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▼ お前の右手が正しいわ


 やべェ寝すぎた、と飛び起きるなり、サボはおれの腕の中から飛び出した。

「ふぁ……んだよ、もう朝か?」

 欠伸を噛み殺しながら、おれも渋々身体を起こす。
 部屋の窓からは確かに朝特有の透き通るような陽が射し込んでいたが、いつもなら清々しいはずのその光も今ばかりは招かれざる客だ。
 折角サボと寝てんだからあと三十時間くらいは沈んでろよ。気の利かねェ太陽だな。

「っと、違ェ、これエースのだ」

 床に落ちたままの服をかき集めるサボが、こちらも見ずに布切れを投げて寄越す。顔に当たる前に掴んだそれはおれのパンツだった。まあ穿いとくか、とのろのろ足を通していると、サボの方はさっさと下着を身に着けて他の服へと手を伸ばしている。
 朝の健全すぎる光の中で繰り広げられる、恋人による逆ストリップ──と言いたいところだが、残念ながらサボがそんなに悠長な真似をしてくれるはずもない。
 太ももに幾つも残した赤い痕などお構いなしに、その足は拾い上げられたズボンに乱雑に通される。
 夜もすがらおれの両手が回っていた腰の位置では、容赦なくベルトがきつく留められる。
 あれだけ触れて舐めて噛んだ肌がみるみる内に服の奥へと隠されて、代わりに手配書ですら見慣れた『革命軍参謀総長』の姿が塗り重なっていく。
 当たり前っちゃ当たり前だ。裸で帰すわけにもいかねェしな。

 でも、それにしたって……もうちょっと名残惜しそうにしても良くねェか?

 よどみなく服を着込んでいくサボの、恋人と一夜を過ごした翌朝とは思えないくらいの、このあっさりとした態度。幾分か癖が増してあちこち跳ねている金髪と少しだけ気怠げな目元は昨夜の余韻を滲ませてはいるが、逆に言えばそれくらいしかない。
 「まだ帰りたくねェよ……」「おれもだよ」みてェな甘ったるい会話も一切無し。そんなもん期待してんのかって? してるに決まってんだろ!
 また当分の間会えなくなるってのに、なんでそんなに平然と『革命軍参謀総長』に戻ろうとしてんだよ。

「はあぁぁぁぁ……」

 ──なんて思っちまう自分が情けなくて思わずおれは大きな溜息を吐いた。「どうした?」とこちらを向いたサボに何でもないと片手を振りつつも、自嘲で頬が引き攣れるのは止められない。
 酒場で耳にするような女の愚痴かってんだよ。朝になると彼が冷たいの、ってか? っつーか抱いてんのおれだぞ。
 おれだって隊を預かる身だから、サボの背負ってる重責は痛いほどに理解している。互いに立場ってもんがあって、会いたい時にいつでも会えるわけじゃないのも元より承知の上だ。
 特にサボは助けを求める市民のために任務地を転々としているから、ひと所に留まるのだって簡単じゃない。
 そんな中、今回だって「たまたま近くの海域に居たから」と、停船中の夜の間だけ抜けてわざわざこっちのナワバリにまで来てくれているんだ。別にサボの気持ちを疑ってなんざいねェさ。
 無理させてんのはおれの方で、サボには急ぐだけの理由がある。それだけのことだ。そんなのは分かってる。
 ──分かってるんだけどよ。
 目を細めたおれの見つめる先で、サボは皺の寄ったシャツに袖を通し、まだ素肌のままの指で器用にボタンを留めていく。ベストにもう一つのベルトに、首元のあの白いヒラヒラの布。一枚、また一枚と布が重なる度に、あんなにも濃密だった夜の気配が遠ざかっていく。
 まるで「セックスなんて知りません」みてェなサボの服装は禁欲的で、それゆえ興奮を煽るものではあったけれど、今この時ばかりは欲情よりも不安の方が腹の底に溜まってしまう。
 着込めば着込むほど、『おれのサボ』じゃなくなっていくようで。

