▼ n回目の夏、依然、親友のまま
アパートの扉の前で、何かが鈍くきらめいている。
それが玄関前に座り込んだサボの髪だと分かった途端、おれは騒がしい足音を立てて廊下を駆け出していた。騒音がどうとかダダンからの文句が掲示板に貼ってあったが、そんなの知ったこっちゃねェ。
なんたって今日は最高気温三十九度。
おれの体温ですら超える真夏日なのだから。
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「何やってんだ、サボ!」
お世辞にも綺麗とは言えない、くすんだコンクリートに座りこんで、サボはしどけなく両足を投げ出したまま棒付きアイスを口に含んでいた。
流石に暑いのだろう、半袖のボタンシャツは胸の真ん中あたりまで豪快に開けられていて、美味そうに茹で上がった肌に今もまた一筋汗が伝い落ちていく。
──完全に目の毒だ。そのくせ視線を剥がせない。
「おっ……やっと帰ったな。お前の分のアイスも食っちまってるぞ?」
もはやバニラシェイクみてェだけど、と平然と笑いながらサボはおれを見上げてくる。汗で濡れそぼった前髪から覗くその上目遣いは、疲弊が滲んでもなお透き通って見えた。思わず、暑さ由来じゃない渇きを覚えておれは唇を噛む。
落ち着け、おれ。平常心だ。惚れた相手が猛暑の中座り込んでんだから、他に考えることが──。
「っと、舐めてねェとすぐ垂れちまう。今日、暑ィな」
「ッ、お前なァ!」
何とか冷静でいようとするおれの葛藤を他所に、手首から伝い落ちた白い液体を舌先で舐め上げやがるんだから、これが無意識じゃなけりゃこの場で押し倒してるところだ。男同士だからって無防備な真似しやがって。
──って、今はそれどころじゃないんだった。
「アイスはどうでもいいが、なんでこんなクソ暑いのに玄関前で待ってんだよ! 来るなら先に連絡しろ!」
おれだって駅から炎天下を歩いて帰ったばかりだから、まとわりつく熱気とびしょ濡れのTシャツも相まって沸点が下がっている。廊下にもかかわらず怒鳴り声を上げると、「いや、そもそも……」と反論しようとするサボの腕を掴んで無理矢理立たせ、乱雑に玄関扉を開けて部屋へと押し込んだ。そもそも論なんて聞いてる暇ねェよ。
さっさと冷房つけてやらねェと、冷蔵庫の中って何があったっけ、シャワー浴びさせた方が良いんだろうか、アイス食ってたとはいえこの暑さだし、ゆだった顔はどこかぼんやりとしていて色っぽくて──ってそういうんじゃないっての! ああ、クソ、全然頭が回らねェ!
触れた肌の熱さはおれを惑わせるけれど、サボが熱中症だのなんだのになっちまったら大変だ。会話は出来るし、自分の足で歩いてもいるけれど、油断は出来ない。一体いつからあんな地獄の鉄板みてェな、風通りも悪い玄関先で待ってたのかも分からねェし。
「とりあえず、これでも飲んどけ!」
冷蔵庫からコーラのデカいペットボトルを取り出して、そのままサボへと押し付ける。グラスなんて上等な物出してる余裕はないが、今更気にしないだろう。
案の定、サボは「おっ、ありがとな」と軽い調子でコーラを受け取ると、ためらうことなくごくごくと飲み干していく。喉は渇いていたらしい。いきなりコーラで良かったのかと今更心配になったが、いつも通り飲んでるから多分大丈夫だろう。
そう──いつも通りだ。何度も上下する喉仏、ペットボトル飲む時に目を瞑る癖、少し紅潮した頬に落ちるまつ毛の影。
おれも再び別種の渇きに喉を鳴らしてしまう。ただコーラをラッパ飲みしてるだけのその姿にすら色気を感じてしまうなんて、おれは相当重症なんだろうな。
ああそうだ、とっくに参っちまってる。散々何年にも渡って言い訳を考えて来たが、そろそろそんな猶予もなくなってきた。惚れたが負けって最初に言い出したのが誰かは知らねェが、その通り過ぎて反論の余地もねェ。いっそのこと両手を上げて降参したいところだが──そう簡単にもいかない。
心配半分、視姦半分。どうにもならない気持ちでその姿を見つめていると、目を閉じていてもこちらの視線に勘付いたのか、サボはペットボトルから唇を離して「エース、なんか怒ってるけどよ」と低い声を出した。
「お前が言ったんだぞ、今日来いって」
「えっ」
「連絡もしたし。何度も」
拗ねたように眉を寄せたサボは、自分の尻ポケットからスマホを出すと、おれの目の前へ突き出してくる。
画面を埋め尽くさんばかりに並んでいるのは、おれへの発信記録だった。
そこで急に思い出した。
そうだ、火曜の昼過ぎに来てくれっておれが誘ってたんだった──ってことは今日が火曜か?! 最近バイトで朝帰りしてたせいで曜日感覚狂っちまってた!
