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▼ とっておきの秘密にはうってつけの夜だから


   ■

 良い島だ。
 近くに居るならメシでも食おうと、久々に兄弟──サボと落ち合ったこの島は、たまたまお互いの陣の中間地点というだけだったにも関わらず、小さいながらも夜中まで店も開いているし、随分と気候も良い。
「外の席にして良かったよなァ」
 丁度同じことでも考えていたのか。のんびりとした口調で言うサボの前髪を、涼やかな夜風が揺らす。
 エースはそれを斜め向かいから、頬杖をついて眺めていた。真横でもなく、真正面でもなく、円形のテーブルを斜めに囲むこの座り方は『今の関係』を象徴するようで、そう思えば少しばかり性急に距離を詰めたくもなるが──焦って失くしてしまうのだけは耐えられない。常に無いほどの慎重さを笑顔の下に隠し、エースはグラスの中身を飲み干した。
 それに、良い店だ。
 続くようにグラスを空けたサボと言葉もなく笑みを交わし、エースは片手を挙げて店員に合図をする。よく気のつく店員はすぐに新しい酒をボトルごと置いていった。
 海辺のレストランらしく小洒落た名前がついたこの店は─今は時間帯ゆえか酒場も同然だったが─料理も酒も間違いなく一級品だ。甲板のごとく海に張り出したテラス席には、他にテーブルが五つ、否、六つ。どれにも客が座っているが、どんちゃん騒ぎのような喧騒もなければ、お高く止まったような静寂もない。トーンダイアルから流れる聞き覚えのない異国の音楽がさりげなく会話の隙間を埋め、互いの声をもっと聞こうと自然と顔を寄せ合えるような、何とも丁度良い雰囲気だった。
 つまりは、良い夜なのだ。
 何度目かの乾杯をしながら、エースは唇に残った酒を舌なめずりよろしく舐めとって内心思う。
 良い夜だ、良い夜に違いない──もしかしたら、エースが抱える『たった一つの秘密』を打ち明けてしまうのに最適なほどに。
 盃の契りを結んだ、かけがえのない三兄弟。お互いの間に隠し事なんて無いはずだったのに、いつしかエースの胸にはサボにだけは言えない気持ちが芽生えていた。
 兄弟の絆すら壊しかねないのに燃え上がってやまない『それ』を何と呼ぶのか──気付いてしまえば夜ごと夢にすら見るようになった。穢すような真似をしたいわけでもないのに、その瞬間に浮かぶ顔はサボだけで、こうなってはもう言い訳だって出来やしなかった。
 サボが好きだ。
 好きで、大好きで、どうしようもない。
 エースは、大事な兄弟に、秘密の恋を抱いている。
 勿論そんなこと本人においそれと言えるはずもない。相手はエースのことを兄弟としか思っていないはずなのだから。
 それでも、今、この夜ならば、もしかすると。
「──見ろよ、エース。アレどういう仕組みだろうな?」
 エースの思惑など知りもしないサボは、手酌の酒を持ったまま、会話のついでのように人差し指だけを立てて沖合を指し示す。
 指摘されて漸く気付いたと目を向ければ、そこには炎めいた光が等間隔に揺らいでいて、波間に淡い橙色の光を纏わせている。何らかの境界線なのか、或いはこれすらも店の用意したロマンティックな演出なのだろうか。
「ああ、なんか浮かせてんのかもな。それか夕日色に光るクラゲでも波間にくくりつけてるとか?」
「いや、クラゲの光り方じゃねェだろ。ガラスの玉に蝋燭の光でも閉じ込めて浮かせてんのかな」
 エースの冗談に真面目に答えてから、サボはじっと灯りの方を見つめる。サボの整った横顔が、ほんの僅かな切なさを滲ませていた。
「……お前が夜にストライカーで帰って行く時、島から見るとあんな感じなんだ。浮かぶ炎が暗い海を染め上げて、すげェ綺麗で、でも何だか……いや、うん」
 サボは最後まで言うことなく、言葉を濁してグラスに唇を寄せる。「この酒、さっきまでのより強いな」等と笑いながら。
 ああ、この顔だ、とエースは思う。
 たまにサボがするこの表情が、エースの浅はかな期待に薪をくべて已まないのだ。青く透き通る瞳の奥に、自分と同じ昏く熱い炎が宿っているような、まるで、サボもまた誰にも言えない秘密を抱えているかのような。
 やはり今夜しかない──エースは内心グッと腹に力を入れて覚悟を決める。イチかバチかの大勝負だが、この夜の雰囲気は確実にエースの味方をしている。
 今なら伝えられるはずだ。驚かせないように、さりげなく、たった一人の相手に、たった一つの秘密を。

