▼ サボの食卓
長すぎるディナーテーブルの端と端で向かい合って、ろくに見えもしない母親の顔色を窺いながら、次から次にサーブされる皿の中身を重い銀食器を使って口へと運ぶ。出来るだけ、静かに、行儀よく。
自分の手でナイフとフォークを握るようになってからというもの、サボの食事はレッスンと同義だ。
父親は大抵忙しくて同じ席にはつかないが、もし一緒だとしたらサボの食事の時間は、異様に長くなるか極端に短くなるかのどちらかだった。延々と叱られるか、即座に皿を下げられるかの二者択一。
たった一人の息子だというのに、こんなに出来が悪いのはどちらの血筋のせいなのか。両親は食事の途中にも関わらず口論を始める。サボにはもうマナーが何なのか分からない。
決められた順番、決められた姿勢、決められた回数、決められた会話。決して音を立てないで。テーブルマナーは絶対に完璧に。どうか私達に恥をかかせないで。
きっとそれは正しい『マナー』なのだろう。けれど、冷たい目に見張られながら震える手で流し込んでいく食事は、いつしかつまらないパントマイムのようにしか思えなくなっていく。
決められたルール、決められたレール、決められた人生。
道端で人形劇を演じていた男のことを思い出す。あの見知らぬ島での冒険物語がサボはたまらなく好きだったのに、結局、人形遣いの男は警察に追われて去ってしまった。大人たちは不快もあらわに眉をひそめる。高町に庶民が侵入してくるだなんて。流れの者ですって、道理で汚らしくて気持ちが悪い。ああ、私達、貴族に生まれて本当に良かったわ。ええ、ええ、本当に──。
大人たちの言葉とは裏腹に、サボはあの男が、そしてあの人形たちが羨ましかった。きっとまた見知らぬ土地へと向かうであろうあの人形よりも、今の自分の方が、よっぽど糸につながれているみたいだ。
つらくなったサボが目を伏せても、両親はまだ喧嘩を続けている。何十年も先のことを夢見て、期待して、落胆して、そして憤っている。今、この場に居るサボのことなど意にも介さずに。
両親はきっと、サボの好きな食べ物だって知らない。
□
家を出たサボの食事は、大抵はゴミ山の隅で、そうでなければ森に少し入ったところだ。
食事の時は無防備になりやすいから、人目につかないところを選ぶ必要がある。実際、昔は折角拾ったパンを大人に横取りされたことだってあった。勿論、それなりに悪名も轟くこととなった今では、そんな失態を犯すはずもなかったけれど。
「エースの奴、もう山賊の家に着いたかな」
夕暮れの空と同じ色の焚き火で肉を焼きながら、サボは山向こうへと視線を投げる。親友のエースは、サボと違ってグレイ・ターミナルで寝起きしているわけではないので、日が暮れる前には獲物を持って山賊たちのアジトへと戻っていく。
エースいわく、家族だなんてものではなく、互いに利用し合っている『サツバツとした』関係らしい。山賊の食べる分もついでに狩ってやることで衣食住を提供されているとのことで、今日もエースは大きなイノシシを丸々一頭かついで帰って行った。
「……今ごろ、山賊たちと一緒にメシ食ってんのか。はは、騒がしそうだ」
サボの方も─こちらはイノシシではないが─肉が焼けたので、火傷しないように気をつけながら、けれど、そのままかじりつく。
勿論、家に居たころのようなお上品なテーブルウェアもなければ、堅苦しいテーブルマナーもない。ただ、食べ終わった後に命の糧となった手を合わせるのは、誰に教わったわけでもないサボなりの『マナー』だった。こんなこと一生無理だと思っていたのに、狩った動物をさばくことが出来るようになった、あの頃からずっとそうしている。
食事が終わったらすぐに火を消して、残った骨と炭をしっかりと土に埋めてから、サボは立ち上がって伸びをする。昨夜までの寝床は屋根が奪われてしまったから、陽が完全に沈みきる前に新しい『家』を探さなくてはならない。ぐずぐずしている暇はないのだ。
