▼ 心音は、はるか遠きララバイ
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反論したってどうせ無駄なのだ。だから、エースはいつも本気で殴りかかることにしている。
「もしもロジャーに子どもなんて居たら」──そんな『仮定』を酒の肴にして笑う大人たちを思い切りぶちのめして、悲鳴と怒号の飛ぶ飲み屋を背にエースは全速力で駆け出した。
たとえ捕まったところでその辺の大人たちなどエースの敵ではない。けれど、エースは必死に走り続ける。行き交う人の隙間を縫い、時に邪魔者を突き飛ばしてでも。そうすれば、自分が望まず背負わされた何もかもを振り切って自由になれるような気がして。
──世界が、エースのことを、要らないと言う。
生まれたこと自体が罪、生きていること自体が悪。誰もが当然のようにそう口にしてやまない。エースのことなど何一つ知りもしないくせに。
走って走って走り続けていると、いつの間にか風景がぐにゃりと溶けて、知らない場所へと行き着いた。さざめく海辺、真っ白なベッド、潮風に舞うカーテン。どこかの小さな島のようだ。見覚えもないはずなのに、何故か不思議と懐かしい気持ちに駆られる。
気付くと、金の髪に鮮やかな花を一輪差した女が一人、こちらに背を向けてベッドに座っていた。女の視線は窓の外、はるか水平線へと向けられている。どこか遠い国の、誰かを遠い人を想うように。
もしかして、とエースは足を止める。
それが何の予感なのかは自分でも分からなかったが、知らず知らずの内にエースはその薄く儚い背に手を伸ばしていた。どこかで期待していたのかもしれない。相手が誰かも分からないのに、この人なら、エースのことを『要らない』なんて言わないのでは、と。
だが、女が急に顔を覆って背を震わせ始めたので、エースの手はその背に触れる前に所在なく浮いてしまった。女は泣いているのだ。泣かないでほしいとエースは思う。しかし、どうすれば泣き止んでくれるのかなんて想像もつかない。逡巡する手は宙に浮いたままだ。
やがて女は静かにエースを振り返る。顔は見えない。ただ、白い指の合間から、真珠のような涙を零しながら女は絞り出すように言った。
「──貴方さえ産まなければ」
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両手で口を押さえてエースは飛び起きる。
それは『叫んでしまう』という無意識の予感によるものだったが、実際のところ、エースの喉はひどく引き攣れていて言葉らしきものなど一言も発せなかった。息は荒く、吸っても吸っても酸素が足りない。
それでも徐々に落ち着いてきた呼吸と共に現実は身体へと浸透し、先程の全てが夢の中の出来事だったと理解出来る。そうっと口元から外した小さな手、その重く冷たくなった指先は微かに震えていて、それがあまりにも悔しくてエースは己の胸ぐらを掴んで固く目を閉じた。
視覚を遮断し、今、この時だけに集中する。ダダンたち山賊の家から独立して居を構えた大樹の上、そこに三人で建てた小屋の中、傍らで眠るルフィは「おれのわにめし……」と大きな寝言を口にしていた。あとはサボの寝息とフクロウの鳴き声が聴こえるくらいで、いつもとなんら変わらない夜だ。そのことにエースは安堵する。あれは夢で、これが現実。だからエースは一人じゃない。大事な兄弟も居る。
──だから、大丈夫だ。
エースは目を閉じたまま、悪夢の残滓を振り払うように頭の中で繰り返す。大丈夫、大丈夫。
それに、たとえ全世界の誰もがエースの誕生を厭い憎んだとしても、あの人だけはエースが生まれたことを喜んでくれたはずだった。たった一枚の写真の中でしか見たことのない姿──それでもエースは信じてやまない。ガープだってそう言っていた、あの人は確かにエースを愛していたのだと。
大丈夫、大丈夫なはずだ。己に言い聞かせるように繰り返せば繰り返すほど、底の空いた柄杓で水を汲むような心地がした。それでもエースは繰り返す。だって他の誰も『そう』と言ってくれないのだ、自分くらいは『そう』言ってやらなければ救われないではないか。大丈夫、いつか世界を見返してやる。世界がエースを認めないなら認めさせてみせるだけだ。だから、大丈夫。