「……エース、流石に見過ぎだろ」

 わずかに俯いていたサボが、苦笑と共に「ちょっとは遠慮しろよ、穴が空いちまう」と顔を上げる。
 穴ならもう一晩中あけただろ、今更何に遠慮しろってんだ。そう言い返したいところだが、流石に眉を顰められそうなのでやめておく。

「別に……そんないっぱい着込むのに、随分手慣れたもんだなって思ってよ」
「そりゃあ、まあ、ずっと着てるからなァ。おれからすればエースの方が『慣れて』来てるよ。おかげで最近は服を燃やされずに済んでる」
「チッ、いっそわざと燃やしちまうか……」
「は?」
「いや、何でもねェ」

 うっかり飛び出た言葉を誤魔化しつつ首を横に振る。ついバカなこと言っちまった。
 そもそも、たとえ服を全部燃やしてやったとしても然程変わらねェのも目に見えてんだよな。サボのことだから部屋にあるもんで何とかするだろ。最悪シーツを腰に巻きつけてでも出て行きそうだ。サボならやりかねねェし、そうなるとその方がマズい。

「何でもねェことないだろ。変なエースだな」

 訝しみつつもサボは既にコートにも袖を通していて、ポケットに入れていた手袋を取り出したところだった。きゅっと音をさせてしっかりと指の先まで収めると、何度か手を開いたり閉じたりして感覚を確かめている。
 サボは、普段は滅多に手袋を外さない。素手なのは風呂の時とベッドの上くらいで──だから、手袋を嵌めるこの瞬間が、きっと一番『象徴的』だ。
 それだけで明確に切り替わる。
 ここから明白に線引きされる。
 一晩中独り占め出来ていたサボの横顔が、『革命軍参謀総長』へと変わってしまう。

「じゃ、おれは帰船するけど……エースはどうする? まだ寝てくのか?」

 ──何が「じゃ、おれは帰船するけど」だ。どこまでもあっさりしやがって。
 おれの感傷を他所に、サボはすっかり支度を終えてから首を傾げてきやがる。「まだ寝てくのか」という問いに至ってはいっそ喧嘩売られてんのかと疑うレベルだ。しかも当人は本気で訊いてるから尚更タチが悪い。

「──まさか。港まで送るわ」

 サボのつまらねェ質問に肩を竦めてから、床のズボンを拾い上げる。ベルトを付けっぱなしだったそれに両足を通して、首飾りと腕輪をつけりゃ準備完了。おれの場合は急がなくたって十秒もかからない。

「へへ……港なんてすぐそこだけどな」

 おれに帽子を手渡しながらサボは笑う。確かに港はこの宿のすぐ裏手だった。でも、だからって送って行かないわけねェだろうが。
 どうにも離れがてェんだよ。
 少しでも一緒に居てェんだよ。
 お前に手を振る瞬間を、一秒でもいいから先延ばしにしてェんだよ。
 そっちはどうか知らねェけど!
 ──いっそのこと、引っ掴んで、引き倒して、もう一回ベッドに沈めてやろうか。
 思わず右手が衝動的に動きそうになるのを、ぐっと拳を握り込んで耐える。サボ相手にそんなガキくせェこと出来るかよ。格好がつかねェにも程がある。
 お前があんまりあっさり帰っちまうから寂しいんだ──なんて、そんなの男のプライドが許さねェ。


  □


 二番隊(うち)の部下の力自慢が、ストライカーを軽々肩に担いで甲板へと上がっていく。
 隊の船で来ているのにストライカーがあるのは、何かと小回りが効くからだ。今回も、海賊相手に海へと逃げ出した考え無しどもを捕まえるのに存分に役立った。
 それにしても、どうして白ひげの旗が翻る島でくだらねェ悪事なんて働けるんだか。オヤジの偉大さを知らない奴がまだまだ世の中にゃ多すぎる。末端の奴らからすりゃあ、『四皇』という言葉すら絵物語のように現実味が無いんだろうけどよ。