「っつーか、サボって好きな奴とか、付き合ってる相手とか居んの?」

 それは結局のところ、然程さりげなくもなく、前後のつながりもないような一言だった。しかし、サボが驚きの声を上げることもなかった。

 ──ただ、サボの手にしていたグラスが、破裂音と共に粉々に砕け散っただけで。

 うおっ、と目を瞠って慌てたのはむしろエースの方で、サボは真顔のまま、平坦な声で静かに問い返してきた。
「な……んで、そんなこと、聞くんだ?」
 飛ぶようにやってきた店員が心配げに話しかけてきても、周りの客の視線が一気に集まっても、サボはまるでそんなもの視界にも入っていないかのようにエースを真っ直ぐ見つめてくる。エースが簡単な礼と共に店員を追い返している最中も、サボは自分がグラスを割ったことにすら気付いていないほど無反応だった。
「なんでって、いや、まあ、おれらも年頃? だし?」
 どう答えて良いものか分からず、互いに語尾を上げながら疑問文ばかりのキャッチボール。決めたばかりの覚悟も着地点を見失ってしまい、エースは浮ついた気持ちを持て余して頬を掻く。
「そうか……うわ手袋すげェ濡れちまった」
 結局問いには一つも応えないまま二度三度頷いたサボだったが、そこで漸く自分の手の内の異変に気付いたようだった。
 食事時でも外さないその手袋は、確かに酒にまみれ、指先から雫が滴り落ちている。テーブルの上で軽く手を振るがそれくらいで乾くはずもなく、サボは観念したのか中指の先を軽く噛んで手袋を引っ張った。
 そうして緩んだ手首に反対の指を差し込んで少しずつ脱がしていくのを、エースは生唾を飲む心地で凝視する──黒い手袋の下からサボの白い指先が見えてくるのを、一瞬足りとも見逃さないように。

 たったの手袋一枚だ。
 それなのに、まるでストリップかのように興奮する。

 思えば、本当にサボは滅多に手袋を外さないのだ。最後にその手を直に見たのがいつのことなのか、エースには思い出せないほどに。もしかしたら記憶はコルボ山の頃にまで遡るのかもしれない。
 露わになった手指は、サボにとっては武器にも等しい『爪』であるにも関わらず、想像していたよりもずっとすんなりとして靭やかだった。
 その手が確かな強さを持っていることをエースはよく知っていたが、武器を振り回し敵を掴み抉るよりもいっそ羽根ペンでも持っている方が似つかわしいような、爪の先まで整った美しい手だった。
 殆ど初めて見たようなものとなれば、ストリップの比喩も的外れではない。隠された肌を己で晒していく手つきはどうしたって淫猥だ。

「サボのその手つきマジでヤラしい。いっそ食いてェわ」

 はあ、と微熱めいた溜息と共にエースは呟いた──呟いてしまった。
「……え?」
 サボの動きがぴたりと止まる。
 金色に縁取られた瞳が大袈裟な瞬きをする。
 まるで空が夕陽に染まるかのように、次第にサボの顔が紅潮していって、そこでエースは己の過ちに気付いた。
「……やべ、おれ、今──ッ!」
 慌てて自分の口を手で塞いでみるが、それで時が戻るわけでもない。淡い照明でも明らかなほどに顔を赤くしたサボは、口をわななかせながら立ち上がる。派手な音を立ててひっくり返った椅子に再び周囲の視線が集まるが、今度はエースもそんなもの一切視界に入らなかった。
「……なっ、待っ、エース、それどういう、」
 よろけるようにしてサボは後ずさる。震える唇はまともに言葉を紡げていないし、目は泣き出しそうなくらいに揺れていて、顔色はもはや湯気が出そうなほどだ。
 エースもまた立ち上がり、サボへと手を伸ばして必死に言い募った。
「誤解だ、サボ! 別におれはお前の手を、肉みたく食いてェと思ってるわけじゃねェんだ! ただその指舐めしゃぶってやったらどんな顔すんのかなとか、手袋外すだけでもストリップみたいでエロすぎるから勘弁してくれとか、そういう……って、ああクソ、落ち着け、おれ!」
 言い訳しようと発した言葉は墓穴を深くする一方だ。急に思い切り押し付けてしまった欲望を何とか撤回しなければと思うのに、結局のところエースはサボに嘘がつけない。だって本当のことなのだ、いっそ食べてしまいたいほどだというのも──勿論、そういう意味で。
 エースが混乱して妙な事を口走っている間、サボもサボで「違うんだ、おれ、」と謎の言い訳をしながら、なおも距離を取ろうというように後ずさっていた。
 だが、ここは所詮レストランのテラス席。永遠に後ろ歩きで進めるはずもない。
「おい、サボ! 危ねェ!」
 気付いたエースが叫んだ時には既に遅かった。
 後ずさるサボの踵はテラスの、海に張り出した甲板のごときその場所の一番端まで差し掛かっており──次の瞬間、サボは「みぎゃッ」という謎の声と共にエースの視界から消えた。
 刹那遅れて上がる水飛沫に、周囲の客の悲鳴が重なる。
「──サボ!」
 駆け寄ったエースは、そのままサボを追って躊躇なく海へと飛び込んだ。『事情』を知らない者が見たならば、惚れ惚れしてしまうほどの、とても綺麗なフォームで。


