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▼ ベイビーメイビーアイキャンフライ


 命綱の代わりに互いの手を握り合い、ビルの屋上から空へと向かって飛び込むような夜だった。
 それでも、時計の針がぐるりと回れば太陽は規則正しく東から昇り、薄いカーテン越しに日常と地続きの朝を知らせてくる。
 エースの住むこのアパートは窓から玄関まで真っ直ぐに廊下が伸びているので、電気のスイッチを点けていなくてもギリギリ手元は見えた。そういえばスイッチの場所をおれは知らない。いつもエースが点けていたから気にかけたこともなかった。

「ふぁほ、ふぉんほにひふのは?」

 教科書の詰まった鞄を肩にかけていると、歯ブラシをくわえたままのエースが眉間に皺を寄せながら話しかけてくる。普通なら聞き取れないようなその言葉も、起きてから通算五回目ともなれば容易に想像がついた。

「ああ、何度も言うけど必修なんだ。おれだってもう少しゆっくりしたいけど、仕方ねェだろ?」

 金曜一限と二限は連続して必修の授業が入っている。出席代わりに書くミニレポートが評価基準にもなっているから、誰かに代返を頼むわけにもいかない。授業料免除の特待生ということもあって、単位さえ取れれば何でもいいと楽観的になることは出来ないのだ。
 だから、おれは今から、どうしても大学に行かなければならない──いくら昨夜エースに初めて抱かれていたとしても。
 エースだって分かっているはずなのに、玄関までついて来て「本当に行くのか?」「一回くらい休めねェの?」と問いかけ続けてくる様子は、まるで留守番を嫌がる子どもみたいだ。ちょっと待ってろとばかりに片手を上げて口をゆすぎに行き、口元を手の甲で拭いつつ戻ってからもエースは更に続ける。

「そんじゃ、せめてバイクで送ってく」
「いいって。電車で数駅だし」
「でも昨日の今日だぞ? サボの身体も心配なんだよ」
「心配って……おれがそんなヤワじゃないのは知ってるだろ?」

 半ば呆れてじろりと視線を向けると、エースは困ったように片眉を上げる。どちらかというと困っているのはおれの方なんだけどな。
 おれだって離れがたいし、出来ることならエースとまだベッドの中に居たいに決まっている。そもそも、せめてあと一日待てば週末が待っていたというのに、その『たった一日』が待てなかったのは、むしろおれの方なのだから。
 どうしてもエースの全部が欲しくなった。どうしてもおれの全部を貰って欲しかった。絡めた指の、火傷しそうなほど熱いその熱の行く末を、あの時あの瞬間にどうしても知りたかった。たとえ何かが決定的に変わってしまっても。
 だから、後悔はない。けれど、妙に気遣うようなエースの言葉にはほんの少しの引っ掛かりを覚えた。『心配』だって? 大雨の中を傘も差さずに二人で走った時も、学祭の企画で獲得した米俵をこのエースの部屋まで押し付け合いながら運んだ時も、お互い心配なんてしなかっただろ? そりゃあ初めての体験だったけど、だからって、まるでセックスした途端に、おれのこと──。

「……今日の授業は午前だけだし、終わったら寄り道せずに帰るさ。そうだ、エース今夜バイトだろ? 夕方になったら電話するから。な?」

 バイトのある日のエースは、夜遅くまで続く体力仕事に備え、夕方までぐっすり眠るのが常だ。明け方近くまで起きていた今日みたいな日には特に睡眠が必要だろう。
 言外に「おれを送らなくていいから寝てろよ」と告げると、エースはなおも不服そうな顔をしていたが、やがて渋々と言った体で頷いた。

「行かせたくねェけど、サボがそう言うなら……でも、本当に気をつけろよ?」

 そう言うとエースは「愛してるぜ」と小さく微笑んでからキスを落としてくる。戯れのように絡まる舌は、歯磨き粉のフレッシュミント味。同じ物を使ったから今朝はおれもこの味なんだろう。そう思うと何だかくすぐったくて、舌先が甘く痺れた気がした。