「隊長、出航準備が──、」

 駆け寄ってきた部下が報告を始めた、と思いきや、ぷるるるる、と特徴的な音が入江にこだました。電伝虫の着信音、しかも音の出どころはおれの脚だ。

「おっと悪ィ、おれのだ」

 レッグポーチを開いて子電伝虫を引っ張り出してやると、狭かったせいか、どことなくムッとした表情をしてやがる。まァ、そう怒んなよ、他に入れとくとこがねェんだ。
 子電伝虫の有効範囲は─個体差もあるが─大体島ひとつ分。今おれが連絡を取り合うような相手は出港準備を終えたばかりの隊の連中くらい……となると、この電伝虫が鳴る理由なんて見当たらない。
 それを分かってるからか、目の前の部下もいささか剣呑な目つきになっている。あからさまに怪しいよな? おれもそう思うぜ。
 とはいえ、実際鳴っちまってんだから、出なきゃ仕方ねェ。部下に目配せをしてから、おれはなおも着信に鳴く電伝虫に応じた。

「待たせたな……一体おれの電伝虫に何の用だい?」
「エース! もしかしてお前、今、島に居るんじゃねェか?」
「サボ?!」

 低く探るようなおれの声に被さって、いつもより高めのサボの声が響き渡る。見れば電伝虫はサボの表情に変化していて、やけに興奮気味なのがその顔からも見て取れた。

「た、確かにその島にゃ居るが……子電伝虫がつながるってことは、まさかお前も?」
「ああ! 今、島のどの辺りに居るんだ? 少しでも会えないか?」
「島の南の入り江だ。二番隊連れて来てんだよ」
「島の南、ってことはこの港街出てすぐだな……分かった! 今すぐ向かう!」
「お、おう!」

 がちゃ、と子電伝虫が項垂れて、突然のことに驚いたおれは、しばしその姿を眺めてしまう。
 まさかサボが同じ島に居るなんて、しかも今から会えるなんて……おれは夢でも見てんのか?

「そうだ、その、出航準備完了してますが……」

 思い出したように部下は報告の続きを始めたが、しかし、すぐに一人頷いてみせる。

「──ま、当然、出航は遅らせますよね」
「ああ。すまねェな」

 気の回る部下の肩を軽く叩いて労うと「馬に蹴られたくないんで」と笑って船へと戻っていく。おれとサボの仲を知られているってのは、こういう時に話が早くて助かるな。
 それから然程待つこともなく、港街の方から見慣れたシルエットが駆け寄ってくる。
 『見慣れた』? ──いや、待てよ。何かおかしい。

「……エース! 出航前だったのか、待たせたなら悪かったな」

 でも会えて嬉しいよ、とサボは輝くような笑顔でおれの元へとやってくる。そんなサボを、おれは思いっきり抱き寄せる──はずだった。いつもならな。
 しかし、全く『いつも』どおりじゃない光景を目にしたおれは、抱き寄せるよりも先に、サボの右手を指さして叫んでしまった。


「サボ、お前、その腕、どうした!」


 サボの右腕は、肘を曲げた状態のまま、真っ白な三角巾で首から吊り下げられていた。どう見たって骨が折れたか、酷い怪我でもしたかのどっちかだ。おれが挨拶よりも先に素っ頓狂な声を上げちまうのだって当然だろ。
 だが、当のサボはというと、自分の胸の前で吊ってある右腕を一瞥して「ああ」と興味無さそうに呟く。

「これは別に良いんだ。気にすんな」

 そんなことより、とサボは続けた。

「さっき、腹減ってたまたま入った食堂で、食事中に急に昼寝し始めたっていう海賊の噂話を耳にしたんだ。それでもしかしてと思って連絡してみたんだが、やっぱりエースだったな! お前はどこに行っても目立つから見つけやすいよ。それにしても偶然、」
「ちょっと待て!」