けれど、エースを産んだせいで『あの人』が死んでしまったのも本当で、だから──。
「えーす……?」
小さな声に驚いてエースはハッと目を見開く。
ぎこちなく顔を向ければ、目を擦りながら起き上がったサボの姿があった。思わず息を呑む。一番知られたくない相手だ。悪夢を見て飛び起きるような、こんなにも弱い自分を、サボにだけは見られたくなかった。
「んん……何かあったのか? るふぃ……は寝てるんだよなコレ。デケェ寝言だなあ」
きょろきょろと辺りを見回すサボは寝ぼけているのか、口調もどことなく辿々しい。いつもの半分も開いていない瞳をエースへと向け直すと、サボは「んー」と小首を傾げてからエースを真正面からぎゅっと抱き締めてきた。
それはまるで幼子がぬいぐるみを抱くような、いとけない仕草だった。それでもエースは突然のことに石のように固まってしまう。
「……大丈夫、おれが居るだろ」
罠も仕掛けてあるし、だいじょうぶ……と口の中で咀嚼するように喋りながら、サボはあろうことかエースを抱きしめたまま再び横になった。当然、引っ張られたエースもそのまま寝転がることなる。サボの心臓の音が身体を通じて直接響いて、急にエースは暴力的なまでの懐かしさに心を浚われた。
はるか遠い昔、誰かにこうやって、優しく抱かれていたことがあるような──。
その懐かしさの正体を見極めるよりも先に、エースはサボの鼓動と体温につられるようにして目を閉じてしまう。それ以来、サボの隣で眠るかぎり、エースはもう悲しい夢を見ることはなかった。
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──だからといってエースが二度と悪夢にうなされなくなったかというと、そうではなかった。
一人で眠る夜は、来し方の記憶と自虐的な想像が入り混じった悪夢を見たし、そういう夢に限って現実との境目がやけに曖昧で、どうしたってエースは摩耗してしまう。夜中に汗だくで飛び起きたことだって数えきれないほどあった。
ただ、長じてからは、悪夢を見る前兆のようなものを感じるようになった。そして、そういうときは夜通し呑んで騒いで、眠らずに過ごすようにしようとエースは決めたのだった。もしそれが適わないときでも、エースはベッドの上に一人寝転がって、ただ夜が過ぎるのを待ち続けたものだ。
そんな夜が何日も重なれば多少は厳しかったが、ある日、眠りたければ昼間に寝れば良いと気付いた。短く深い午睡なら夢も見ずに済む。
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ストライカーを適当に停めて、エースは真夜中の町へと躍り出る。苛立っているときは中々炎が戻らないせいで、エースの姿は暗闇に一際鮮やかに浮かび上がった。
街路には人の姿はなく、鬼火を引き連れて歩くエースを見咎めるものも居ない。それもそのはず、草木も眠るなんとやらで、歓楽街でもない小さな島の町となれば、こんな深夜に人が歩いている方がおかしい。
月の位置も随分と動き、サボとの約束の時刻もとうの昔に過ぎていた。そうとなれば、別の約束のとおり、サボはどこかの宿に先に泊まっていることだろう。途中でエースの電伝虫が壊れてしまったせいで連絡は取れないが、そう大きくない街の宿屋など数も知れている。事実、エースは二軒目にしてサボの宿屋を突き止めた。
あらかじめサボが言い含めておいてくれたようだが、それでも真夜中に来るとは思っていなかったらしい。エースに無遠慮に叩き起こされた店主は見るからに不機嫌で、たとえ朝まで残り数時間といえど宿代は一晩分もらうと三度も繰り返した。別にそれくらいは大したことないので、エースは鷹揚に頷いてからサボの泊まる一室を目指す。
ノックの一つでもしようかと思ったところで、扉が内側からそうっと開いた。どうやら気配で早々にバレていたらしい。
「エース……まさか夜の間に来るなんて!」
扉の隙間から覗いたサボはすっかりラフな格好に着替えていて、部屋には淡い灯りだけが静かに揺れていた。もしかしたら眠りにつく寸前だったのかもしれない。
「悪ィ、『日暮れに待ち合せよう』っつったのはおれなのに全然間に合わなかった」
