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▼ laughing at the drop of a hat(帽子が落ちても面白い)


 腹の上に心地よい温かさと程よい重みを感じて、エースは目を覚ました。
 ひんやりと乾いた風が頬を撫でると同時に、残飯の匂いが鼻をくすぐる。
 ──んだ、ここ、外か?
 どうにも昨夜の記憶が曖昧だ。
 サボから「到着が遅れる」と連絡があったのは覚えている。最速でも明日の昼頃になってしまうと何度も謝られて、エースは構わねェさと笑ってやった。ここまでは確かだ。埋め合わせは必ずするから、という迂闊なサボのセリフだってしっかり頭に刻んでいる。
 それなら酒でもひっかけるかと手頃な店に入って、見知らぬ常連客と盛り上がって、そこから……どうしたのかが分からない。
 とはいえ、ここで微睡んでいても始まらない。未だによろしくやっていたいらしい上まぶたと下まぶたを無理やり引き離して起き上がろうとすると、エースの腹の上で、にゃあ、と抗議めいた鳴き声が聞こえた。

「は? 猫?」

 一気に覚醒して辺りを見回してみると、どうやらエースは狭い路地裏を塞がんばかりに大の字になって眠っていたらしい。しかも、いささか低い気温のせいか、暖を求めた野良猫が集まってきており、腹の上に二匹、足元にも二匹、ついでに脇のあたりにも一匹、とすっかり囲まれてしまっている。
 流石に面食らったが、恐らく『なわばり』に邪魔をしたのはエースの方だった。すっかり暖房扱いされたところで邪険にするわけにもいかなかった。

「悪ィな、世話になったみてェだ。ただ……そろそろサボが来るかもしれねェし、降りてもらっていいか?」

 上半身を起こしたエースは、腹の上で迷惑そうにしていた猫たちの顎を撫でてやってから、「よっ」と掛け声ひとつで地面へと下ろす。野良猫の割には随分と重い。中々この辺りは実入りが良いようだった。
 尻尾を踏んでしまわないよう慎重に立ち上がると、猫たちはエースのブーツに身体を擦り付けながら、じっと上向いてニャアニャアと鳴き始める。まるで行くなと引き留めるようなその様子にエースは小さく笑いをこぼしてしまった。

「無理言うなよ。行きずりで一晩過ごしたなんて知れたら浮気を疑われちまう」

 猫相手にサボが悋気を起こすはずもなかったが、エースはそう嘯くと最後まで付いてきていた猫をひと無でしてから街のメインストリートへと足を向ける。
 寒々しいくせにやけに目を刺す太陽の光に目を細めつつ、サボが船を着けるならどの湾岸だろうと思いを馳せる。それこそ猫科よろしく大きな欠伸をしながらそぞろ歩くエースは、この時はまだ、己が失った物に気付いていなかった。

   □

 顔を合わせるなり、「待たせて悪かった」とサボはしきりに繰り返した。
 いつものように任務の都合ならば『お互い様』で、サボの方もこれほど謝り続けないのだが、どうやら今回の原因は急な時化(しけ)のせいだったらしい。サボが針路を決めたこともあって、いつもより『自分のせい』という思いが強いようだった。

「気にすんなよ。この海の天候なんざ早々読めるもんじゃねェさ」

 サボが幼い頃から航海術を学んでいることを、エースは誰より──そう、誰より知っていたが、ことグランドラインにおいては机上の航海術だけでは太刀打ち出来ないことも多い。もはや天性の肌感覚でもなければ不可能だ。
 サボもそれは分かっているはずだが、それでも珍しく落ち込んでいるので、エースは再度「気にすんなって」と繰り返してその肩を引き寄せた。

「こうやって無事におれの腕ん中に帰って来てんだから、それだけで十分だ」
「……ああ、『ただいま』」

 ──は? ただいま、だって? なんだこいつ可愛い。好きだ。幸せすぎる。
 はにかみながらも応えてくれるサボが愛しくて、エースはじんとした多幸感に思わず目の奥を熱くする──が、続いたサボの何気ない一言が急にエースの体温を下げた。

