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▼ この海に、宝物ひとつ


 指先は掠った。だが、それだけだった。
 エースの手が掴んだのは空で、小さな宝箱は別れの挨拶でもするかのようにくるりと回転してから海へと落下していく。

「待て!」

 思わず叫んだ。だが、それも意味はなかった。
 瞠目するエースの視線の先で水飛沫が上がる。咄嗟に追いかけそうになるが、ギリギリ残った理性が腕をマストに引き止めた。
 二度と手の届かない、深い深い海へと沈んでいく宝箱。
 静かに遠ざかっていくその姿を、エースはただ見送ることしか出来なかった。


『この海に、宝物ひとつ』


 ここ数ヶ月、白ひげに『おつかい』を頼まれる度に、エースは事のついでとばかりに島を巡り、並んだ店々を見て回ることにしていた。
 何を売っているのか判別もつかない怪しい露店であっても気軽に挨拶を交わしては掘り出し物を探し、はたまた「当店への入店にはドレスコードが」等と言ってくる高級店であっても気にせず歩を進めては並んでいる品を見定める。
 理由は単純。エースは恋人──サボへのプレゼントを探しているのだ。
 サボとそういう仲になったのは良いが、お互いに立場のある身ゆえ会うことすらも中々難しい。いざ会えるとなっても大抵の場合は酷く唐突で、近づくと自動でつながるようにしてある電伝虫に「おれだ! エースだ! 今からストライカーでそっち行くから待っててくれ!」と叫び、「こちらサボ! 今からカラスでお前の船に降りるから狙撃しないよう伝えてくれ!」と叫ばれることで逢瀬が決まる体たらくだ。そうなってから「何かサボに渡してェな」と悠長に考えたところで、プレゼントを吟味して用意する暇なんてあるはずもなかった。
 だからエースは、日頃からサボへのプレゼントを集めておくことにしたのだ。
 金貨を何枚積んでも足りないほどの宝飾品もあれば、その辺で拾った綺麗な鳥の羽根もある。サボが探していた貴重な本もあれば、サボが興味すらなさそうな特殊な衣服もある。
 自己満足に限りなく近いのはエースも承知していたが、喜ばせたい、驚かせたいという気持ちは本物だ。小脇に抱えられるほどの宝箱の中に、玉石混淆種々様々なプレゼントを丁寧にしまいこみ、満杯になったらサボに渡そうと、ずっと楽しみにしていた。

  ──の、だが。
 
「もう、なんっっっっもやる気にならねェ…………」
「そう落ち込むなよ、エース。ほらコレ、お前の好きな酒だぞ?」

 愛しい恋人との待ちに待ったデートの真っ最中だというのに、エースは酒場のテーブルに顔から突っ伏したまま動けないでいた。耳元でサボがグラスを揺らすカラリとした音がする。それでもエースは、文字通りサボに『顔向け』出来ない。
 サボへのプレゼントでいっぱいになった宝箱を、待ち合わせの島まで来る途上で海に落としてしまったからだ。
 珍しく事前にーといっても一日前だがー約束を取り付けることが出来て意気揚々とストライカーで波を駆けていたところに、身の程知らずにもケンカを売ってきた海賊船団。人の恋路を邪魔する奴は何とやらの例に漏れず、当然その連中はエースの火拳によってあっさりと沈められたのだが、最後の足掻きの砲弾が偶然にもストライカーの真横に着弾したのだ。
 高く上がる波飛沫、大きく揺れるストライカー、そして必然的に宙を舞う小さな宝箱。
 焦って手を伸ばすも間に合わず、エースは握りしめた拳の中で無念さを燻らせるばかり。海に嫌われた悪魔の実の能力者では、急ぎ潜って取り返すこともかなわない。
 沈めたばかりの敵船団を回り、気力の残っていそうな相手に「あの宝箱を取って来てくれ」と頼もうとも試みたが、板切れにしがみついて気絶している輩が殆どで、何とか意識のある者が居てもエースが近付くだけで怯えてしまって話になどならなかった。
 仲間に連絡して後から引き揚げてもらおうにも、海図なきグランドラインの広すぎる大海原の真ん中だ。揺れ動く波に宝箱も敵船の残骸も流されるし、他に目印など見当たらない。当のエースですら一度離れればこの場所を正確には覚えてはいられないだろう。
 結局、その場でああでもないこうでもないと悩んだ挙げ句、エースはサボとの待ち合わせを優先する形で宝箱を諦めたのだった。

「他じゃ手に入らねェような珍しい物とか、サボに渡してェやつ詰め込みまくってたのによ……嘘じゃねェぞ……」
「疑ってなんかいねェって。いっぱい集めてくれてありがとな?」

 己のせいで失ったとはいえ、数ヶ月に渡って集め続けたプレゼントだ。そう簡単には割り切れない。そのせいでエースは肩を落としたままサボと合流し、乾杯だけ交わしたグラスに口も付けることすらなくテーブルに突っ伏し、くぐもった声で事情を話して今に至る。
 サボは繰り返し「気にすんなよ」「元気出せって」「気持ちだけで嬉しいから」と励ましてくれるが、それでもエースは不甲斐なさと遣る瀬なさにすっかり意気消沈してしまっていた。
 いつもなら「仕方ねェ、また集めるか!」と笑って済ませられそうなものを、どうしてか今回ばかりは気持ちをくじかれて立ち直れない。自分でも不可解な心の澱みを持て余し続けていたが、何度目かのため息でテーブルを曇らせた時に漸く思い至った。

 相手が『サボ』で、物が『宝箱』だったから──どうしても重ねてしまうのだ。
 沈んでいくのを見送ることしか出来なかった今回の宝箱と、必死に集めたにも関わらず守れもしなかった『あの時』の海賊貯金を。