けれど、サボの視線は、注意深く見渡すべきゴミ山ではなく、自然とエースの帰っていった方角へと向いてしまう。エースが帰ってしまった後は世界がひどく静かになるから、本音を言えば、エースにもここに住んでほしい。一緒ならきっと寝床探しでさえも楽しいだろう。
けれど、エースに帰る家があることを責められはしなかった。本当は、家だってあるし、両親だって居ることを、サボはたった一人の親友にずっと黙っているのだから。
「でも……たまには、こっちで食って行きゃあ良いのに」
あの家では誰かと食べても独りだったから、それなら最初から一人の方がずっと良い。そう思っていたし、実際そうだった。
でも、エースとだったら。
□
「いいか、サボ、ルフィ。気ィ抜くんじゃねェぞ」
円陣を組んだエースは、名前を呼んだ順に目を合わせてから真剣な顔で続けた。
「今夜はごちそうだ! 山賊どもに遅れを取るなよ!」
ポルシェーミの一件により、山賊ダダンのアジトで寝起きするようになったサボにとって、食事はほとんど戦闘に近くなった。
特に今日は狩りが上手くいったために、並んだ料理の数も量も半端ない。そうなると、争わずとも十分腹が膨れそうにも思われるが、実は逆だ。これだけのごちそうとなると、サボたちも山賊も目をぎらつかせずには居られない。むしろ、食卓での競争は激化する。
「うわ、エース! それはおれの肉だぞ!?」
「ボヤボヤ食ってる方が悪ィ、早いもん勝ちだ!」
「おいおい、これは酒のツマミだ、ガキには早ェ!」
「うるせェ、元はおれたち三人で獲ってきた肉だろ!」
「ったくクソガキども……毎日毎食こんなんじゃこっちの身が持たねェよ! ガープはどうしてんだよ!」
「毎日どんちゃん騒ぎの宴みたいですもんニー……」
「でも、宴って言うなら、きっと酒が入ってないだけマシですよォ、お頭」
「──ッ!? こ、こいつらが酒飲むようになる前にさっさと追い出すぞ!」
喧々諤々、大声を張り上げながらの忙しない食事にはマナーも何もあったものではない。山賊たちも必死だから、当たり前に手も出れば足も出る。時にはエースやルフィとも容赦なく肉を奪い合い、笑い声と怒号が同じだけ耳に聞こえてくる。何とも落ち着かないが、これがこのアジトの日常だ。
エースはたまに「ちったァゆっくりメシを食わせろよ」とぼやいたりもするが、サボとしては、どうにも楽しくてたまらなかった。
あの家での静かな食卓よりずっと良い。
ゴミ山の隅で一人で食べる食事よりずっと美味しい。
独りじゃないというだけで、こんなにも見える世界が違うなんて。
□
片手にラーメン、片手に報告書。
前の島で手に入れた麺は、見た目こそ似ていたが恐らくはラーメン用というわけではなかったのだろう。だが、革命軍の料理担当からスープのコツを教わっていたので、サボは一応それらしきものにありつくことが出来ていた。
揺れる船内で、思考のスピードと同じ速さでペンを走らせ、同時に逆の手で箸を使って麺をすする。サボにとってはそう難しいことでもなかったが、キッチンを訪れたコアラの目には相当異様に映ったらしい。
「ハック居る? 明日の……って、何やってんの、サボ君!?」
入ってくるなり声を裏返したコアラに、サボはずずっと麺をすすりながら端的に答えた。
「ラーメン食ってる」
「夜食ってこと? 好物なのは分かるけど、報告書書きながらっていうのは、」
「行儀が悪ィって? つっても、こればっかりは山賊の流儀だからなァ」
にやりとサボは露悪的に唇を歪めてみせた。久々に口にした『行儀』という単語が自分でも可笑しくてたまらない。革命軍として、世界政府──それも天竜人に堂々と弓を引いておきながら行儀も何もあったものか。
とはいえコアラとて行儀の悪さを口にしたわけではないようだった。「そうじゃなくて、報告書に思いっきりスープが飛びそうだと思って……」と指さしていたが、すぐに「ま、いっか」と頷いて話を戻す。