「あれ、エース。今日は帽子が無いんだな。珍しい」
「……え?」

 帽子。
 が。
 無い。
 一瞬、ほんの三つの単語が理解出来ずにエースは固まってしまう。そして、サボの肩を抱き込んでいた腕を錆びた道具のようにぎこちなく離し、己の頭の上と首の後ろを探ってみた。その手は虚しく空を掴むばかりで、トレードマークとも言えるあの帽子の感触は全く指先に触れない。
 そこでエースはようやく先程のサボの言葉を、その単純な三つの単語の意味を飲み込んだ。

「──ッ、帽子が無ェ! なんでだ!?」
「なんでって、まさか帽子失くしたのか?!」

 数拍遅れて発せられた叫びに驚いて、「嘘だろ!」とサボが目を丸くする。
 エースは咄嗟に自分の歩いてきた方を振り返るが、勿論そこにもあの橙色は影も形もない。

「嘘じゃねェよ! 昨日までは確かに被ってたのに!」
「宿に置いてきちまったとか?」
「いや、昨日は宿泊まってねェんだ。起きたら路地裏だった」
「路地裏ってお前……、」

 サボは何か言いたげに眉を寄せたが、しかし、「まあいい」と一人頷いてから思案げに己の顎へ指を寄せた。

「そうだな、じゃあ、その路地裏に戻ってみるか?」
「いや、ちょっと色々あって何度か振り返ったから、もし落としてたならその時に気付いてるはずだ。ってことは、昨日飲んだ店……か?」

 あまりにもエースにとって『帽子』というものが日常過ぎて、どの時点まで被っていたのか正確に思い出せない。ましてやサボと違い、エースは被っていない時は気軽に首に引っ掛けてもいるので、余計に紛失したタイミングが不明瞭なのだ。

「分かった、それならその店に行こうぜ。お前の大事な帽子とはいえ、一般には換金性の高いもんじゃねェんだ。治安も悪くなさそうな島だし、保管されたり手つかずで置いてあったりする可能性は十分ある。昨日の足取りを順番に追っていこう」

 早い方がいい、とサボは真剣な瞳で頷く。その顔に『参謀総長』としての気配を感じて、エースはいささか決まり悪く己の頭を掻いた。

「……悪ィな、サボ。着いたばっかだってのに」
「気にすんなよ」

 先刻のエースと似たような調子で軽く応えると、サボは表情を和らげて微笑んだ。

「エースの大事な物なんだから、おれだって早く見つけて安心してェよ。それに──失くした帽子のことが気になってちゃデートどころじゃねェだろ?」

 悪戯げに付け加えながら、おどけて肩をすくめてサボは続ける。

「『おれのために』も、早く帽子見つけねェとな、ってこと」
「……はは、違いねェな。あー……しっかし、マジでどこで失くしちまったんだろうな。無いと気付いたら途端に落ち着かねェよ」
「そうだなァ。とりあえず、おれのでも被っておくか?」

 そう言うとサボはエースの返事を待たずに、自身の帽子をぽんと被せてくる。ふわりとサボの香りがしたが、エースは片眉を上げた。

「ガラじゃねェだろ」
「そうか? 結構似合うと、ふっ、思うけどな?」
「おい、笑いこらえきれてねェぞ!」
「あはは、だってお前──」

 愉しげに笑うサボは、トップハットを返そうとするエースの手をすり抜けて走り出す。
 思えば久々の逢瀬だ。早く己の帽子を見つけてデートを再開しようと、エースもそう思った。

   □

 結論から言うと、エースの帽子は、辿った足取りのどこにも見つからなかった。
 昨日飲んだ店に行けば「帽子なんて知らない」と言われたばかりか、堂々と無銭飲食をしていたらしく街中を追いかけ回されてしまった。
 目が覚めたあの路地裏も見てみたが、帽子はおろかあの猫たちの姿もなくなっていて、単に饐えた残飯の匂いがするばかり。律儀にゴミまでひっくり返して探す二人の姿はまるでグレイターミナルの頃のようで懐かしくもあったけれど、それでも肝心の帽子は見つからないままだ。