 確かに街の食堂で寝落ちしたが、それは今どうだっていいだろ。「そんなことより」はこっちの台詞だ。

「気にしねェわけねェだろ! その手どうしたんだよ、まさか折れてんのか?」
「折れてねェよ。ただ言うことをきかないだけで」
「『言うことをきかない』……?」

 最悪の事態が浮かんで、自分の顔色が一気に青ざめたのが分かる。この大海賊時代、隻腕の海賊だって珍しいものではないくらいだが、まさか、サボの右手が、そんな──。

「あ、違うぞ、エース。本当に、言葉のとおり、『言うことをきかない』ってだけなんだ……、っと!」

 おれが目を瞠っている中、三角巾で吊られたサボの右腕が大きく跳ねた。

「ん?!」

 動いて、いる。
 動いてはいるが──どう見てもサボが狙ってやったことでもない。

「ああ、ほら。今だって話の腰を折るつもりなかったのに、勝手に右手が動いちまった」

 サボはなだめるように左手を右手に重ねている。若干疲れたような声に、おれも漸くそれが怪我や麻痺の類でないことを理解し始めていた。

「なんだそれ、まさか右手だけ何かに乗っ取られてるとか……?」
「いや、完全におれの意思ではあるんだ。むしろおれの意思に対して『素直すぎる』とでも言うべきかもな」
「素直すぎる?」

 おれが聞き返すと、サボは「そうだな……」と思案げに斜め上を見る。説明する言葉を選んでいるようだ。

「……例えるなら、触れただけで発射しちまう敏感な引き金みたくなってるんだ。思った途端に反射で動いちまう。今も、『今日はモビーディック号じゃねェんだな』って頭で思っただけで、右手が勝手に船を指し示そうとしちまって……だからこうやって腕吊って引き留めてんだよ。変に拘束するより自然だしな」

 三角巾で首から吊っていれば動きが制限されるし、街を歩いていても怪我人にしか見えないから問題ない、という意図らしい。
 すらすらと説明を終えると、サボは「ま、どっちにしろ大したことねェさ」と肩を竦めてみせた。
 自分のことなのに興味もなさそうなその態度に、おれは眉を寄せてサボを睨む。

「充分『大したこと』だろうが。そんな状態じゃ戦闘の時なんかにゃ致命的だろ? ちゃんと治るのか?」

 そもそも原因は何かと訊けば、予想はしていたがやはり悪魔の実の能力者によるものだという。件の能力者については既に革命軍の仲間が捉えて尋問済みで、効果も丸一日、すなわち今夜までだと判明している──というところまで聞いて、やっとおれも少しは安心が出来た。

「だから大したことないって言っただろ? もし本当にマズい状況なら、ちゃんとお前に知らせてるさ」
「どうだかな……って、右手がその調子なのに、メシとかどうやって食ったんだ?」
「あ、そういえばまだ食ってねェや。食堂入ってすぐお前の噂を聞いたから、腹減ってたことすら忘れて、つい駆け出しちまったよ」

 ──なんだ、それ。可愛すぎだろ。
 照れくさそうに笑うサボがあまりにも愛しい。不意に見せてくるこの手の健気さにおれは弱いんだ。
 同じ島に居るかもしれない、と思ってすぐにサボが行動してくれてなけりゃ、タッチの差でおれ達の船は出航しちまっていたかもしれないしな。今こうやって会えているのも全部サボのおかげだ。

「……そっか。そんじゃ今からメシ食いに行こうぜ? おれが食わせてやるよ。前菜からデザートまでしっかり面倒みてやるさ」
「おれ、左でも食えるけど……というより、そっちはもう出航なんじゃないのか?」
「大丈夫。おれの隊はみんな優秀だから、わざわざ馬に蹴られるような真似はしねェんだとよ」
「でもこの時間に出航ってことは、きっと西からの海流に乗って、日が沈む前にあっちの岩礁地帯を抜けてその先の小島で船を休ませようって寸法だろ? あまり悠長にしてられねェんじゃねェの? 突然押しかけといてなんだけどよ」
「ぐっ」

 流石はサボだ。おれは針路も何も一切説明してないってのに、少ない情報からしれっと完璧に航海計画を当ててくる。

「えっと……それはだな……」

 理路整然としたツッコミに、どう答えたもんかと船に視線を向けると、甲板の上で隊の連中が両手で大きく丸を作っているのが見えた。その内の一人は人差し指を立て、それをもう片方の手でしきりに指し示している。

