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▼ ブラックコーヒー練習中


 小さなスプーンに山盛り二杯。
 沸かしたお湯を注いで混ぜれば、インスタントコーヒーの出来上がりだ。
 前は適当に作ってしまったせいで飲めた物じゃなかったが、最近になってやっと加減が分かってきた。

「作り方くらい書いとけって話だ。ったく……」

 つまらねェ夜のニュース番組を消した後の居間は、一人きりということもあって随分と静かだ。
 ちゃぶ台の上に載せたマグカップを覗き込むと、黒々とした液体の表面には眉を寄せた自分の顔が映る。
 作り方が分かったからって、この味に慣れたわけじゃない。
 本当は砂糖でも牛乳でも思うまま入れちまった方が美味く飲めるんだろう。
 でも──大人の男はブラックと相場が決まってるからな。仕方がねェ。
 覚悟を決めてイニシャルの入ったマグカップを手に取ったタイミングで、階段を降りてくる軽やかな足音に気付いた。ルフィならもっと騒がしくドタドタと駆け下りてくるから、この猫みてェな足取りの主は一人しか居ない。

「おっ、エース。こんな時間からコーヒー飲んでんのか?」

 Sと描かれたマグカップ片手に顔を出したのは勿論サボだ。視線につられて壁の時計を見上げると、時計の針は二十一時を大きく回ったところだった。

「飲んでるっつーか、今から飲むとこだ」
「眠れなくなっちまうぞ?」
「それ言うならサボもだろ」
「おれは眠気覚ましで飲んでるから良いんだよ。あ、お湯まだ残ってるか?」

 隣に座ってきたサボが卓上に置かれたポットを手に取る。思ったより軽かったらしく「お? うーん……まあギリギリ足りるか」とぼやいてはいたが、すぐに慣れた手つきでコーヒーを作り始めた。勿論、砂糖や牛乳なんて、欲しがる素振りすら見せやしない。

「エース、コーヒーに随分とハマったみてェだな」

 サボはそう言って、頬杖をついてじっと眺めていたおれに向かって笑いかけてくるが、実際のところ、それはこっちのセリフだった。
 ちょっと前までは、おれと一緒になってコーラだのファンタだのばっか飲んでたのに、いつの間にかコーヒーなんて飲むようになりやがって。

「今度バルティゴのコーヒーも飲みに来いよ、おごってやるから。ハックの淹れたコーヒーはこの何倍も美味いぞ」

 別にこれがマズイってわけじゃねェがサイフォン式だと──とか何とかサボは楽しそうに続ける。何を言っているかさっぱり分からねェが、知らねェことをすらすらと語るサボの横顔を見ていると心臓がぎゅっと痛む気がした。
 そういうサボを見るのがイヤってわけじゃ決してない。でも、何だか妙に焦っちまう。このままサボが遠くへ離れて行っちまうような、そんな馬鹿げた考えが頭をよぎる。

「……今はいい。まだ練習中だ」

 おれは首を振ってそれだけを答えた。サボのバイト先なんて初日から行きたかったが今はまだジキショーソーだ。
 カフェバルティゴのメンツは年上がほとんどだって聞いてるから、そういう奴らの前でコーヒー飲むっていうなら、もっと大人の飲み方が出来なくちゃあな。
  練習という単語に違和感があったのかサボは不思議そうに首を傾げたが、何か訊かれちまう前におれの方から話題を変えた。

「んなことより、サボは今日も遅くまで起きてんのか?」

 サボは「まあな」と頷いてから口元にマグカップを近づけ、しかし、すぐに離した。淹れたてのコーヒーはまだサボには熱かったらしい。

「やりてェこと色々あるし……おっと、エースは先に寝てていいぞ? 火の元や戸締まりの確認はいつも通りおれがやっとくから」
「そういう心配してるわけじゃねェよ」

 咄嗟に言い返してから、しかし、おれは心の中で自問自答する。「じゃあ、どういう心配してんだよ」って。
 サボは弟と違ってしっかりしているんだから、おれが心配するようなことなんて無いはずなのに。
 たとえ、おれの知らない間にバイトを始めて、いつの間にか洒落た間接照明なんて部屋に置いてて、平気でブラックコーヒー飲むようになってて、たまに──こっそり夜中に抜け出していても。

「……サボ、おれのとコーヒー交換してくれねェ?」
「え? ああ、良いけど」

 唐突なおれの申し出に、しかしサボは特に理由も聞かないまま、すぐにマグカップを交換してくれる。
 熱いままのコーヒーに口をつけると、サボの作ったコーヒーはおれが作ったものよりもずっと苦く感じられた。
 サボの奴、作り方間違えてねェか? いや、本当はこれくらいの濃さなのか。加減が分かった気になっていたが、やっぱりまだ練習が足りてねェのかも。
 思ったより苦い、なんざ格好悪くて言えるはずもねェから、なるべく顔に出さないようにカップを傾けていく。そうしている内に、同じようにカップに口を付けたサボが不意に「あ……そっか」と呟いた。

「ありがとな、エース。ちょうどいい温度だ」

 おれの意図に気付いたらしいサボは頬をゆるめて微笑みかけてくる。舌先の苦さが吹っ飛びそうなくらいの甘い、甘い笑顔だ。
 おれは何だか落ち着かない気持ちになって、思わずサボから目を逸らす。
 ったく、本当に細かいところまで気がつくようになりやがって。
 静かな居間にくすぐったい空気が満ちて、照れ隠しで飲み込むブラックコーヒー。
 今はまだ苦いばかりで全然美味いとは思えないが、これをさらりと飲めるようになれば──もっと、頼り甲斐のある、大人の男になれたならば。

 そうしたら、ちゃんとサボに話せる気がするんだ。
 この苦くて甘い、心のざわめきのことも。
                     

          【完】


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