白っぽい楽譜のページを開いた南沢は、埃っぽいその空気にむせた。山のようにある楽譜を見て、少しだけうんざりする。めんどくさい。適当に見繕って、さっさと帰ってしまおう。汚いと思った楽譜は案外綺麗で、譜面の音符が、白から浮かんで見えた。おたまじゃくしにしか見えないけど。音楽室に隣接している薄暗い倉庫の本棚には、所狭しと楽譜が並べられている。南沢は神経質そうに眉を寄せて、つんとした匂いを吸い込んだ。

「…え、南沢さんですか?」
「…神童」

同じ部活の神童拓人が、ひょいと入ってきた。帰宅する予定だったのだろう、学生鞄を持っている。自分の瞳が、揺らめくのが解る。神童はそっと微笑んで、どうしたんです?とやさしく尋ねた。この後輩は、いつもこうである。南沢を尊敬の眼差しで見つめながら、時折、小さな子供をあやすような、慈愛の表情を見せるのだ。南沢は、思考を振り払うように、頭を掻いて、立ち上がった。
「音無先生から、合唱コンクールの選曲頼まれたんだ」
「合唱の…ああ、そんな時期ですね、そういえば」
鞄を机に置いて、神童は南沢の肩の埃をそっと払った。ありがとう、と呟くと、いいえと返される。神童は音楽室倉庫を見渡し、埃っぽい空気にくしゃみをした。
「お一人ですか?」
「うん、ひとりでやるって、言っちゃったんだ」
「またどうして」
「……だらだらするのが、嫌だったから」

嘘。
神童が、部活のない日に、ここでピアノを弾くのを知っていた。
それだけだ。

「…暇なら、付き合ってよ」
「いいですよ、俺もそう言おうと思ってた」
神童はカーテンと窓を開けて、楽譜をひとつ、取り出した。自分を自分で、コントロールできないと思ってしまう。自分は、こんなはずじゃなかった。例えば何でもないことで誰かを心配したり、意味もなくいらいらしたり、そんなこと。
「そこらへんの楽譜は古いものばかりです、こっちが最新ですよ」
「まじか」
楽譜を棚に直して、神童に寄る。花の香りが漂った。シャンプーの香りだろう。開け放たれた窓からは、野球部や、テニス部の声が聞こえる。なんだか、ここは…。(ああそうか、防音だから…)別世界のような気がした。まるで、神童と自分しか居ないように、遠くの喧騒は聞こえるが、自分の周りは、花の香りと、埃っぽいざらざらした感触と、心地よい神童のアルトだけなので。
「ま、俺は楽譜なんて見てもわかんないんだけど」
「そうですか…南沢さんって、ピアノやったことないんですか?」
「ないよ」
「もったいない、指長いから、向いてると思います」
「ふうん」
そんなもんかね、と自分の指を眺めてみた。爪のかたちも、指の細さも、女のもののようで、好きではない。でも、悪い気分ではなかった。ついでに神童の手首を掴んで、眺めてみた。指のラインをなぞる様に見て、甲にそっと触れてみる。
「はは、すべすべじゃん」
「…南沢さん、ちゃんと選んでます?」
「ううん」
「もう…」
嫌そうに聞こえない、神童のくすぐったい声を聞いて、質問したくなった。
「でも、嫌じゃないだろ」
「…南沢さん、わかって言ってますよね」
「ん?」
「……」
「わかんないよ、俺は」
ぱ、と離して、手をひらひらと振ってみせる。行き場を失った神童の手が、一瞬泳いで、迷った長い指が戸惑いの色をみせた。神童の眉間にほんの少ししわが寄って、しまった、と思う。「…何」「……」「おい、神童」「別に、何でもありません」
何もなかったような声音で神童は微笑を投げて、また楽譜を捲る作業に戻った。そのまま紙を捲る音ばかりが倉庫に響いた。
(………)
なんで、なんで。そう思う。指先に残る熱を、どうして忘れられようか。ばか、と小さく呟いた。聞こえただろうか、隣の、この、馬鹿馬鹿、大馬鹿な後輩に。そのまま幾分かが過ぎた。ぴりりと張った空気に、落ち着かなかった。神童の一挙一動が、いちいち目についた。
「これ、いいと思います。ピアノの難易度も低いですし、メロディも安定しているので」
「あ、うん。…じゃ、これにしようかな」
神童の手に触れないように、注意を払って、楽譜を受け取り、付箋を貼って、そっと閉じた。本当の本当に、なんてもどかしい。








I'm itching to dream(ぼくは夢を見たくて仕方ない)







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