 守れない財宝なんて集めても仕方がない。渡せないプレゼントなんて用意していても意味がない。
 成長して、強くなって、自分は確かに変われたはずなのに、まだこの手から零れ落ちてしまうものがあるのか──そう思えば、テーブルに擦り付ける額の重さも増す。

「あー……、クソッ……」
「まあ、そのまま宝箱追って海に飛び込まなくて良かったよ。お前、たまに自分がカナヅチなこと忘れるもんな?」

 メシも来たぞ、そろそろ顔上げろよ、とサボは笑う。
 いつの間にか勝手に食事を頼んでいたらしいが、しかし近くに置かれた皿からはエース好みのスパイスが香っていた。元気づけようとしてくれているのだろう。
 サボは優しい。昔からそうだ。でも、その優しさが今のエースにはつらい。いっそのこと「なんで失くしちまったんだよ」と責められた方が気が楽だった。
 エースはテーブルに突っ伏したまま、わざと露悪的に声を低める。

「……落とした宝箱の中には、お前がずっと探してた本だってあったんだぞ。いいのかよ」

 あの何とかかんとかの冒険誌ってやつ、とうろおぼえのまま題名を口にすると、サボは「えっ、あの本、本当に見つけたのか?!」と声を裏返した。よっぽど貴重な本だったらしい。いかにも水濡れ厳禁の古びた書物だったが、今となってはインクも海に溶け出してしまっていることだろう。
 悪かったな、とエースは自嘲めいた息を漏らした。

「おれが見つけて持ってこようとしなきゃ、逆にお前がいつかどこかの島で手に取れてたかもしれねェのに」
「は? いや気にしねェよ、そんな結果論。本なんかよりエースの方が大事に決まってる」

 サボはさらりと言ってのけると、「それより、おれは……」と言いかけて、しかし途中で口をつぐんだ。

「……どうかしたか?」

 先に続くはずの言葉が気になって、流石にエースも重い頭を持ち上げる。
 注文していたらしい山盛りのフライドチキンの向こうで、サボは照れくさそうに頬を指先でかきながら「こう言うとガキっぽいかもしれねェけど」と前置きをして続けた。


「お前が用意してくれた宝箱がこの海のどこかで眠っていると思うと、おれは何だかワクワクするよ」


 夢見るように目を細めたサボには、子どもの頃と変わらない未知への憧憬と共に、今のサボだからこそ許される揺るぎない自信も満ちていた。
 エースはその表情に思わず見惚れてしまったが、すぐに濡れた犬のようにぶるぶると顔を振ってから怪訝な顔でサボを窺う。

「あのなァ、今更引き揚げたって本は無事じゃねェぞ?」
「だから本のことは良いっての。そうじゃなくて、お前がおれのために用意してくれたお宝だからだよ」

 サボは「ワンピース見つけるよりは簡単なんじゃないか?」と声を弾ませてから、皿の上のフライドチキンを手にとってかぶりつく。思っていた味と違ったのか片眉を上げてまばたきをしていたけれど、すぐに酒でしっかりと流し込んでいた。
 エースは、そんな楽観極まりないサボの姿を、ただ、雷にでも打たれたような気持ちで見つめていた。
 ──そうか。もう『あの時』とは違うのか。
 強くなったつもりでも小さな宝箱ひとつ守れやしないのかと。大人になったつもりでも自分の手から零れ落ちる物が未だにあるのかと。些細なことと言われれば確かにそうだが、それでもエースにはその事実が悔しくてたまらなかった。
 
 けれど『あの時』とは違って今は、サボが生きて、ここに居る。

 この一番大事な宝さえ手放さなければ、他の宝なんていくらでも取り戻せるに違いない。一人では辿り着けない場所にだって、二人でならきっと手が届くのだから。

「──ふはっ、なんだ、そうじゃねェか!」

 エースは途端に可笑しくなって噴き出してしまう。落ち込んでいたのが嘘のように晴れやかな気分だった。ぬるくなった酒を豪快に飲み干してから、温度を取り戻した瞳でサボをまっすぐ見据える。

「なあ、サボ。本当にいつか一緒に探しに行ってくれねェか? どこにあるかも分からねェ、海に沈んでふやけちまってるようなお宝だけどよ」
「……『いつか』? すぐにでも構わねェぞ」

 エースの急な気分の変化にサボは少しばかり驚いた顔をしていたが、悪戯な笑みへと変えて頷いてくれる。
 ただ、今すぐとなると、それはそれでエースにとっては都合が悪い。

「いや、今夜はダメだ。目の前の『お宝』の方をさっさとベッドまで引き揚げたくなっちまった」

 すっかり機嫌を直したエースは、意味深に目を細めてから口の端を持ち上げてみせる。
 だが、サボの方はというと──何故か今になって不満げに顔をしかめた。

「お前……さっきまで『ヤル気にならねェ』って言ってたよな? 久々のデートだってのに、堂々と、おれの前で」
「へ? ……あっ! いや、そんな意味で言ったんじゃねェぞ!?」

 抱きてェに決まってんだろ分かれよ言葉のアヤだ、と慌てて言い訳をするエースをじろりと横目で見ながら、サボは白いナフキンで口元を拭う。

「……今夜はメシ食ったら何もせず寝るのかと思って、『どうせなら動けなくなるくらい腹いっぱい食うか』ってお前の好きそうなの端から端まで大皿で頼んじまった。早くベッド行きてェなら、まずは皿から空けてくれ」

 どんどん来るぞ、とサボが予告するのを見計らったかのように、幾人もの店員たちがこれから宴でも始めるのかというほどの大盛の皿を両手いっぱいに運んできた。

【完】




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