クロスト初期










二学年になり、クラス替えが行われ、隣の席になった神童拓人は、一瞬目をこちらに向けて、視線がぶつかるとふいと反らされてしまった。よろしく、と言うと、ああと小さく返された。神童拓人、神童財閥の御曹司で、確か音楽部の。この前、全校集会の檀上で表彰されていた。俺だってすこしは女の子に好かれていると思うが、それはこいつの比じゃない。喋ったことはないけど、こいつのことは知っている、そのくらいには、神童は有名だ。それ故に、こいつは浮いている。まるで王子様みたいな太陽に透ける癖毛と、伏せられた睫毛が、きらきら煌めいた。きれいだ、と言おうとして、慌てて引っ込める。男に言うことではない。でも、いつかどこかで、こんなきれいさを、俺は抱き締めたことがある。どこでだろう…。机の中に収まらない新しい教科書を、ぱらぱらと捲り、艶やかな白が反射する眩しさに目を細めた。ああ、この席は良いかも知れない。窓際で、太陽が温かく、隣の席の神童は、静かだ。とても良い。



ぺらりと頁を捲り、文字を追う。ちくたくと、時計の音だけが図書館に響いていた。揺れるカーテンからは、野球部やテニス部の声が聞こえた。
「…ふう」
読書部は、活動は自由だが、自由すぎて幽霊部員が多発している。今日出席しているのだって、俺ひとりだし。文庫本を鞄に仕舞い、活動日誌に適当に今日のことを書いて、立ち上がる。毎日が目まぐるしいわけでもないし、退屈なわけでもなかった。ただ穏やかに過ぎていた。二学年になってから、1ヶ月経ったが、学年が上がったといっても勉強が難しくなったとは思わないし(そういえば神童のノートはすごい。見やすく丁寧な字で書いてあるのをこの前見た)、部活はこの通りゆるいし、まるでまどろみに居るようだ。確信がない。ぼんやりと外を眺めると、ピアノの音が聴こえてきた。そうだこの旋律は、
「…愛の夢」
肖像画のリストは、なんだか悲しそうな顔をしているが、心のうちには、柔らかな愛を持っていたのだなあ、と思った。温かい。春の太陽みたいに。



春過ぎて、夏来るらし、白妙の。
「…衣干したり、天の香具山」
大嫌いな梅雨も終盤、しかしここからは焦げるように暑く、たまらなく嫌な時期が来る。古典の教科書の短歌を、見事なアルトボイスで読み上げた神童は、静かに腰を降ろした。
「はい、ありがとう。この歌は…」
音無先生の言葉を聞き流しながら、俺は文庫本に目を落とした。欠伸をひとつして、まだ半分も読みきれていない文庫本に、小さく息を吹きかけた。本当は、太陽でぱりぱりと乾いた文庫本が好きなのだが、この湿気じゃあ、仕方ない。跳ねる髪を何度か押さえつけながら、頭の中で、放課後によく流れている、愛の夢を思い出した。



本格的に夏が来て、ひりひりと肌が焼ける思いをする。「…暑い!」「暑い暑い」それだけで会話が成立する夏、雪でも降らないかと願ってみるが、ぎらりと太陽に睨まれるだけだった。
「夏だなあ、全く」
放課後の図書館への道、ふらふらと廊下を歩いていると、肩にどんと、誰かの肩がぶつかった。うわ、と声がする。
「すみません!大丈夫で…あれ、神童?」
「あ、」
ぶつかった相手は、神童だったらしい。尻餅をついた神童は、慌てて立ち上がって、すまない、と謝った。
「怪我はないか」
「いやいや、お前こそ。ごめんな、荷物、散らばっちゃったな」
「いや…」
ふたりで見るも無惨に散らばった紙を拾っていく。どうやら、楽譜らしい。「…ん?」それをページごとに並べながら、あることに気づいた。
「神童、これってもしかして、愛の夢?」
「え?」
きょとんとした表情で、こちらを見た神童は、楽譜を並べながら、そうだよと言った。
「やっぱり…もしかして、放課後弾いてたりするの?」
「ああ。この曲は結構好きなんだ」
「そうなのか。俺、部活中に聴こえるこれ、よく聴いてる。神童だったんだな!俺、好きになっちゃってさ」
「本当に」
「うん」
照れたように横髪を耳にかけた神童は、嬉しそうに微笑んだ。初めて見たかも、神童の笑顔なんて。いつも澄まし顔なのに、なんて可愛らしい笑顔なのだろう。俺はもっと神童に笑ってほしくなって、はじめて神童のピアノを聴いたときの話や、俺が読書部に所属していることを、できるだけおもしろく話した。神童は、くすくすと時折声を出しそうになりながらも、上品に、楽しそうに笑っていた。
「おーい、霧野…なにしてんの」
「うわ、一乃」
「うわって何だよ。久し振りに部活しようかと思ったのにさ、行かないのか?」
「行く行く!」
気づけば俺たちは、楽譜を拾う手を止めて、廊下でしゃがんだまま、話し込んでしまったらしい。楽譜をかき集めて、神童に渡す。
「ごめん、べらべら喋っちゃったな。時間大丈夫?」
「いや、楽しかったよ」
「良かった。じゃあまた、部活頑張れよ」
「ああ。また明日な」
小さく手を振って、神童と別れた。



