ぺたぺたぺた。
廊下から聞こえてくる足音に気付いた緑川は、ソファに横たえていた身体を起こした。
「ドリさーん、お風呂あざっした!」
リビングにやって来たのは、うっすらと湯気を纏わせた世良だ。緑川は手招きして彼を呼ぶと、ソファに腰かける自身の足と足の間に向かい合わせに座らせた。そこが緑川の家で二人きりの時の、世良の定位置なのだ。
「ほら、髪の毛乾かすからタオル貸せ」
「え、いいっスよ! ドリさんだって疲れてんのに」
「いいから。俺の楽しみを奪ってくれるなよ」
そうまで言われては世良もそれ以上は何も言えず、大人しくタオルを渡すしかない。緑川はこの、11歳年下の恋人を構いたくて仕方ないのだ。
いつも撥ねている世良の淡い茶髪は濡れてぺたりと下りていて、緑川がタオルで丁寧に水気を拭き取っていく。
緑川の大きな掌をタオル越しに感じ、世良の顔は嬉しくて仕方ないと言わんばかりに破顔した。
「今日は随分と長風呂だったな」
いつもなら30分もしないうちに風呂から出てくる世良が今日はなかなか姿を見せなかった為、緑川は気になっていたのだ。だが今日もミニゲームを中心としたハードな練習だったこともあり、疲れの溜まった身体を時間をかけて癒しているのだろうと言い聞かせていた。
「えーっと……実はちょっと、風呂の中で寝ちゃってて」
「おいおい、危ないじゃないか」
浴槽でうっかり寝てしまい、そのまま溺死する事故も少なくない。語気を強めて緑川が窘めると、世良は慌てて弁解する。
「ドリさんの家だと安心しちゃって、つい気が緩んじゃうんスよ」
「だからってなあ……そうだ」
何かを思い付いたらしい緑川は世良の顔を覗き込んだ。
「次からは一緒に入るか。それなら寝てもすぐに起こせるしな」
「いっ、一緒に!?」
「嫌か?」
「嫌じゃないスけど……そうなったらドキドキして風呂どころじゃなくなるっスもん、絶対」
想像しただけで恥ずかしいのか、彼にしては珍しく消え入りそうな声で告げる。世良の素直な告白に、今度は緑川が頬を緩ませた。
粗方乾いた世良の髪を確認すると、タオルを除けて一撫でする。
「そっ、そうだ! 俺、今日いいもん借りてきたんスよ!」
恥ずかしさを払拭するため、唐突に世良は話題を変えつつソファから降り立つ。そんな分かりやすい行動さえも愛しく思いながら、緑川はそれに乗っかってやった。
「じゃーん!」
世良が自分のスポーツバッグから取り出してきたのは赤と黒を基調としたアルバムだった。世良は先程まで座っていた場所に、今度は緑川に背を預ける形で座る。すかさず緑川は世良の腹に腕をまわして絡め、身体を密着させた。迷いのない慣れたその所作が、二人の付き合いの濃密さを物語る。
世良は自分の膝の上に傾けて立てるようにしながらアルバムを開く。世良の肩越しにアルバムを見ることになる緑川にも、中身がよく見えるようにとの配慮故だ。
「……これって、キャンプの時の写真か」
フィールドに目隠しの状態でおっかなびっくりといった様子で立つ椿や、フィールドの外からペアを組んでいる相手へ指示を出す面々。
荒々しくプールで泳ぐ村越。
頭には麦藁帽子、手には虫採り網を握る水着姿の松原と、彼をいじる達海。
アルバムの中身は広報の有里が撮ったと思われる、夏のキャンプ風景をおさめた写真だった。
「有里さんに貸してもらったんスよ。写真のデータはPCに保存してあるから、返すのはいつでもいいって」
「へえ」
「あ、ドリさんだ」
世良はページをめくる手を止め、一枚の写真に見入る。
自分が得意とするポジション以外でプレーするよう達海に指示された中で行われた、大学生チームとの試合。その時の、FWとしてボールを追い掛ける緑川の写真だ。
普段とはまた違う姿に、流石ドリさんカッコイイなあと世良は内心感嘆した。
「お前の写真もあるぞ」
長くて太い指が、とんとん、と写真を叩いて示す。そこには自信無さげにキーパーを務める世良が写っていた。
「はは、ゴールポストが大きく見えるな」
「もうっ、ドリさん!」
身長の低さを気にしている世良に、悪い悪いと謝りながらも緑川の笑いは止まらない。それが収まる頃には、世良はやや機嫌を損ねていた。
「なあ、世良」
「……なんスか」
「なんでこの時、キーパーを希望したんだ?」
拗ねてますとあからさまに表す世良に、緑川はキャンプの時から抱いていたちょっとした疑問を投げかける。
ポジション変更での試合の時、キーパーのポジションはローテーションしても出来る人数が限られていた為に希望者を募っていた。怖ず怖ずと挙手して志願した世良を見て、自信があるのだろうかと緑川は思ったが、実際は及び腰だったし、相手チームがゴール前に詰めてくるとわあわあと慌てふためいていた。
それでも後半になると積極的にコーチングしていて、順応の早さに感心したものだ。
「初めてだったんだろ? キーパーやるの」
「そりゃまあ。だから希望したってのもありますけど、他にもちゃんとした理由があるんスよ?」
「他にも?」
世良は首を捻り、後方の緑川を見上げた。二人の顔が一気に近付く。
「ドリさんが普段どんなものを見て、どんな気持ちでサッカーしてるのか知りたかったっスから」
一瞬の内に色んなものが込み上げてきたこともあり、緑川は言葉を返すことが出来なかった。そんな彼を余所に、へへっ、と照れ臭そうに世良は笑う。
「キーパーやってみた時、凄い早さで飛んでくるボールとか突っ込んでくる選手がもう怖くて怖くて仕方なかったっスけど……でもドリさんに見えているフィールドを俺も見ることが出来たし、同じ感覚を共有出来てるみたいで嬉しかったっス」
「……俺も、」
「え?」
「FWやってみて、お前と同じものを感じることが出来たよ。フィールドを風をきって駆けるあの感覚や、ゴール出来なかった時の悔しさとかさ」
背中からぎゅうと殊更強く抱きしめられた世良は、嬉しくて目を細める。それから、緑川の腕をぽんぽんと叩いた。力を強くし過ぎただろうかと緑川が腕を緩める。世良はアルバムを置くと、身体を反転させて真正面から緑川に抱き着いた。
後ろから抱きしめられるのも好きだが、こうして向かい合って抱き合うのも、たくさん触れることが出来るから世良は大好きなのだ。
「ねえドリさん」
「ん?」
「大好きなサッカーしながら大好きな人の事を想えるなんて、俺達相当幸せっスね」
「ああ、そうだな」
互いに幸福に満ちた笑みを浮かべると、二人は示し合わせたかのように、同じタイミングで唇を寄せあった。
終