「……どうやら一時間くらいは出航遅らせても平気みてェだな」
「お前んとこの隊、ほんっと仲良いなァ」

 まァな、と頷いてから、「さてと」と改めてサボに向き直る。出歩けるとなったら、先にやっておきたいことがあった。

「なァ、サボ。その三角巾、外していいか?」
「は?」

 おれの申し出にサボは目を丸くすると、そのまま信じられないものでも見る目で何度かまばたきをした。

「いや、駄目に決まってんだろ。急にどうした? おれの話聞いてたか?」
「事情は分かってても、見てると心配になってくるんだよ。なんか不自由そうだし、窮屈だろ」
「そりゃそうだが、こうしてないと好き勝手動き回っちまうんだって。あ、こら、エース、」

 咎める声を無視して、勝手に首の後ろの結び目をほどき、三角形の布を取り去ってしまう。そうして解き放たれたサボの右手と己の左手を、指を絡めてしっかりと握った。

「まあまあ。おれが責任持ってお前の右手を掴まえとくから。な?」
「『な?』って、お前……」

 動揺した様子のサボが二の句を継ぐよりも早く、右手の指はぎゅっと嬉しそうにおれの手を握り込んでくる。
 確かに素直だな、とおれは思わず笑ってしまった。


  □


「なんか、すっげェ恥かかされた……」
「おれは楽しかったけどな?」
「お前が楽しそうだったせいで、こっちは余計に恥ずかしかったんだよ!」

 入り江までの帰り道を歩きながら、サボは未だに怒っている。
 だが、おれとしては『サボのメシに付き合う』という目的が達成出来て大満足だ。
 前菜やデザートがあるような食事ではなく、おれが寝落ちした食堂に戻った形ではあったが、まあ、その辺は構やしねェ。左手でも全く問題なく食事出来るというサボの訴えをいなして、サボの口にスプーンを運んでやれたしな。しかも、片手は恋人繋ぎをしたまま、だ。
 感情直結の右手は勿論のこと、自由な左手でも普通に抵抗して来たが、「いいから世話焼かせろよ」と押し通してサボをひな鳥のように散々甘やかしまくったので、おれは酷く気分が良かった。
 周囲からの視線のせいか、単純に子ども扱いされたのが恥ずかしかったのか。サボの方は食事の最中も幾度となく「おぼえてろよ」と凄んでいたが、言われなくたってあんな可愛くてエロい顔、忘れられるはずもない。
 っつーか、嫌だ、自分で食う、なんて抵抗しながらも「ほら、サボ。早く口開けろよ」っておれが言ったらおずおずと唇開くんだから、そんなの、色々と連想も妄想も捗るに決まってんだろ。
 ──それなのに、このまま別れなきゃならねェなんてな。
 どうにも名残惜しくて、二番隊の船で次の島まで一緒に行かないかと試しに誘ってみたが、「明日迎えが来るから」とあっさり断られちまった。
 会えるとなると急いで来る割に、帰り際は本当に惜しまねェよな。

「──陽が傾いてきた。お前の船はもう出さねェとな……エース、今日はありがとな。会えて良かった」

 なるべくゆっくり歩いていたつもりだが、遂に船の手前までたどり着いてしまう。昼寝していたらしい隊員たちがにわかに起き上がり、忙しそうに駆け回り始めた。
 もう出航の時間だ。固く繋いでいた二人の手だって、そろそろ離さなくてはいけない。
 仕方ないことだと頭では分かっている。けれど、どうしたって心が追いついてこなかった。

