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▼ 青薔薇だけが知っている


 長針が短針へと追いつき、ぴたりと重なる。
 零時になったのだ。たった今──多分。
 いささか自信が無いのは、懐中時計を貸してくれた船員から「島が特有の磁場を帯びているグランドラインの海上では、時計はそれほど正確には動かない」と聞かされていたからだ。
 ともあれ、エースにとって、今が本当に零時かどうかは大した問題でもなかった。要は、今日が『その日』であるとエース自身が思えるならばそれで良いのだ。
 酒盛りをするからと人払いをした船尾に佇んで、夜空に浮かぶ傷のような繊月を見上げる。月の光がほとんど届かない夜だからこそ、星々は惑うことなく輝いていたが、しかし手元を見るには少しおぼつかない明るさだった。

「っと、そういやァ……」

 エースは思い出してポケットに手を伸ばす。指先が触れたのは、コインを数枚重ねた程度の、小さな円形のキャンドルだった。
 出港前に寄った酒屋で店主がおまけだと言ってつけてくれたそれを、エースは甲板の手摺に置いて指先で火を灯してみる。淡く揺れる光は、エースが手のひらで燃やす炎よりも余程優しく広がった。

「確かに『今日』はこういう光の方が向いているかもしれねェな。すっげェ勘違いされちまってたが……」

 うまくやれよ、成功するよう祈ってる、ベタだがこういうのが一番効果的だからな──そう言って興奮に身を乗り出しながらキャンドルを渡してきた店主を思い出して、エースは苦笑いを浮かべてしまう
 店で一番上等なワインを買ったせいもあるだろうが、恐らくエースが薔薇一輪だけの花束を手にしていたから、今晩プロポーズでもするのだと勘違いしたのだろう。
 訂正する必要性も感じなかったのでそのまま受け取っておいたが、贈る相手は恋人でなく死んだ兄弟なのだと言ったら、あの店主はどんな反応を見せただろうか。存外、それでも構わず励ましてくれたかもしれない。広い世界には色んな奴がいる。花屋にも酒屋にも、幸せな人間ばかりが来るとは限らない。
 青い薔薇の花束と、木箱に入った上等なワイン。
 足元に用意していた二つの内、エースが先に手に取ったのはワインの方だった。仰々しい文字が焼印された木箱をスライドさせると、外身の割にはシンプルなボトルが入っていた。貼られたラベルに記された海円暦は随分と昔のものだ。

「おれとお前が産まれた年より、ずっと前の酒だぜ」

 酒ってのは長生きだよな。そう呟いてから、エースは船の手摺に肘をかけ、ワインのコルクを行儀悪く歯で抜き取って足元に吐き捨てる。
 そうして、自分よりも年上のその最上級のワインを、惜しむことなく波間へと注ぎ入れた。

「──サボ、誕生日おめでとう」

 半分ほど注いだあたりでボトルを返し、瓶に口をつけて残りを飲む。一口目から広がる豊饒な味わいは確かに上等なものだった。きっとサボも気に入ったことだろう。記憶の中のサボは子どものままで、酒を飲んだのだって『あの一回きり』だけれど。

「でも、まあ、おれ達は似た者同士だしな?」

 サボがどんな酒を好んだかなど今となっては知る由もないが、エースの口に合うならサボだって喜んで飲んだはずだ。かつてゴア王国でラーメンを食わせてやったら、いたく気に入って、それからずっと食事の度にラーメンの話をしていたことを思い出す。
 「そんなに食いてェならまた食いに行けばいいだろ」と、あの頃のエースは呆れた素振りで答えてすらいた。
 そんな毎日が続くと信じていたのだ──サボが居なくなった『あの時』までは。

「……思ったより強ェ酒だな。お前も酔っ払っちまってなきゃいいが」

 目の奥が熱くなったのも、胸の奥が痛んだのも、全ては酒のせいだ。
 そういうことにしておいて、エースは空になったワインボトルを甲板に転がし、今度は一輪だけの花束を拾い上げた。
 食えもしない花になんて興味はない。エースがそうなのだから、きっとサボもそうだろうとは思う。
 けれど、その薔薇はやけにエースの目を惹いてやまなかった。
 目に焼きつくような鮮烈な青の中に、在りし日の姿を重ねなかったといえば嘘になる。
 珍しい品種ゆえに一輪しか残っていないと聞かされたが、構いはしなかった。むしろ一輪だけでも誕生日祝いになるのかと花屋に問い返したくらいだ。
 エースのその態度に、花屋も何かしら勘違いをしたのだろうか。驚くほど親身になって、蝋引きの紙で丁寧に包み、花と同じ青いリボンまで結んでくれた。勧められたメッセージカードだけは丁重に断ったが、今思えば、添えてしまっても良かったかもしれない。もしそうしていたら自分は一体カードに何と書いただろうか。

「花なんざガラでもねェが……綺麗な薔薇だろ?」

 エースは暗い波間を見下ろしながら語りかける。

「何とかって天才科学者が開発に成功した、珍しい青薔薇なんだってよ。花言葉ってのが以前と変わったとかどうとか言ってたが……悪ィ、忘れちまった。まっ、気にすんなよ。とにかく、お前に似合う花だと思っただけだ」

