▼ 『ラングさん』と相部屋
宿のカウンターに置かれたランタンの灯は小さく淡いものだったが、今のサボには荒波の先に見つけた救いの灯台だ。
それほどまでに今夜の突然の雷雨は容赦がなかった。抱えたコートは不快なほどに重く、軒先で一応絞ってきたにも関わらず未だにぽたぽたと水滴を床に落としている。
「……そこを何とか頼みたいんだ」
篠突く雨音に負けないよう、サボは身を乗り出して食い下がった。古びた木のカウンターに前髪から伝った雫が跳ねる。タイミングの悪いことに、こういう時に限って帽子をコアラに預けたままでの単独行動だ。そのせいで金色の髪はぐっしょりと濡れ、濃く重く色を変えてすらいる。
「そりゃあこの雨だから泊めてあげたいけどもねェ……部屋が全部埋まってるもんでねェ……」
腰の曲がった老婆は、頬に手を当てて困ったように息を吐く。
サボとて、夜更けに飛び入りでやってきた闖入者という己の立場はよく理解している。無理を言うのは忍びない。けれど、だからと言ってこの土砂降りの中もう一度外へ出て行くなんて到底出来そうにもなかった。町の宿はここ一軒だけと聞けば尚更だ。
今もまた、窓の外が一瞬光ったかと思うと、寸暇を待たずに轟音が響き渡る。今晩何度目かの落雷、今のは相当近い。宿の主人である老婆も、カウンターの内側で「ひっ」と息を呑んでいた。
「……とにかく、本当にこの玄関でだって構わねェんだ。雨風さえ凌げればどこでも文句は無い。金だって部屋代と同じだけ払うからさ」
「そうは言っても、お客さんをこんなところに寝かせたとあっちゃあ、こっちの夢見が悪いし、死んだ主人にも顔向け出来やしないし……どうしたもんかねェ……」
老婆は眉を寄せて首を小さく横に振ると、しばし目を閉じて考え込む。だが、すぐに皺だらけの瞼を持ち上げて、つぶらな目の奥をきらりと光らせた。
「そうだ、ラングさんのとこがある」
そうだそうだ、と一人うなずく老婆に、サボは「ラングさん?」とおうむ返しに問う。勿論、聞き覚えのない名前だ。
「そう、ラングさん。あの人と相部屋にしたらいい。ベッドがひとつきりの部屋だけど、あそこは元々は夫婦用の部屋だから広さは充分」
「ベッドがひとつ……? っつーか相部屋って、そのラングさんとやらはもう寝てるんじゃねェのか?」
「ええ、ええ。でも大丈夫、ラングさん、とっても良い子なんですよ。海賊だけどね」
「海賊なのか!?」
「わざわざそうは名乗らなかったけど、こっちも商売長いんで見れば分かりますよ。仲間が迎えに来るまでとか何とか言ってたし、背中に大きな刺青も入ってるし。でもねェ、ラングさんは昨日も屋根を修理してくれてねェ」
ちょっと頼んで来るからここで待っててくださいねェ、と老婆はカウンターから下ろしたランタン片手に廊下の奥へと進んでいく。その小さな背中を見送りながら、サボは濡れた手袋で冷えた頬を掻いた。
──海賊と相部屋か。こっちの面が割れてなきゃいいが……。
サボの手配書はまだ世に出回ってはいないが、海賊となると仲間づてに『革命軍参謀総長』の噂を聞いていてもおかしくはないのだ。一般人と相部屋になるのとは、だいぶ趣が異なってくる。
──ま、別に構わねェか。ラングなんて名前、聞いたこともねェし。
もしも何か小競り合いが起きたとしてもどうにでもなるだろう、とサボは早々に結論づけた。序列に責任以上の意味は無いが、それでも革命軍のナンバー2を担っている自負はある。
それにサボは基本的には『海賊』が好きだ。素性を知った途端に無意味に突っかかってくる奴もいれば、紛争国で略奪をするような正真正銘のクズもいるので十把一絡げには言えないが、自由に海を征き野望を目指す『海賊そのもの』に対しては、むしろ憧憬にも似た感情を抱いていた。
「ああ良かった良かった……ラングさんね、相部屋でも全然構わないんですって」
ほどなく戻ってきた老婆がホッとした顔でうなずく。いずれにせよ、雨風凌げれば文句は無いと言い切っただけに、誰と同室だろうとサボに今更拒否権などない。「それじゃあ廊下の突き当たりだからね」と言われてしまえば、礼の言葉を返すほかなかった。実際のところ、野宿や玄関よりはずっとありがたくもある。
老婆がそそくさとランタンを持って帰ってしまったので、サボは真っ暗な廊下を歩き、突き当たりの部屋を目指す。時折稲妻が光って、廊下にくっきりと窓枠の影を落とした。さっきよりは雷も遠のいたようだが、ガラスが震えるほどの雨足は健在だ。
──この天気だし、今晩この相部屋で眠るのは必至だ。なるべく目立たないように、最低限のやり取りだけでさっさと休みたいところだが……。