「……ッ、」

 耐えきれず、何も言わないまま、勢いよくサボを掻き抱いてしまう。繋いでいない方の腕を背に回して、少しでもサボの感触をこの身に刻んでおこうとする。
 色めいた抱擁というより、頑是ない子どもが必死に縋って抱きついているようなもんだ。自分でもそう思ったが、それでも今は己を抑えられなかった。
 次に会えるのは、いつだろう。
 いっそ、このままサボの手を引いて、水平線の果てまで攫ってしまえたなら。
 ──でも、そうやって別れを惜しむのもおれだけなのだと、そう思えばどこか寂しい。
 深呼吸をひとつ。それからゆっくりとサボを解放してやる。ガキみたいな真似したのが照れくさくもあったので、誤魔化すようにわざと軽薄に笑ってみせた。

「例を言うのはこっちの方だぜ。ありがとな、サボ。次の任務終わったらちゃんと連絡しろよ?」
「……ああ。じゃ、エースも気をつけて行けよ」

 サボは笑って頷いて、そして──急に真顔になった。


「………………あれ?」


「ん?」
「いや、ちょっと待ってくれ。大丈夫、すぐ外れるはずだから。はは、ったく変な能力だよな……、っと!」

 そう言ってサボはどうやら右手に力を入れているようだが、おれとしっかり指を絡め合ったその手はびくとも動かなかった。
 それどころか、むしろ先程よりもがっちりと握り込まれている──恐らく、おれから手を離そうとしても出来ないくらいには。

「嘘だろ、全然動かねェ……なんで、こんな、クソッ」

 焦った様子のサボは、自由な左手で己の手首を掴んで必死に引っ張るが、右手は鉄のように強固なままだ。
 なんだこれ。一体どうしたっていうんだ? サボはとてもふざけてるようには見えないし、別れ際にそんな真似するタイプでもない。
 状況が飲み込めないおれをよそに、サボは遂にしびれを切らしたのか、左手で特徴的な型を作って──って、それ、竜爪拳の構えじゃねェか!

「ッ、おい、サボ! 自分の手に『爪』立てる奴があるかよ!」

 慌てて止めると、サボは酷く狼狽しているせいか瞳を大きく揺らした。

「だって、右手が……全然お前の手を離そうとしねェから……こんなの、おれ……」

 動く素振りすらないサボの右手を見下ろす。おれの手をがっちり掴んだままのこの手は、確か、サボの言葉を借りるならば──そう、『素直すぎる』んだっけな。
 思った途端に反射で動いてしまうその『右手』が今、繋いだ手を絶対に離そうとしないのだとすれば。


「サボ、もしかして──おれと離れたくねェの?」


 半ば無意識に発したおれの問いかけに、サボは驚くほど一瞬で顔を赤くした。揺れる瞳にうっすらと水膜が張り、唇までもがわなわなと震えている。
 ──は? なんだ、その可愛さ。
 いかにも図星といった表情に、おれはあんぐりと口を開けてしまう。はたで見ていたら随分間抜けな顔をしていたことだろう。だが、サボはそんなおれにも構わずに「違ェよ!」と小さく叫んだ。
 いや違わねェだろ、と思っていたらサボは更に墓穴を掘り始める。

「おれは、ちゃんと分かってる! そろそろ出なきゃ間に合わねェのも、お前にだって立場があるのも……ああクソ、なんで外れねェんだ! いつもはちゃんと我慢出来てんのに!」
「いつも? じゃあ前からそう思ってたのかよ」
「あっ……」

 冷静さを欠いたサボは、らしくもない口の滑らせ方をする。泳ぐ目の縁は一段と赤みが増していて、涙こそ溢れちゃいないが、サボの感じているであろう羞恥をありありと表していた。メシ屋で恥ずかしがっていたのとはまた別種のそれに、おれは思わず生唾を飲み込んでしまう。
 サボはしばらく「その」だの「あれだ」などと意味の無い単語で場をつなごうとしていたが、しかし最後には諦めたように「……当たり前だろ」と渋々頷いた。

「……誰が惚れてる相手と進んで離れ離れになりたいなんて思うんだよ。一秒でも長く居たいに決まってる。次にいつ会えるかも分からねェんだから」

 視線をそらしながら早口で語られる言葉は、初めて耳にしたにも関わらず嫌というほど聞き覚えがあった。
 『それ』は、おれの心の声だ。
 どうにも離れがたい。
 少しでも一緒に居たい。
 別れの瞬間を、一秒でもいいから先延ばしにしたい。
 まさか、サボも同じような気持ちだったなんて──そんなの全然おくびにも出さなかったじゃねェか!