「いいさ、前回はおれが遅れたし──でもお前、酷い顔色だぞ。眠れてないのか?」
とりあえず入れよとサボに促される。中に入って見てみれば、サボの借りたこの部屋にベッドはひとつきりで、エースは先程の店主の言葉をどう解釈したものか考えあぐねてしまう。
「もう寝るところだったか?」
「まあ、そろそろ。一応待ってたんだけどよ」
きまり悪そうにサボは言うが、別にエースは責めてなどいない。元々そういう約束だし、エースが危機に陥って遅れているわけでないのは壊れる前の電伝虫で告げてあった。
「──それより、サボ。遅れといてなんだがよ、」
ベッドに腰掛けたサボにそう話しかけながら、エースは己の身に着けているナイフやバッグを外して床へと落とす。それからサボを仰向けにベッドへと押し倒すと、その両手首をやんわりと押さえ込んだ。
サボは少し驚いたように目を丸くしたが、何度か瞬きしただけで抵抗はおろか身動ぎひとつしない。
「……お前は途中で寝ちまっても良いから、一晩中好きにさせてくれよ。頼む、今夜は──眠りたくねェんだ」
エースの身勝手な申し出に、サボはイエスともノーとも答えないまま苦笑する。
「成る程な……つまんねェ喧嘩でも買っちまった?」
「そんなとこ」
ここに来る直前に買った喧嘩の相手は、ロジャーに恨みがあるという賞金首狩りの男だった。向こうはエースの血筋など知りもしないだろうが、それでも向けられた憎悪は鋭利に胸へと突き刺さる。
ただでさえここ数日は悪夢を恐れて碌に眠れていないのに、こんな夜を一人で過ごすなんて無理だった。己のその甘さをエースは半ば唾棄していたけれど、それでもサボにだけは弱みを見せられるようになったのは、この十年が齎した大きな変化だった。
「そういうことなら……、よっ、と!」
「うおっ!?」
一体何をどうしたのか、サボは細やかな掛け声と共にエースの身体をひっくり返して、サボの腕の内に落ち着かせてしまう。期せずして恋人に腕枕される形となってしまったエースは頭を上げて抗議しようとするが、サボが的確にエースの核を押さえているからなのか、中々身動きがとれない。
「あ、テメー、サボ、また『コレ』かよッ!」
「いいから寝ちまえよ、エース」
「……嫌だ」
「大丈夫だって。お前、おれがこうしてるときに悪い夢見たことがあるか?」
眠りたくない理由もとうにバレている。サボに悪夢の中身を話したことはないが、大方の予想はついているのだろう。エースが多くを語りたがらなかった『今日の喧嘩』というのがどういうものだったのかも。
「でも、ガキみてェじゃねェか」
確かにサボの隣で悪夢を見たことはない。けれど、まるでグズる子どもを寝かしつけるようにされてはエースにだって恥じる心はある。
「『大人じゃないと出来ないこと』は明日で良いだろ? 今回は時間もあるんだし」
サボは柔らかく笑いながら遂にはエースの頭すら撫で始めた。
「──おれ、駄目なんだ。そういう顔してるお前を見ると全力で甘やかしたくなっちまう」
「どんな顔だよ……甘やかす気があるなら抱かせてくれ」
含み笑いと共に語られる言葉に反論しつつも、愛おしげな手つきに段々と瞼が重みを増してくる。それでも何とか目を開いていると、睨みつけたとでも思ったのかサボは僅かに目を細めた。
「そりゃ、おれはそれでも構わねェけど……でもやっぱ駄目なんだよ。今はそれじゃない」
お前だって分かってんだろ。そう続けられれば何も言えやしない。そう、エースだって分かっている。本当に必要なものがなんなのかなんて。
それでも久々に会ったというのに、恋人にこうやって甘やかされて寝かしつけられるばかりなのは格好悪い気がする。弱みは見せても格好は付けたいのだ、そこはエースもやはり恋する男だから。
しかし、身体は正直なもので、起きていようとするエースの意識に反して、サボのゆっくりとした心音に己のそれを重ねようとしていた。
殆ど閉じかけた瞼の隙間に金色の光が揺蕩っている。
「愛してるぜ。おやすみ、エース」
(愛してるわ。おやすみ、エース)
こめかみへのキスと共にサボが呟く。そこに女の優しげな声が重なって聞こえたような気がしたが、エースの瞼は重くて、その正体を見定めることは出来なかった。
【完】