 ほらよ、とエースは細い花束を海へと投げ入れる。キャンドルの灯火も眼下の海にまでは届かず、ほどなく青い薔薇は夜の波にかき消えた。
 けれども、エースは目を凝らして、出来得る限りその行く末を見続ける。
 海に消えた兄弟のことを忘れたことなどない。
 山に墓はたてなかった。だから、広い海の全てがサボの墓標だ。
 この海を征く限り、エースはこれから先もずっと、サボと共にある。
 借り物の懐中時計の長針はとっくに短針を追い越している。
 記憶の中のサボを置いて、エースばかりが歳を重ねていく。
 ──それでも。

「おれが覚えてる。お前が生まれた日も、お前が生きた日々も、全部」

 誕生日おめでとう、と今一度エースは呟いた。
 東の海は遥か遠くなってしまったけれど、いつかあの海の底へまで、花びらの一枚だけでも届けば良い。

   □

 同日の明け方。陽もまだ上がりきらない時分から、サボはとある島の浜辺を一人そぞろ歩いていた。
 特段目的があったわけではない。五日はかかるだろうと言われていた単身任務が一日で終わってしまったため、サボは目下待機中の憂き身にあるのだ。迎えの船を急遽手配してもらっているとはいえ、昨日の今日で来るはずもない。
 つまり、有り体に言ってしまえばサボは暇を持て余していた。この機会にちゃんと休養を取るようにも言われたが、派手な戦闘の後で神経は高ぶっていて寝付けないし、宿の部屋でじっと朝を待ち続けるのも性に合わなかった。
 それなら暗い内からでも冒険──もとい散歩でもした方がマシだと歩き始めて、結局、島の端まで辿り着いてしまったのだ。
 早朝の浜辺は驚くほどに静かで、サボの他には人影一つなかった。
 春霞と潮の香が混ざり合って、穏やかな風がサボの髪をわずかに揺らす。つい昨日まで圧政に苦しめられていた島とは思えないほど、とても平凡で、平穏で、平和な朝の風景だ。
 浜辺の境界を敢えて歩くサボの、ブーツの底を波がくすぐる。戯れに振り返ると、サボの歩いてきた足跡は全て朝浪に攫われ消えてしまっていた。
 来し方の軌跡もなく、ただ、ここに佇む己の姿。それがやけに象徴的に思えるのは寝不足ゆえの感傷だろうか。
 くだらねェ、と笑ってから見遣った先では、昇りかけの陽光が水平線を淡く彩っていた。今この時に限らず、不意に海を見つめてしまうのはサボの癖のようなもので、仲間達からは「きっと幼い頃から海に出たかったせいなのだろう」と言われていた。
 実際、ドラゴンの言によれば、サボは東の海で出会った際に「貴族に生まれて恥ずかしい」と口するほど己の出自を嫌っていたらしいから、幼い頃より自由を求めて海に憧れていたというのは納得が出来る話だ。
 ただ、海を見つめる時、サボは、自分が何か『別種の期待』に胸を躍らせているのも自覚していた。
 まるで、この広い海で、誰かに出会えるのを、ずっと待ち望んでいるような。

「……ん? なんだこれ」

 ぼんやりと水平線を見つめていたサボの足元に、波が見慣れぬ物を運んでくる。
 最初は丸まった手配書かと思ったが、波に転がされているそれを見ている内にそうではないと気付いた。思わず、サボは手袋が濡れるのも厭わずに手を伸ばす。

「──薔薇、か?」

 海水に洗われてすっかりくたびれてしまっているが、どうやらそれは薔薇の花束であるらしかった。花束といっても、中に包まれていたのは一輪だけだ。残りは流されてしまったのか──しかし、花束の持ち手にしっかりと青いリボンが結ばれていることを考えると、元から一輪のみだった可能性が高い。

「誰かが誤って船から落としちまったのか? 青い薔薇なんて珍しいもんだろうに」

 花弁の形こそよくある薔薇に相違ないが、およそ見たこともないような青色をしている。そういった方面にさほど興味のないサボですら、思わず目を奪われるほどに美しかった。
 この様子から鑑みるに、きっと誰かからもらったプレゼントだったのだろう。あるいは、これから大切な誰かにあげるつもりだったのかもしれない。いずれにせよ勿体無い話だ。
 サボは濡れそぼって萎れた花束を手に、どうしたものかと目を細めた。

「これをおれが貰っちまうのも違うとは思うが……でも、このまま波打ち際に捨ておくのもなァ……」

 しばし悩んだ後、サボは結局その花を持ち帰ることに決めた。無遠慮な波に晒されたたままには、どうしても出来なかったのだ。花には詳しくないが、もしかしたら真水に挿してやれば少しは長生きするかもしれない。

 波が運んできた花束を手に、来た道を戻り始めたサボは知らない。
 今日という日が『何の日』であるかを。
 ほんの数時間前にこの島の沖合を通り過ぎた船のことを。
 その船に一体誰が乗っていて、誰を祝い、何を祈ったのかも。

 それでも幾つもの偶然を経て、無自覚なままに奇跡は届く。
 この海は確かに繋がっているのだと、想いは決して断ち切られないのだと──そう証明するかのごとく、前を向いて歩くサボの手元で、花束に結ばれたリボンが春風に揺れた。

【完】


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