「サボ君の報告書だしね。それより、ハック見なかった?」
「さっきまで居たけど、負傷者の様子見に行ってもらった」
「入れ違いかァ。確認したいことあったんだけど」
残念そうに首を傾げたコアラは、しかし、すぐにサボのテーブルの反対側に腰掛けた。丁度、先程までハックが座っていた席だ。
「……ん? 医務室行かねェのか?」
「サボ君が食べ終わるまで居てあげようかと思って。一人でご飯食べるの、あまり好きじゃないでしょ?」
テーブルに肘をついて、コアラは悪戯げに微笑んでくる。お見通しだよ、と言わんばかりの表情だったが、今回ばかりは残念ながらハズレだった。
「なんでだよ。ガキじゃあるまいし」
サボはペンを走らせながら鼻先で笑い飛ばしたが、もしかしたらハックも同じように思っていたのかもしれない。やけに「本当に医務室行っていいのか」「もう少し後でも良いだろう?」と繰り返していたのはそのためか。
言われてみれば、記憶を取り戻す前、一人でする食事はあまり好きじゃなかった気もする。普段は何も思わなくとも、静かな食卓に、一人で食べる食事の味気なさに、不意に胸に穴が空いたような欠落感を覚えたこともあった。
でも、それも、もう過去の話だ。
「──今は、一人の時でも『独り』じゃないしな」
「なにそれ、なぞなぞ?」
コアラの言葉を他所に、サボは器に残った麺を探しながら別の用を口にした。
「報告書だけ終わらせていくから、後は頼んだ。ハックにも話はしてある」
「はいはい。次の島で降りて、エース君と待ち合わせなんでしょ? サボ君が真面目に報告書書くのはこういう時だけだもんね?」
「んなこともねェだろ! 他の時だって──いや、まあ」
そうかもしれない、と思い直してサボはわざとらしく咳払いをする。
「んん、だから、エースが迎えに来てくれるから、そのままルフィの船まで行って宴に参加してくる。帰りはエースがこの船まで送ってくれるってよ。その、当日中になるかは分からねェけど……次の任務には間に合わせるから心配しなくていい。何かあったら連絡くれ」
要件人間と揶揄されているとは思えないほど歯切れの悪い説明だ。コアラはにやにやと笑いながら、しかし嬉しそうに声を弾ませた。
「了解。それにしても間に合って良かったね」
「ああ。ルフィに会うのは久しぶりだしな」
「そういえば、ルフィ君のところのコックさん、あの海上レストランバラティエの副料理長だったんでしょ? すっごいよね!」
「よく知ってんな、コアラ」
そういう話はサボも聞いてはいたが、あまり重要視していなかったためほとんど忘れてしまっていた。
しかし、そうなると合点がいくこともある。
前に宴に呼ばれた際に、置いてあったナイフとフォークで食事をとっていたら、通りかかったサンジが不意に立ち止まったことがあったのだ。
一瞬何か言いたげに目を瞠ったが、すぐにぐるぐるの眉を上げて「それはレディのために用意したカトラリーだ。客とはいえ、野郎は手づかみで上等だろ」と笑っていたが──一流レストランの元副料理長ともなると、もしかしたらサボのカトラリーの使い方に、幼い頃に訓練された何かを感じ取ったのかもしれない。
けれど、サンジはそれには触れないまま、ただ「手づかみで上等だ」と言ってのけた。本来は『そう』あるべきなのだ。いくらマナーが正しかろうと、やはりあの家の食卓は間違っていた。今のサボなら自信を持って言える。
共に食事する相手と楽しいひとときを過ごす、それ以上に大切なことなどないのだから。
「あー……宴のこと考えてたら腹減ってきちまった」
「夜食食べながら言う?」
「もうほとんど食い終わったからな」
食べ終わったならなおさらでしょ、と呆れたようにコアラは嘆息する。構わずサボは、片手でラーメンの器を持ち上げると、直接口をつけて残りのスープを飲み干した。
【完】