「……誰かが気に入って持ってちまったのかなァ」

 石造りの建物に背を預けて、サボはまばらな通行人の持ち物をさりげなくチェックしている。
 エースはというと、サボの隣でがくりと肩を落としていた。まさかここまで見つからないとは思っていなかったのだ。

「クソ、おれの帽子だぞ……」
「エース以外に似合うわけもねェのにな」

 当然のように頷いていたサボだが、不意に「……ん?」と身を乗り出した。

「……! エース、見ろ、アレ!」

 疑念を確信に変えたサボは、通りの向かい側を指さしながらエースの肩を叩いてくる。顔を上げたエースが見遣ると、そこには十歳にも満たないようなワンピース姿の少女が、その体躯には不釣り合いなほど大きな橙色の帽子を被って歩いていた。

「あっ! おれの帽子!」
「待て、エース!」

 思わず身体を浮かせて駆け寄ろうとしたエースの胸をサボの片手が押し留める。

「お前が行ったら怖がらせちまうかもしれない。おれが行くよ」
「ん? いや、おれだって別に、」

 エースは自分の顔を指差して言い募ったが、サボはエースの反駁を待たず、すっと音もなく歩み出す。
 ──別に、おれだってガキを怖がらせたりはしねェんだけどな。
 そりゃサボと比べたらサボの方が、でもワノ国では……等と考えつつも、既にサボは行動にうつしているのだから、エースとしてはゆっくり後をついていくことしか出来ない。
 大通りを横切ってその背に追いつく頃には、サボは少女の前に片膝をついて真剣な面持ちでうんうんと話を聞いていた。
 ──あまり近寄りすぎてもなんだな。
 エースは足を止め、しゃがみこんだサボから少し離れたところで、それとなく様子を伺うことに決める。はたから見れば存分に怪しかっただろうが、行き交う人も少ないので大丈夫だろう。海兵を呼ばれたらその時はその時だ。

「……でね、猫ちゃんからもらったの……」

 少女の声はか細いが、エースの耳にも何とか届いた。少女は被っていた帽子をゆっくりと脱いだが、渡したくないとでも言いたげにぎゅっと前で抱き込んでいる。
 サボは「そうか、それはすごいな」と嘲りも侮りもない口調で至極真面目に頷くと、今度は打って変わって眉を下げ、少し甘い声で申し出た。

「ただ、その帽子、あっちのお兄さんの大事な帽子なんだ。すまねェが、返してあげてくれないか?」

 ──お、『お兄さん』!?
 後方のエースを親指でさしながらの言葉であって、そこに他意は無いのだろう。しかし、急にサボに優しい声音で「お兄さん」呼ばわりされたエースは謎の動悸に襲われてしまう。
 ──悪くねェ、全ッ然悪くねェ……!
 内心拳を握らんばかりに感じ入っていたエースだが、そんな浮ついたエースを他所に、少女は頑な様子だった。

「でも、猫ちゃんから……」

 いっそ泣き出しそうに顔を伏せてしまった少女に、サボは「そ、そうだよな! えっと、それじゃあ、そうだな……」と慌てて両手を振っている。
 何か助け舟を出すべきか。エースは迷ったが、けれど今出ていって一体何が出来るだろうか。無理に取り上げるわけにもいかないし、サボの横に並んでしゃがみこんで誠心誠意頼むくらいしか思いつかない。
 どうしようかと考えあぐねている内に、サボが「そうだ!」と快活な声を上げた。