   ■

 その違和感に気付いたのは、電車の中だった。
 通勤ラッシュとは逆行する向きだから車内の混み具合は然程でもなかったが、それでもおれは自分のこめかみにつぅっと妙な汗が流れるのを感じていた。
 ──なん、だ、これ……まるでまだナカに挿入ってるみてェな……。
 電車の僅かな揺れにすら変な気分を煽られ、思わず吊り革を掴む手に力を入れてしまう。バクバクと鳴る自分の心臓の音はあたかも耳のすぐそばで聴こえるかのようだ。微熱のような気怠さのせいで視界は潤み、気を張っていないと膝の力まで抜けてしまいそう。
 喩えるならば、そう、身体が勝手に昨夜のことを反芻しているかのような──。
 何かがおかしい。そう思い始めた矢先に一際大きく電車が揺れた。

「あ……ッ」

 喉から飛び出た声は、自分でも驚くほど甘ったるい。目の前に座っていたサラリーマンが目を丸くしてこちらを見上げてくる。絶対に変な奴だと思われたに違いない。目を逸らすおれの横顔にまだその視線が刺さっているのを感じていると、ちょうど目的の駅へと電車が止まったので、おれは震えそうな足を叱咤してそそくさとホームへと降りた。
 けれど、電車内はまだマシだったのかもしれない。
 どこかぼんやりとしたまま大学まで歩き、すり鉢めいた造りの大講義室まで辿り着いた頃には、おれは一番後ろの席になだれ込んで冷たい机に額を擦りつけていた。
 ──おかしい、こんな、なんで。
 首筋から背骨を通って腰まで、淡い鳥肌が止まらない。風邪でもひいたのかと思いたかったが、意思に反して跳ねそうになる身体は紛れも無く快楽を感じていた。
 やがて、身体の暴走に引きずられたのか、頭の方までもが昨夜の行為を反芻し始めてしまう。
 エースの体温、エースの吐息、エースの鼓動、エースの質量、エースの匂い、エースの声、エースの汗、エースの熱、エースの──一晩の間に五感で味わった愛しい恋人の記憶がまざまざと蘇り、そのせいで更に身体が反応してしまう悪循環。今そこに無いものを求めて、内臓が勝手にうねるような気すらしてくる。どうにか落ち着かないかと座る位置をもぞもぞと調整してみても、どうしようもなかった。
 出かける前にエースが言っていたことがふと頭をよぎる。『サボの身体も心配だから』──いや、まさかな。エースもこんな事態までは想像してなかったはずだ。あれは、そう、きっと……ベッドの上でのポジションを引きずっちまっているだけなんだろう。まるでか弱い女子でも相手にするかのような態度だったもんな。
 そう考えると段々腹も立ってきた。おれ達の関係だってきっと変わってしまうのだろうと覚悟していたけれど、覚悟していたからといって歓迎出来るわけでもない。

「サボ君、おはよう! こんなに後ろに座っているなんて珍しいね!」
「ひぁっ!」

 急に背中を叩かれて、裏返った声を上げてしまう。一般的に言うと喘ぎ声に近い代物だったかもしれない。こんな変な声を同級生に聞かれるなんて本当に最悪だ。授業開始まで時間があるから人の姿はまばらだけど。

「ご、ごめんね、どうかした?」

 顔を上げてみれば、声を掛けてきたのは同じ学科のコアラだった。おれもコアラも前方の席で授業を受けることが多いから、こんな一番後ろに陣取っているのが珍しかったのだろう。だが、今のおれにコアラと普通の顔をして話す気力も自信もない。
 はあ、と幾分か熱を孕んだ息を吐いてから、何でもないと首を振ってみせた。もうその首の動きにすらくらりと視界が眩む。

「何だか挙動不審だよ? 具合でも悪いの?」
「…………大丈夫」

 むしろヨすぎるのが問題だとは流石に言えず、おれは再び机の天板に突っ伏した。

「本当に?」
「平気……ちょっと……二日酔い、みてェな感じ……」
「なんだ、二日酔いかあ。お酒もほどほどにね」

 私は板書見えないから前行くね、と頭上から声が振って来て、コアラの気配が遠のいていく。
 ──ダメだ、こんなんじゃとても授業に身が入らねェ。
 成績を落とすわけにはいかないからとエースを説き伏せてまで出席したのに、この体たらくじゃ意味がない。
 おれは拳を強く握り、未だに快感の余波に溺れる頭と身体に喝を入れる。思い通りにならない歯がゆさはあれど、身体に残る疲労感も倦怠感もどこか甘い面映さを含んでいるのが余計につらかった。

   ■

 いつも通りとは言えないまでも、当たり障りのないミニレポートくらいは書けた。あまり評価が良くなくても次の授業で挽回出来る程度だろう。
 フラッシュバックのように不意に快感が走るのは変わらなかったが、取り繕うのは随分と慣れたので、授業終わりにコアラと話した時にも不審がられることはなかった。元々ポーカーフェイスは苦手じゃない。
 ──それなのに。

