何時だって空気を掴まされているような気分だった。

静かに息を吐いて、吸って、毎日それを繰り返した。神童、と、か弱くて消えそうな存在の名前を呼んだ。南沢が神童家に連れてこられてから、一週間が経とうとしている。南沢は、ちらりと窓を見た。整えられた中庭に、つい目で不安定に飛び立つ小鳥の飛ぶ姿を追って、ああだめだ、と思った。あんな飛びかたじゃ、いつかだめになるだろう。


「だって、南沢さんは、俺のものには、ならないでしょう。俺は、それがすごく嫌です」
「…俺は、お前の…」
「違います。南沢さんは、うまく言えないけど、ひとりでだって、ある程度やっていけますよ。―――俺は、だめです。そういうことだと、思うんです。俺のものになるってことは」
可愛い、可愛い恋人だった。常識は無い、頑固、その癖、弱くて、不安定だった。南沢が転校し、雷門に戻る気はないと知ってから、その不安定さは日を追うごとに増していた。神童は些細なことで泣き、苦しんだ。


「南沢さん、何を見ているんですか」
「ああ、そこの中庭で、小鳥が飛んでいて…なあ、神童、散歩にでも行かない?」
そこで、紅茶の準備をしていた神童は、ぴたりと手を止めた。「散歩に…」こくりと喉が鳴った。
「いいよ、別に。無理に行こうと思ってないし…」
「すみません」
「いいってば。今日も、神童とゆっくりする」
そう言って微笑めば、神童は心底安心したようで、安堵の笑みを返した。これでいい、このまま、こいつを安心させてやれば、神童がパニックを起こすこともない。(でも、知ってる)(俺も神童も)(これは、愛じゃない…)柔らかなソファで、甘ったるい紅茶を飲み干す。赤い紅茶は、まるで血のように思えた。


「南沢さん、うちに泊まりにいらっしゃいませんか、明日」
そう神童が電話してきたのは、大雨の日だった。雨垂れの音で、うまく聞き取れなかった。
「え、いきなり?うーん、明日は兵頭と練習するんだよ。だから明後日なら…」
「南沢さん!」
「………」
「……すみません」
沈黙に雨だけが響いた。神童は、涙声だった。
「ごめん、明日さ、練習は早めに終わらせるから、4時に迎えに来てくれる?」
「……はい」
神童は知っている。これは、ただのエゴだ。知っているのに、止められない。


南沢は、精一杯、甘えさせてやろうと思った。今の神童は、ひとりきりにすればすぐに泣いてしまう。とにかく、神童に必要なのは、安心と充足感だ。神童が泣けば抱き締めたし、笑えば作り笑いだってしてやる。それでも、果たして何故だ。空気ばかりを食べている気分になる。気持ち悪くなって、南沢は少しずつ吐くようになった。だって、少なくとも南沢は今、神童の為に生きているのに、神童は、南沢の向こうの、どこか遠くを見ている気がするのだ。窓越しに見る空は、なんて狭いんだろう。


神童は苦しんでいた。自分が、南沢を苦しめている。押し付けるだけの愛なんて、縛るだけの愛なんて、したくない…。重いドアを開けて、中庭に出る。自分は南沢を家に閉じ込めているのに。軟禁、ていうんだっけ。それでも満たされないのは、何故だろう。テーブルに座って、ピアノの弾きまねをする。当然、音が鳴ることはない。(ひとりよがり…)なかなか霧が晴れない脳内で、ぼんやりと考えた。別れの曲を弾いた。ショパンの深い孤独に、ひどく悲しくなって、泣いた。ごめんなさい、南沢さん。貴方は、作り笑いなんて、到底似合わない。貴方は、あの小鳥のように、空を自由に飛ぶべきだ。小鳥は愛を知ろうと飛び立つのだ。それに比べて、愛を知ろうとせずに閉じ込める俺はどうだろう。さいていじゃないか。



「神童、ずっと練習休んでるし、かと言って具合が悪いわけでもないらしいし…なるほど、こういう訳ですか」
霧野は、無表情に呟いた。神童が不安定なのは、知っていた。南沢が絡んだ問題だということも、知っていた。目の前に居る南沢は、痩せたように思う。思わず笑いが漏れた。なにやってんだよ、神童。あんなに大好きな南沢さんが、痩せっぽっちな身体を更に細らせて、お前のことだけを考えているのに…。
「…馬鹿ですね、神童なんて一発殴ってやれば良かったんだ。神童は、叱って欲しかったんですよ。どうしたんですか、自己中で要領だけは良い癖に、そんな南沢さんはどこに行ったんです?らしくないですよ」
一気にまくし立ててから、霧野は深呼吸をした。ああ、だめかも、神童、俺しんじゃうかも…。瞼の裏にフラッシュバックが響いた。ゆるやかな、破滅に向かって、ふたりは歩いている。
「南沢さん、この家の中庭、知ってます?めちゃくちゃ広いんですよ。俺、あそこ好きだから、よく見ていくんです。中央には白いお洒落なテーブルがあって、」
心臓が激しく鳴った。涙が目に溜まるのがわかる。それを悟られぬよう、静かに、口を開いた。
「南沢さん」




「神童はいま、中庭で死んでいます」




俺は何時だって、きみというものをつかめなかった。










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