   ■


 それから数十分後、元のテラスにびしょ濡れの男が二人で座り込んでいた。
「なんで、お前が、飛び込んでんだよ……!」
「サボを助けようと思って、つい」
 悪魔の実の能力者であるエースは海に嫌われて泳げない。結局、先に海に落ちたサボの方が後から飛び込んできたエースを助けることとなり、店員の手も借りつつ何とか店のテラスへと戻った形となった。言ってみれば二度手間であるため、サボの怒りも尤もだ。
 騒ぎのせいで客達は皆揃って建物の中へと入って行き、がらんとしたテラスに残されたのは二人きり。なおも流れる異国の音楽だけが何とか夜のムードを保とうと繰り返し流れ続けていた。
「だから悪かったって。自分が泳げるかとか考えてる余裕なんざなかったんだ」
「考えなくても分かるだろ、一生カナヅチなんだからよ」
 店員から渡されたタオルをぎゅっと絞るサボの声は呆れていたが、しかし、海に落ちるほどだったあの狼狽はもう影も見えない。
 マズイ、とエースは焦る。力の抜けた手でサボの服の端を掴み、「待て」と請う。
「頼むサボ、待ってくれ」
 どこにも行こうとしていないのに「待て」と言われたためか、サボは驚いたように目を丸くする。けれどエースは必死だった──まだ『この夜』を終わらせないでほしいから。
 きっとサボは上手く誤魔化して、このまま笑い話で済ませて日常へ返ろうとしているに違いない。気持ちは分かる、エースだって一度は撤回すべきかと思った。
 だが、サボのこの反応を見てしまっては、もう大人しくただの兄弟になんて戻れやしない。
「さっきは勢いで口にしちまったけど──本気なんだ。生半可な気持ちじゃねェ」
 そう告げて真っ直ぐ見つめた先では、纏おうとしていた兄弟の仮面を剥がされたサボが、再び泣き出しそうな表情で唇を噛んでいる。良い顔だ、とエースは思う。こんな顔、きっと他の誰も知らないに違いない。
 掴んだ服の濡れそぼった感触とテラスを吹く涼しい風に、エースは暫し思案してから提案した。
「……とりあえず、宿にでも入ろうぜ」
「や、宿っ?!」
 素っ頓狂な声を上げたサボがおかしくて、エースは声を出して笑ってしまう。
「んな過剰反応すんなよ。まずはお互いびしょ濡れなのどうにかしようぜ?」
 それから、と続けてエースは愛おしげに目を細めた。
「──改めておれの話を聞いちゃくれねェか。実はお前にずっと黙ってた、『とっておきの秘密』があるんだ」
 サボは薄く開いた唇を僅かに動かしかけたが、結局何も言わないまま持っていたタオルに顔を埋めてしまう。けれど、それが拒絶を意味するのではないとエースには分かっていた。幾らタオルで隠したところで、夜目にも耳まで赤く染まったその顔色が何もかもを物語っている。
 やがてサボはこくりと素直に頷くと、タオル越しのくぐもった声で語りだした。
「……おれも……お前にずっと黙ってた『秘密』……が、ある……絶対墓場まで持っていくことになると思ってたのに……嘘だろ、こんな、」
 こんなことあって良いのかよ、という最後の言葉は少しだけ震えていた。良いに決まってると笑い出したい気分だったが、それは後でじっくり伝えることにしよう。
 ロマンティックなムードは霧散して、二人揃ってびしょ濡れで座りこんで、こんなの目も当てられやしない。
 それでもエースは、全世界の奴らに大声で宣言してやりたいくらいだった。誰が何と言おうと今夜は文句無しに良い夜だ。きっと一生、忘れられない夜になる。

                      【完】


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