「でも、ちゃんと切り替えねェとって思って耐えてきたのに、まさか、こんなくだらねェ攻撃受けちまったせいでお前に情けねェ姿見せることになるなんて……はは、ガキみてェだよな?」

 いっそ笑ってくれ、とサボは鼻先で自嘲する。
 ああ、確かに笑いそうになってるよ。お前が想像しているのとは真逆の笑いだろうけどな。

「そんで、格好つかねェついでに……悪いが、エース、メラメラの能力でおれの手から抜け出てくれないか? 多少熱かろうが構やしねェから。もう、おれの力じゃどうしようもないみたいなんだ」

 疲労と諦念の滲んだ声で、サボは仕方なさそうに両肩を竦めてみせる。それ、本気で言ってんのかよ。今、この状況で?
 繋いだ手を炎に変えてすり抜けてくれって?
 行かないでくれと縋る恋人の手を燃やしながら? 
 本当におれがそうすると思ってんなら、サボ、お前も案外バカだよな。おれと同じくらいには。


「いや──このままでいい」


 おれはサボの右手を今一度しっかりと握り返し、甲板めがけて大きく声を張り上げた。

「おーい! 野郎ども、悪ィが予定変更だ! おれのストライカー下ろしてくれ!」
「は? 何言ってんだ!」

 部下よりも早く、サボの方が驚いた声を上げる。おれは甲板を見上げたまま「大丈夫だ」と端的に答えた。

「隊の船は先に出す。おれは明日の朝にでもストライカーかっ飛ばして追いつきゃいい」

 最初(ハナ)からこうすりゃあ良かったんだ。今の今まで思いつかなかったが、ストライカーなら風や波に逆行して走れる。全速力で飛ばせば、後からでも二番隊の船に追いつけるだろう。一日くらい『隊長』が居なかったところで、優秀な部下は問題なく航海してくれるという信頼もあった。

「そうじゃなくて、おれは、こんな……こんな風に、お前にワガママ言うつもりなんてなくて」
「良いって言ってんだろ。おれがそうしたいんだ」

 サボは悲痛そうにかぶりを振るけれど、打って変わっておれは清々しい気分だった。部下がストライカーを下ろしてくるのが見える。突然の予定変更の割に動揺が見られないあたり、もしかしたらこうなることを予見されていたのかもしれない。つくづく、頼りになる連中だ。

「あのな、サボ。実はおれも同じなんだ」

 傍らで項垂れてしまったサボを勇気づけるように、おれもまた情けないくらいの本心を口にする。

「お前の帰船を見送る度に、その手を掴んで引き留めてやりてェと思ってた。一秒でも長く一緒に居たくて、さっさと帰り支度をされるのが悔しくて、お前の服を燃やしてやろうかなんて頭をよぎったことすらある。格好つけたくて我慢してただけさ」

 けれど、もう構いやしない。サボが同じ気持ちだと分かったし、それに──こんなにも可愛い姿を見せられたら、男のプライドがどうとか、そんなもんは吹っ飛んじまった。もういい、今は。今だけは。

「たまにゃ良いだろ。おれ達二人、ガキでも、格好悪くても、ワガママばっかでも」

 ごめん、となおも声を震わせるサボを、さっきとは全く違う気持ちで抱き寄せる。ぴゅう、と冷やかすような口笛が船から聞こえてきたが、まあ、許してやるか。今のおれは最高に機嫌が良いからな。
 いつも常に一緒に居られるわけじゃない。どれだけ先延ばしにしたって、握った手を離さなきゃいけない時は必ずやってくる。それはお互い分かりきったことだ。
 でも、今この時ばかりは、隊長でも総長でもなく、ただの『おれ』と『お前』だから。
 恋のままに、愚直なまでに、強くおれの手を握り返してくれる──お前の右手が正しいわ。

【完】


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