急に怒鳴り散らすことはしょっちゅう。そうなる前に着替えてこよう。
 二階にある自分の部屋へいき、着替えを取り出す。窓からは住宅街が見える。数軒隣に、豪華な日本家屋が建っている。明かりは点いていない。住人はまだ帰ってきていないようだ。

「……」

 階下から大きな声が聞こえたので、私は急いで着替える。そのさなか時計を見ると、時刻は午後六時を回った所だった。
 吉良さん、今日は少し遅いなあ。




 今日もめぼしい成果は得られなかった。吉良はため息をつく。珍しく、帰宅時間をずらしたにも関わらず、だ。車のハンドルを握る力も強くなる。
 高価な指輪や腕時計、香水を与えても、期限切れというのは必ずくる。これはどうしても避けられないことだ。助手席に座る彼女も、それらでは賄えなくなってきていた。早く新しい彼女を探そうにも、なかなか良いそれとは出会えない。

「フー……ま、こんな時もあるさ。ああ、怒らないでくれよ。ちょっとした言葉の綾ってやつさ。君は、僕にはもったいないくらい素敵だよ……」

 車内に吉良以外の人影はないが、彼は喋り続ける。自宅へ着いた後も、嬉々としてそれに話しかける。
 夕食を食べ、風呂に入り、縁側で彼女を愛でながら寛いでいるときだった。ふと、ある場所が目に入った。数軒隣の、二階。カーテンが閉められ、漏れる光もない。あの部屋には、今は誰もいないのだろう。
 吉良は終始無言であったが、不意に自嘲気味に笑みを浮かべた。きっと、あの部屋に住む少女は近いうちにここへ来るだろう。早ければ今週末にでも。不思議と、彼女と「手を切る」時にその少女は現れる。お互いに干渉しない、会話もあまりないが、なぜか奇妙な縁で結ばれている。

 気付くと、ぽつり、ぽつりと雨が降ってくる音が聞こえた。夜なので目では見えないが、雨脚が強くなりそうな気配だ。吉良は立ち上がると、居間へ戻った。
 雨か。あの少女と初めて出会った時も、雨が降っていた。

「みょうじなまえ」

 いつだったか教えてくれた少女の名前。名前を知る頃には、この奇妙な関係は既に完成されていた。二人して、抜け出せない迷路の中に迷い込んでしまったかのように。

 ぽつぽつと降っていた雨はいつしか本降りになり、屋根を打つ音は激しさを増す。
 吉良の手元には指輪と腕時計しか残されていなかった。

/Virtual Insanity
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