「んな顔して授業受けてたのかよ、サボ」

 迎えに来て正解だった、と眼前の男は一人で納得しながら当たり前のようにそこに居た。
 砂糖漬けになっちまったおれの頭が幻覚を見せているのでなければ、講義棟の出口に停められた厳ついバイクの前で、長い脚を組んでモデルもかくやという雰囲気でおれを待っていたのは──どこからどう見てもエースだった。

「え、エース、なんでここに、っつーかバイクでここまで入れねェだろ!」
「あ、やっぱバイク駄目だったか? さっきから見られまくってんなとは思ってた」

 見られまくっているのは進入禁止を堂々と破っているからではなく、あまりにもエースのその姿が格好良くて絵になりすぎているからだろうけれど、今はそれは置いておこう。うるさい奴らに見つからない内に、エースとバイクを近くの駐輪場まで連れて行く。自転車専用の場所だが、まだ講義棟の真ん前よりは目立たないだろう。裏手の方だからか人気が無いのも好都合だ。

「バイクはともかく、何で迎えになんて来てんだよ。エースも必要ないって納得してたろ?」
「送りに行かねェことは了承したが、迎えに行かねェとは言ってないからな」
「だから……ああもう、迎えも要らねェんだって!」

 屁理屈めいた言葉を繰るエースの飄々とした態度に、おれはつい声を荒らげてしまう。

「どうしたんだよサボ、心配してたんだぜ?」

 驚いた様子のエースが音がしそうなほど瞬きを繰り返すが、おれはまたしてもその『心配』の一言がやけに引っかかってしまう。
 ──エースに抱かれるのはヨかったけど、『そういう扱い』をされたくはない!

「夜道を歩く女子相手じゃあるまいし、心配なんて、」
「受け入れる側はホルモンバランスやらジリツシンケーがどうとかで、調子崩しちまうことがあるって聞いてたから」
「……え?」

 エースの口から想定外な言葉が飛び出して来て、今度はおれの方が驚く番だった。ホルモンバランス? 自律神経? ああ、そうか、もしかして元々の機能とは違う用途で使ったから身体がビックリしちまってんのか? 
 自分の身体の変調が妙に腑に落ちてしまって、おれは急に毒気が抜かれてしまう。体力には自信があったし、エースも優しくしてくれたし、最中はともかくこうやって後を引くことなんて有り得ないと思い込んでいた。

「──って、なんでエースがそんなこと知ってんだよ」
「なんでって……サボのこと絶対抱きたいって思ってたから。抱いた後のこともそりゃ調べるだろ」

 何を当たり前のことを、と謂わんばかりにエースは首まで傾げてくる。抱いた後のことだって? おれは男同士のヤり方調べたくらいで、それも結局本番じゃ何も考えられなくなってエース任せになってたというのに。

「そうか……ごめん。おれはてっきり……」

 セックスしたからって女扱いされ始めたのかと思ってた──とは続けなかったが、エースはおれの態度から何かを察したのだろう。おれの両肩に手を置くと、真正面から言い聞かせるように「あのなサボ」と切り出した。

「おれは多分、今なら裸足で火の海を全力疾走出来るし、走るバイクの上で三点倒立も出来るし、空も飛べる」

 突然すぎる謎の宣言に、おれは口をあんぐりと開ける。

「は? どうしたんだエース?」
「迎えに来たのは──サボの心配したってのも嘘じゃねェが──もっと単純に言っちまうと、昨夜のこと思い出して全然眠れやしなくって、お前の顔見たくてたまらなくなっったっつーか……つまり、だ」

 分かるだろ、とエースはおどけたように肩を竦めて続けた。


「おれ、今、めちゃくちゃ浮かれてんだよ」


 エースはそう言って心底幸せそうに笑うと、おれの肩を引き寄せて抱き締めてくる。愛しさを微塵も隠さないその抱擁に、感じやすくなっていた身体は元より、不安の消えた心もまた鳥の羽ばたきのように打ち震えた。
 ──ああ、これは確かに『そう』だな。
 甘いおののきに指の先までじんわりと冒されながらも、静かに目を閉じてエースの背中に腕を回す。そこには翼のひとつもないというのに、確かに、今なら一緒に空だって飛べそうな気がした。


                      【完】


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