練習が終わって結構な時間経った現在、俺は必死にドリさんから逃げ回っていた。クラブハウスのランドリールームに逃げ込むと、洗濯機の影に身を隠して息を潜める。こういう時ばかりは小さな身体が好都合だ。
――こつ、こつ。
松葉杖が床をつく音にびくりと肩を揺らす。体育座りの格好をして身体を縮こませ、じっと音が遠ざかるのを待つ。
怪我をしているドリさんを歩き回らせることに罪悪感を覚えない訳ではなかったが、今はこうして逃げるしかなかった。
大体、ドリさんが悪い。いくら俺が泣き真似をしてドリさんを騙したからって――
「……愛してる、なんて嘘つくんだから」
ドリさんからキスされたおでこにそっと手をやる。そうするとあの時の感触が蘇ってしまい、思わずまた顔が赤くなった。あのキスはただの仕返しに過ぎないのに。有り得ない期待を抱きそうになっている自分に気付き、膝に顔を埋める。
信じたいけど、信じて痛い目をみることになった時のことを思うと怖かった。
だって俺は、なんにも持っていない、ただがむしゃらにサッカーだけをやってきた人間に過ぎない。そのサッカーにしても特別才能やテクニックがあるわけでもなく、至って平凡なプレイしか出来ない。
片やドリさんは代表選手にも選ばれるほど凄いサッカープレイヤーで、ETUになくてはならない存在だ。ファンも沢山いて、女の人にだってモテる。
考えれば考えるほど、ドリさんが俺を好きになる要素なんて少しもない。やっぱりあの言葉は俺をからかう為のものでしかないんだと思うと、ちょっとやる瀬ない気持ちになった。
格好良くて、誰が見てもいい男だけど、今のドリさんは俺にとって酷い人だ。こんなにも俺を悩ませて、ありもしない望みを抱かせようとするんだから。仕返しするなら、もっと別の方法を選んで欲しかった。
「……ドリさんの馬鹿」
「馬鹿とは酷いな」
独り言で終わるはずだった俺の言葉に、よりによって一番聞かれちゃまずい本人から返事が返ってきて驚き跳び上がる。慌てて顔を上げればドリさんが、洗濯機に肘を付きながら、物陰に隠れる俺を笑顔で見下ろしていた。
――見付かった……!
しばらく硬直していた俺は、逃げなきゃいけないという気持ちに後押しされるがまま、そこから駆け出した。
「待て、世良!」
俺を引き止めようとするドリさんだったが、足を怪我して松葉杖をついている今の状態じゃ、ゴールポストを守っている時のようにはいかない。ドリさんの横をすり抜けて、俺はランドリールームを飛び出す。逃げなきゃ、その一心で俺は必死だった。だって、これ以上傷付くのは御免だ。
このまま突っ走るつもりだったのに、ふいに後ろからカランカランという音と、痛みを堪えるような呻き声が聞こえてきて、俺は反射的に振り返っていた。
見えたのは、床に転がる松葉杖と、ランドリールームの入口に片手をつきながら床に膝をついているドリさんの姿。
「……っ! ドリさん!」
走ってきた道を急いで引き返し、ドリさんの元に駆け寄る。
「大丈夫っスか!? 足が痛むんスか!?」
散々歩き回らせた俺のせいだ……!
とにかくドクターを呼ばないといけない、そう思い再び駆け出そうとした俺を二つの腕が捕らえる。そのままドリさんの胸元に引き寄せられ、抱きしめられた。
「ドリさん?」
困惑したままドリさんの表情を窺うと、口元には僅かに笑みが浮かんでいる。そこでようやく俺は気付いた。
「騙したんスか……!」
「悪い。こうでもしないと、お前に逃げられちまうから」
「だからって!」
「それだけ俺も必死ってことだよ」
騙されたと分かって、怒りで俺噴火するんじゃないかって状態のところにそんなこと言われたもんだから、簡単にぐらついた。
「必死って……」
「お前にどうしても俺の気持ちを信じて貰いたくてな」
「たった今俺を騙しといて、信じられる訳ないじゃないっスか!」
じたばたと藻掻き、なんとかこの場から逃れようとするが、がっちりホールドされていて叶わない。悔しい。
「じゃあ、何をすれば信じて貰える?」
耳元で吹き込まれるように問われる。そう言われると咄嗟には答えられない。あまりよくない頭をフル回転させて考える。
まず、ドリさんは俺を好きだっていうことを証明したがっている。なら、好きの気持ちを表す行為が同性である俺相手に出来るかが一番の判断材料になるんじゃないだろうか。例えばキスとか。でこちゅーなんて軽いものじゃなくて、ちゃんと口にするキス。
いや、でも待てよ。俺ら体育会系の連中にとって、男同士でのキスなんてハードルはそんなに高くない。飲み会なんかではたまに酔った勢いでしちゃったりするし、なんかのゲームに負けた時の罰ゲームでキスしなきゃいけない、なんてこともよくあった。
でもキスが駄目なら、その先はもうあれしかない……よな? よくよく考えると、それが出来るかどうかが手っ取り早い証明になるんじゃないか? そうだよ、普通は冗談でも同性相手にしようと思わない行為なんだし。
ドリさんの気持ちがただ単に仕返しの為の嘘だとしたら、流石にこれは出来ないはずだ。きっと持ち掛けられたら困るに違いない。その姿を想像すると、どこか切なくなるけれど。俺は首を振ってそれを振り切る。
「ドリさん!」
今から凄く恥ずかしいことを言うって自覚があったからか、それをごまかす為に必要以上に声高になった。
「ドリさんが俺を抱くことが出来たら、ドリさんの言ってること信じます!」
言った、言っちゃった! でも、これでドリさんの本心が分かるはずだ。
ただのからかいなのか、それとも本当に俺のこと――
「分かった」
ドリさんが抱きしめていた俺を解放する。
え、これってつまり……?
前者だったのかと落胆しかけた時、片腕はしっかりと握られていて依然として逃げられない状況下であることに気付いた。
「今から俺の家に行こう」
そういうドリさんの表情は、真剣そのもので。俺は気圧されて、もう何も言うことが出来なかった。
続く