少しの刺激を

買い出しから帰ってくると、事務所には誰もいなかった。いつもは、みぬきちゃんがオドロキくんにちょっかいを出して、ココネちゃんがそれに加わっている…そんな光景を目にしていた。だが、今は珍しいことに誰もいない。ソファの上で、背もたれに寄りかかりながら寝ている成歩堂龍一を除けば、だが。

「な…ナルホドさーん…」

買い物袋を静かに置きつつ小声で呼んでみたが、起きる気配はない。むしろ、彼のいびきが増したように思う。
新調したスーツの上着が、無造作にソファの上に置かれていたので、私はハンガーにかけてあげた。こういうところは、本当に昔から変わっていない。皺がついても彼は平気なんだろうが、法廷に立つ者としてそれはいかがなものか。もちろん、彼もわかってはいるのだが、なかなかそういう細かいところまで気が回らない性分なのだ。





買ってきたものを冷蔵庫にしまうと、ナルホドさんの隣へ座った。一人分の体重が増えたことで、古くなってしまったソファは軋んだ音を響かせる。「んがっ」という声を出したかと思うと、ナルホドさんはまた深い眠りへと落ちてしまった。

「……」

普段、ナルホドさんの顔をまじまじと見る機会なんて無いだろう。じっくりとその寝顔を見てみると、ギザギザな髪の毛は相変わらずだなあとか、眉毛もちょっとギザギザしてるんだ、とか、発見があって面白い。いつまでも若いままなのかとも思うが、ズボンに乗っかり始めたお肉を見ると、30代半ばにさしかかった事を思わせる。
───しばらく見つめていたが、一向に起きる気配が無い。私は少し加害心が芽生えてきた。試しに、お腹のお肉をつまんでみる。

(…柔らかい)

シャツの上からでも、人肌独特の、気持ち良い感触が指先に伝わる。適度な柔らかさと温かさ。次に、頬を人差し指で触れてみる。ツルツルしていて羨ましい。ついこの前まで生やしていた細かい髭は剃られていて、剃り残しも無い。耳の形も良い。髪の毛もギザギザしているのにツヤはいいし、前髪を少しだけ出した今のスタイルはとても大人の魅力が惹きだされているし、ベストを着るだけでぐっとおしゃれになったし、8年ぶりの法廷も以前のようなキレそのままだったし。

ふと、途端に火に包まれたようにカッと熱くなって、両手で顔を覆う。普段見慣れていた光景を思い出すと、心臓が激しく鼓動を始める。今、こうやって隣に座っている事にさえ、信じられないという思いが広がる。先程の行為だってそうだ。

「…あ、おはよう…なまえちゃん」
「あ、お、おはようございますナルホドさん」

ナルホドさんが起きた。私は内心驚きつつも、平静を装う。あまり上手く出来ていない気がする。

「みぬき達はまだ帰ってないのか…なまえちゃんもさっき?」
「あ、はい。たった今です」

ナルホドさんにちょっかい出してました、なんて口に出せるわけもなく、ありきたりな嘘を吐く。ナルホドさんは「ふーん…」と曖昧に返事すると、大きく伸びをした。ポキポキッと軽快な音も聞こえた。
ナルホドさんは、寝起きの顔で何かを探すような仕草をする。私はハッと気付くと、ナルホドさんの近くの、ハンガーにかかった青いスーツの上着を指差す。

「よかった、そんなところにあったのか」
「すいません。ソファに置いてあったので、皺になると思って」
「いや、ありがとう。見当たらなかったから、ちょっと心配になっただけだよ」

ナルホドさんは立ち上がると、「着替えてくるね」と言って自室へ向かった。私は暫くぼーっと立っていたが、事務所の扉が大きな音をたてて開くと同時に、その場から急いで給湯室へ移動した。反射神経、とでも言おうか。
事務所の入り口の扉からは、ココネちゃん、オドロキくんが疲れた様子で、みぬきちゃんはまだまだ元気が有り余った様子で入ってきた。帰りに偶然会ったようだ。

「ただいまー…あー、疲れた…。でも、重要な証拠は揃いましたね」
「ああ…まさか見返りとして草むしりから炊事洗濯、犬の散歩までやらされるとは思わなかったよ…」
「なまえさんただいまー!パパはー?」

みぬきちゃんが抱きつきながら聞く。ココネちゃんとオドロキくんはかなり疲弊しているようで、先程ナルホドさんが寝ていたソファでぐったりしていた。みぬきちゃんに「部屋で着替えてるよ」と言うと、「みぬきも着替えてこよーっと!」と駆けて行った。私はみぬきちゃんが見えなくなったところで、皆にお茶を出そうと茶筒を取り出す。…と、横から影が伸びてきた。

「ぼくがやるよ」
「ナルホドさん」

半ば強引に、茶筒が手元から離れる。私は急なことに驚き、しばらく彼を凝視する。

「だ…大丈夫ですよ。ナルホドさんも休んでいてください」
「なまえちゃんに、いつも事務所のこと任せきりでしょ?…だから、さ」

そう言われたら何も手が出せないではないか。私は弁護士ではないし、ここで働かせてもらっているのだから事務処理や雑用が主な仕事だ。
…でも、ナルホドさんが言うように…たまには、こういうのも良いだろう。私はせめてお盆を取り出そうと、目線の上にある棚の戸を開けた。その時、耳元で声がする。

「あんまり、大人をからかわない方がいいよ」

ぞわわっ、と背筋に冷たいものが走った。振り返ると、ナルホドさんが口元に笑みを浮かべていた。

「か、からかってました?私。ナルホドさんのこと」

ナルホドさんはその笑みを崩さない。これは、十中八苦先程の出来事を示していると…思う。冷や汗が滴る。…たぶん、いや…ナルホドさんは気付いていたのだ。きっと、私が隣に座ってから。羞恥心に苛まれつつもそれを尋ねると、しれっと「さあ…どうだろうね」と軽くあしらわれてしまった。

「あーっ!パパ、お茶いれてる!みぬき、今日お菓子もらったんだ。皆で食べようよ!なまえさん、パパのことよろしくね!」

みぬきちゃんは口癖のように、「パパをよろしく」と毎日のように私に言っている。以前ならば何も気にすることはないのだが、何故か、今は別の意味のように聞こえてしまう。硬直して突っ立ている私を見て、ナルホドさんが肩に手を置く。

「…なまえちゃん」
「は、はい」

じっ、と目を見つめられる。昨年まで被っていたニット帽は無いが、目つきの鋭さは相変わらずだ。いくつもの戦いを切り抜けてきた…そんな目。私はいわば、蛇に睨まれた蛙なのかもしれない。

「お菓子、食べよう」

柔らかい微笑み。いつも、皆といる時のナルホドさんだ。私は、はい、と返事を返すと、湯のみが5つ置かれているお盆を持ったナルホドさんの後ろをついて行く。
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