扉の前で深呼吸して、ノックを軽く四回。雨音の隙間に耳をすませて返事を待つが、しばらく経っても応える声はない。そっとドアノブをひねってみると鍵はあいたままだったので、そのままゆっくりと押し開ける。ぎぎ、と建て付けの悪い音が微かに響いた。
「っと、夜中に悪い……相部屋ありがとう、助かった」
廊下よりも更に暗い部屋の中、相手の気配に向かって声をかけるが、やはり返事はない。目を凝らして見ると、部屋の真ん中の大きなベッドの端で、一人の男が壁の方を向いて横になっていた。背格好はサボとそう変わらないくらいに見える。上半身が裸だったので一瞬ぎょっとしたが、一応下は履いているようだ。
「……寝てんのか」
夜も遅いのでおかしくはないが、相部屋を了承するだけ了承して二度寝したのかと思うとなかなか豪胆な男だ。
扉を後ろ手に閉めながら更に観察してみたところ、ベッドは確かに老婆の言っていた通り充分な大きさを有していた。ラングとやらが端に寄って寝ていることもあって、サボが横になるスペースは存分に確保出来そうだ。
ベッドの他には年代物の書き物机と椅子があるだけだったので、濡れそぼったコートを椅子の背に掛け、脱いだブーツはその辺りに転がしておく。別にわざわざ同じベッドなんて使わず自分はこのまま床で寝たって構わないが──とサボは床とベッドに交互に視線を送ったが、しかし結局その足はベッドへと向かった。相手が素性の知れない海賊だというのと、まともな寝床で横になって眠れるということを天秤にかけた結果、休める時には休んだ方が良いと結論付けたのだ。任務中は仲間と一緒に雑魚寝で野宿することだってザラにあるけれど、やはりベッドで横になるのとは回復力が全然違う。
相手の足元で所在なく丸まっていた掛け布団があったので、使わないのならとありがたく拝借する。なるべく距離を空けるようにしてベッドの端で横になり、反対側の壁を向いて布団にくるまった。赤の他人に背を向ける体勢とはなるが、サボとてこの状況にあって本気で熟睡する気もない。
──まあ、何かあっても遅れを取ることはねェだろ。
しかし、目を閉じた途端、予想だにしなかった不可思議な安心感がサボを柔らかく満たした。
端と端とはいえ同じベッドに見知らぬ男が寝ているにも関わらず、その寝息に、その体温に、その気配に、郷愁にも似た何かが感じられてサボの瞼をいっそう重くする。
──疲れてんのかな。なんか……すげェ……なつかし……。
不可解な感覚はサボを困惑させたが、その正体を掴むよりも先に意識は深くまどろんでいった。
□
期せずして同じベッドで背中合わせに眠ることになった二人は、奇しくもその運命の妙を解してはいない。
けれど、結んだ絆は知らず知らずのうちに磁石のごとくお互いを引き寄せる。
刻一刻と、寝返りの度に近づいていく二つの身体。
やがて額が触れ合わんばかりに身を寄せた二人の寝顔は、遠き日にあの懐かしい山で共に眠った時と同じくらいあどけないものだった。
□
「──あー……なんか懐かしい夢、なっっっっっ、だ、はっ?! 男ッッッ!?」
素っ頓狂な叫び声で、サボは目を覚ました。無論、自分の喉から発したものではない。
窓の外から射し込む光は随分と明るくなっていて、昨日の嵐が嘘のようだ。サボは目をこすりながら自分がすっかり眠りこけていたことを知る。こんなに熟睡するつもりなんてなかったのに。
──いや、今はそれどころじゃねェか。なに叫んでんだ? この男。
いつの間にかベッドの真ん中で眠っていたサボは、叫び声の主であり今は布団から飛び退いて口をはくはくと動かしている男──ラングへと怪訝な視線を送りつつ上体を起こした。
「朝から元気なんだな。ともかく昨夜は、」
「ま、待て!!」
皆まで言うなとラングは片手でサボを制し、もう片方の手で己の顔を覆った。冷や汗めいたものがダラダラとこめかみを伝っていて、ひどく狼狽えているのが見てとれる。
ラングはベッド上のサボを指の合間からチラチラと見てはすぐさま目を逸らしたり、「マジか?」だの「ああー……分かるっちゃ分かる……」だのといった謎の自問自答を繰り返していたが、やがて大きく息を吐いた。
「その……悪ィが……おれは昨夜のことが思い出せねェ。アンタのこともだ」
──そりゃあ、おれと顔合わせたの今が初めてだからな。
何を当たり前のことをとサボは思うが、しかしどうも様子がおかしい。これはもしや相部屋を了承したことすら忘れているのかもしれない。『思い出せない』ことに関してサボは何も責められる義理はないが、それだけに混乱している相手の気持ちもよく分かった。たとえそれが一過性のものであってもだ。
落ち着けよ、とサボが声をかける前に、先んじてラングは「だけどな」と念を押すような口調で続けた。