「じゃあ、代わりにリボンはどうだ? しかも真っ白なリボンだ」
「リボン?」
「ああ。ちょっと待ってろ」

 サボはそう言うと己の首元に指を引っ掛ける。絹の擦れるような音と共に引き抜かれたのは、サボが巻いていた白いクラヴァットだ。

「おい、サボ──」

 驚いたエースは思わず近付いてしまうが、そうしている間にもサボは器用に白い布を結んで、大ぶりなリボンをかたどってみせる。

「ほら、そっちの帽子も格好いいけど、こっちのリボンも良いと思わねェか?」
「思う!」
「お、っと!」

 少女はエースの帽子をサボに押し付けると、代わりにリボンを手に取って嬉しそうに飛び跳ねている。やがて、道の奥に女性の─恐らく母親だろう─姿を見つけると、ありがとうと手を振りながらあっという間に駆けて行ってしまった。
 サボは少女に手を振り返してから、ゆっくりと立ち上がってエースへと向き直る。

「ほら、エース! 良かったな、返してもらえたぞ!」

 受け取った帽子の形を軽く整え、サボは満足そうに笑ってエースへと手渡してくる。
 だが──エースとしては複雑だ。
 あんな小さな子ども相手にどうこう言う気はないが、結果としてエースの物を取り戻すためにサボの物をあげてしまっている。

「ありがてェが……代わりにお前のタイをあげちまってんじゃねェか」

 受け取った帽子を手にしたまま、エースは僅かに目をすがめた。エースの心の深い部分に根を張っている、嫌な思い出が頭を掠めたからだ。エースやルフィを助けるために、『あの日』、サボは──。
 けれど、サボはあっけらかんとした様子で答える。

「あんなの船に戻ったら予備もあるから平気だって。怪我した時なんかは包帯代わりにして使い捨ててるからな」

 あ、さっきのは今日おろしたばかりの新しいやつだぞ、と訊いてもないことを付け加えてサボは目を細めた。

「──どうやら帽子をくわえて引きずっていた野良猫が、あの子の目の前でそれを置いていったらしいんだ。きっと、猫からプレゼントもらったような、そんな特別な気分になったんだろ。それならこっちもプレゼントで対抗しなくちゃな。物々交換ってやつだ」
「でもよ、」
「まあ、良いじゃねェか。帽子は無事に戻ったんだ」

 サボはそう言ってエースが手にしたままの帽子を取り上げる。そして、そのままエースの頭に乗せると、心底満足そうに微笑んだ。

「……うん、いつものエースだ。やっぱり海賊は帽子被ってねェとなァ」
「サボ……」
「にゃあん」
「「ん?」」

 エースが湧き上がる気持ちのままにサボを抱きしめようとしたその時、エースの足元で甘えるような猫の鳴き声がした。見下ろしてみると、今朝エースの腹の上を陣取っていた猫がすり寄ってきている。しかも路地へと目を遣れば、何匹もの猫たちがぞろぞろとこちらへやってきているところだった。朝に見た数よりもずっと多い。

「あっ、お前、今朝の猫ッ! お前らの内の誰かだろ、おれの帽子勝手に持ってっちまったのは!」
「なんだエース、知り合いか?」

 猫相手に威嚇するエースにサボは含み笑いで問いかけてくるが、揶揄の響きにも気付かずにエースは「ああ」と真っ当に答える。

「知り合いっつーか、酔って路地裏で寝ちまって、起きたらこいつらに腹の上だの何だのに乗っかられてたんだよ!」
「なんだって?」

 サボが急に剣呑な声を上げる。腕を組んで顎を引き、じっと上目遣いでエースを睨みつけてまでした。

「おいおい……酔って一晩一緒に過ごして腹の上にまで乗られてたなんて、そんなの浮気じゃねェか。なに堂々と言ってんだよ」
「は!? いや、相手は猫だぞ!?」

 自分が言った軽口がまさか現実になったとは、とエースが慌てて声を裏返すと、サボは、ふっ、と噴き出して身体を揺らした。

「はは、冗談に決まってんだろ! 焦り過ぎだぞ、エース!」

 流石に猫相手に嫉妬しねェよ、とサボが大いに笑うので、からかわれたエースは問答無用で手を伸ばし、サボの帽子を奪い取ってやる。「わっ」だの何だのと驚いた声を上げるサボに己の被った帽子のつばが当たらないよう顔を傾けると、くすぶる想いの全てをぶつけるように、息も出来ないほどのキスをしてやった。

                                      【完】


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