「まあ、寝てんのかと思って電話したら部屋ん中から音聞こえたから、携帯忘れて出てんのは察したけどよ」
「わ、悪かった! でも……そんだけ分かってたなら待ってることなかっただろ」
「…………会えるもんだと思って出て来ちまったから、このまま帰りたくなくて」
「ん?」
「っつーか、ほら、そこにあるぞ? 携帯」
サボが指さした方へと顔を向けると、確かに台所のシンク横におれのスマホがうつ伏せで放置されていた。嘘だろ、こんな分かりやすいところに置いて行っちまったのかよ。ああ、でもそうか。家を出る前に水飲んだから、その時に忘れたんだろうな。
いたたまれない気持ちと共にひっくり返せば、サボからの着信も、その前に送ってくれたらしいメッセージも、余すところなくきっちり届いていた。
【今から行くぞ】【昼メシもう食ったか?】【ラーメン食いたくねェ?】【流石に暑いか】【エース、寝てんのか?】【とりあえず近くのコンビニ来た】【暑いしアイス買ってく】【誰か来てんのか?】【おれ行っていいのかよ】【アイス買う。バニラバーでいいよな?】【バニラバーにした】【エース起きろー】【でかけてんのか?】【電話する】──軽くスクロールしただけでもサボの困惑が伝わってきて、申し訳無さに頭が痛くなってくる。
約束しといて、忘れて出掛けて、スマホまで置いて出ちまって、それでサボを玄関前で待ちぼうけさせて──おれのせいで。
「こう見るとマジで最低だな……本当に悪かった。っつーか、やっぱ合鍵渡しとくわ」
そう、やっぱり合鍵を渡しておくべきだったのだ。
そもそも論なんて、と言っておきながらなんだが、『そもそも』おれはこのアパートに住み始めた当初からずっと、サボにスペアキーを持っていてくれるように頼んでいる。
サボならいつ部屋に入ってくれても構わねェしな。今日だって、サボが鍵を持ってりゃ、中に入って冷房だってつけられたんだ。
だが、しかし。
「えっ、嫌だ。断る」
──毎回、何故かサボは頑なに合鍵を受け取らない。
「なんでだよ! 良いだろ、いい加減受け取れよ。鍵ひとつくらい余分に持ってても邪魔にならねェだろ?」
告白もしてねェってのに合鍵ひとつに深い意味を持たせるつもりも無い。単にその方が便利だ、って言っているだけだし、大家のダダンだって相手がサボならむしろ「合鍵管理してくれ」って頼むレベルだろう。
だからこそ、おれは二心なくサボに合鍵を渡そうとしているのに、当のサボはペットボトルに残ったコーラを無為に揺らしながら「そりゃ邪魔にはならねェけど」と呟いて、おれから目をそらしたまま続けた。
「──だって合鍵使って入って、もしタイミング悪くお前が誰かと……『ナニか』してたら嫌だし」
「ハァ!? 何を変な心配してんだよ、サボ! 誰ともナニもしねェって!」
どうやらサボは、鍵を開けて入って、おれが誰かと一発ヤッてる可能性を危惧しているらしい……ってなんでだよ。
おれってそんなに軽そうに見えるか? バイト以外じゃ女子とも大して喋ってねェのに? 半泣きで頼まれても連絡先だって交換しねェくらいなのに? もはや周りの奴らは全員気付いているくらい一途にサボに惚れてんのに!?
しかし、おれのそんな想いなど知るよしもないこの鈍感野郎は、肩を竦めてどこか乾いた様子で言う。
「そんなの分かんねェじゃん。ひと夏の恋ってのも、あるかもしれねェし?」
──それが『分かる』んだよ。お前にも『分からせ』てやろうか。今すぐ、この場で。
あまりのサボの言葉にそんなセリフが一瞬頭をよぎったけれど、すんでのところでおれは口をつぐむ。
いい加減伝えなきゃならねェ。それは薄々気付いている。だが同時に、こればかりは慎重にいかねェとマズいとも知っている。
『親友』のまま重ねてきた夏の分だけ臆病になっているのは自分でも分かっているが、焦って逃せば全てが終わっちまうんだから。
「その、アレだ、エース……本当にひと夏の恋が始まったら、おれに一番に教えてくれよな? おれ達の間に隠し事は無し、だもんな?」
おれが黙っているのを良いことに、サボはそう言って笑いかけてくる。その言葉がどれほどおれにとって残酷かも知らないで。
「……いいから、ついでにコーラ全部飲めよ。おれタオル持ってくるわ」
サボのくだらねェお願いには答えずに、おれは背を向けて大股で足を進める。
何が『ひと夏の恋が始まったら』だ、バカサボ。この恋は、ひと夏で始まって終わるような、そんなお手軽なもんじゃねェんだよ。
【完】