「おれは酔った勢いで宿に連れ込むみてェな真似はしねェ。だから、おれがアンタをベッドに引きずり込んだっていうなら、覚えてなかったとしても──それは昨夜のおれがアンタに本気で惚れちまったから……のはずだ」
見た目にそぐわぬ真面目な顔でそう言うと、ラングはベッドに乗り上げて、サボの手を勝手に両手で包み込んでじっと見つめてくる。あたたかい手だ。それに力強い。
そばかすの散った顔が至近距離まで近づいてきて、よく見りゃやけに男前だなとサボはわずかにひるんでしまう。
だが、しかし──。
「そっちの素性も知らねェ、っつーか覚えてねェが、責任は取る。オヤジにだっておれから話を通す」
「──ははっ、どういう勘違いしてんだよ!」
続けられた言葉の真剣さに、思わずサボは吹き出した。
どうやらラングは、サボのことを、自分が口説いてベッドまで招き入れた相手だと思いこんでいるようだ。しかも父親にまで話をするつもりだなんて、「海賊にしては」なんて前提も要らないほど真面目すぎる。色男な見た目とあまりにもギャップがありすぎた。
そんなわけあるか、とサボが昨夜の事情を笑いながら説明すると、ラングは目を丸くしてから「なんだ!」と破顔した。
「言われてみりゃ、寝ぼけながら婆さんとそんな話をしたようなしなかったような……ったくビビッたぜ、起きたら真横に知らねェ美じ、いや、知らねェ男が寝てるもんだから一晩で宗旨替えしちまったのかと思った」
ナニもなかったなら良かった、とラングは大袈裟にホッとしてみせる。
「本気で抱いたのかと……だって起きた時にゃ鼻先がぶつかりそうなくらいの距離だったし、おれはお前のことがっちり抱き込んじまってたんだぜ? 絶対事後だって勘違いするだろ? でも、よく見りゃちゃんと服も着てるもんな!」
「いや逆にそっちは着てねェようなもんだが……って、それより『抱き込んでた』って?」
「おれもわざとじゃねェし分かんねェよ。端で寝てたはずなのに不思議なもんだが、きっとお互い寝相でも悪かったんだろ」
ラングは苦笑するが、サボは自分がそれほどまでに寝相が悪いとは思わない。しかし、まさに今ベッドの中心に座っていることを考えると否定もしづらかった。更に言えば、昨夜サボが掛け布団を拝借していたために、上半身裸のこの男は夜の内に知らず知らず暖を求めてしまったのかもしれない。そうなると原因はむしろサボの方にあったが──わざわざそれを口にはしなかった。
「……まあ、変な勘違いはともかく、急な相部屋の上、ベッドも貸してもらったのは事実だ。ありがとうな。酷い雨で他に行くアテがなくて困ってたんだ」
「そりゃどういたしまして。ベッド貸したって割にゃおれも随分よく眠れたわ。妙に落ち着くっつーか、懐かしいっつーか……酒のせいってわけでもなさそうなんだがな」
──そういえば、おれも『そう』だ。
サボは眠りに落ちる寸前のあの不思議な感覚を思い出す。赤の他人と突然の相部屋だったにも関わらず、心地良くて、安心出来て、まるで以前もこんなことがあったかのような──。
胸に去来した僅かな引っ掛かりに眉を顰めていると、離れた位置から、ぷるるる、と電伝虫の呼ぶ声がした。
「──っと! やべェ!」
普段なら無視しても気に留めないくらいだが、今日は無断外泊の上、朝イチでの連絡も出来ていない。コアラが怒って電伝虫をかけてきているのは確実だ。このままでは帰還するなり両頬を餅のように伸ばされてしまう。
サボは慌ててベッドから飛び降りると乱雑にブーツを履き、まだ湿ったままのコートを引っ掴む。
「どうした?! もう行くのか?」
驚いた様子のラングの声を背に、そのまま勢いで部屋を後にしたかったが──ふと思い立って扉の前で振り向いた。
「じゃあな、『ラングさん』! 本当に助かった、いつかどこかでまた会ったらそん時は酒でも奢る!」
「ラング? ああ、本当はおれはポートガス……いや、ちょっと待てよ、お前、昔どっかで──」
ラング……ではないかもしれない男は既視感を滲ませた声で呼び止めて来たが、いよいよ部屋を飛び出したサボは男を振り返らない。カウンターに昨夜の老婆を見つけると、ラングの分も、と多めのベリーを払ってから更に駆け出す。
昨夜は暗雲立ち込めていた空も今やすっかり晴れ上がり、水たまりには目の覚めるような青が映り込んでいる。
港へ向かって全速力で走りながらやっと電伝虫に出たサボは、コアラから怒られながらも「妙に機嫌が良いね」と指摘されることになるのだが、その原因は自分でもついぞ分からなかった。
【完】
※エースの初期設定画の際の名前がポートガス・D・ラングだったので、エースの偽名はそこから来ています(ワンマガ参照)