次の日、教科書を忘れ、神童に見せてもらっていた俺は、頬杖をついてぼんやりとしていた。昨日あんなに話したのに、なんか、あんまり神童との距離は縮まっていないような気がした。いや、縮めようなどとは思っていないが、昨日、笑いあったのに、あまりの変わらなさに、拍子抜けだったのだ。まあ、こんなものだ、今までもそうだったから。授業もつまらなくて、文庫本の表紙を撫でていると、神童が俺を見た。
「あの…霧野、くん」
「ん?」
隣の神童が、ほんの少し身をこちらに寄せ、囁き声で俺に話しかける。何気に、神童に話しかけられるのは初めてだ。
「斜陽」
「え」
「だよな、その本」
うん、と肯定しながら、俺は驚いていた。だって、意外すぎたのだ。あの神童が俺に話しかけてきたこと、この本を知っていること。あと、あ、俺の名前知ってたんだって。
「太宰治、好きなの?」
「ああ」
意外な共通点に、今度はこちらが笑みを溢す。
「すごいな、好きなもの、一緒だな」
「うん」
俺が文庫本を開くと、神童も覗きこんでくる。暫くふたりで読んでいると、何回読み返したかわからないこの本が、まるで違うもののように思えた。そしてまた俺は、この状況を、どこかで感じたことがあると思っていた。なんか、変だ。きっと1回や2回じゃなくて、もっと…。隣に座る神童は、ゆっくりと瞬きをして、不思議そうな表情をする。
「あの、霧野くん」
「霧野でいいよ」
「………えっと、」
そこでチャイムが鳴り、授業が終わる。次は体育だ。急いで更衣室に行かなければならない。神童の言葉の続きが気になったが、早く行こうと支度をする。
「お昼さ、一緒に食べようぜ。そこで続き、聞く」
早口で伝えてから、教室を出た。そういえば、神童は、指を守るために体育は受けていないことを思いだし、急いで教室に戻った。
「あのさ、体育のとき暇だろ。貸すから、よかったら読んで」
「あ、ありがとう」
文庫本を神童の胸に押し付けて、既に俺と神童しか居ない教室から飛び出した。



なんだよ霧野一緒に食べないのかよー、と背後から聞こえる声に、ひらひらと手を振って神童の名前を呼んだ。
「あれ、いいのか?」
「いいのいいの」
申し訳なさそうに困った顔をする神童を教室から連れ出して、屋上に向かった。神童はなにも悪くないのに、いつも人のことを考えているような気がする。今まで澄まし顔しか見たことが無かった神童は、くるくると表情を変えた。
「神童、さっきは何を言おうとしてたんだ?」
「あ、えっと」
屋上のアスファルトは太陽を跳ね返し、暑いことこの上ない。ようやく見つけた日影に座ると、ひやりとした感覚が伝わった。
「…変、だと思うかも。だけど、比喩でも何でもなくて」
「うん」
ゆっくりゆっくり、言葉を選ぼうとしている神童は、拳を開いたり、閉じたりした。
「霧野、きみといると、なんでか懐かしい気持ちになるんだ。霧野、俺は」
「………神童」
「…ごめん、何を言おうとしてたんだろう。わからなくなってしまった」
俺もだよ、と言おうとした。俺も、同じことを感じていた。びりびりと体が痺れた。
「変だよな、忘れてくれ」
そう言って神童は、微笑んだ。あ、という呟きが口から溢れた。だって、神童は、涙目だったのだ。しんどう、と名前を呼んで、迷うことなく頭を撫でた。
「なんだよ、おい、神童」
笑って、わざと楽しそうに笑って、今にも真珠の涙が落ちそうな神童を慰めた。なんだよこいつ、泣き虫なのか。誰も知らない、でも、俺だけが知ってる。こいつのきらりと目映い涙を、俺だけが知ってる。俺もだよ、と口をつこうとした言葉を、飲み込んだ。神童が疑問の海に堕ちてしまう。俺は、ぼんやりと考えていた。運命なのだ。俺と神童は、手を取り合わなければならないのだ。
「神童、俺とさ、親友になろう」
「…え?」
「お前ともっと、話したいんだ。俺たち親友になったら、きっと、楽しい!」
こいつを支えてやりたい。瞳に映る青い空を、もっと映してあげたい。
「い、いいのか」
「何が?」
「俺は、泣き虫だし、弱くて弱くて、仕方ないんだ。さっきの霧野の友達のことだって、そうだ。いつだって人の目を気にして、友達なんてろくに出来たことも、なくて…」
「いいじゃん、そんなこと」
「よくな…」
「いいんだよ、繊細なところが、神童の美点だ」
強引に遮って、立ち上がって、ほのかな風の中で、神童を見据えた。ああ、どこかで。やはり、どこかで、この状況を…。
「よろしく、神童」
そっと右手を差し出す。恐る恐る差し出された神童の右手を掴んで、立ち上がらせた。ふらつきながら立ち上がった神童に、そっと微笑む。こいつの前では、笑っていよう。いつだって、俺だけはこいつの味方でいよう。
「よろしく、霧野」













Happy birthday!/一樹さんに捧げます


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