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▼ 今日だけは特別(な訳ねェだろ)


 人生最悪の誕生日かもしれない。
 そうならないように、努力はするけれど。

「忘れもん無いか? っつってもサボは何も持って来なくたって良いんだけどな」

 シートベルトを締めながら運転席のエースが声を弾ませる。一応おれも財布と携帯くらいは持っているけれど、きっと出す暇は与えてもらえないのだろう。おれだって一月一日はそうしたからお互い様だ。
 大丈夫、と首肯したおれは、なるべく本心が悟られないようにさりげなくエースに『お願い』をする。

「エース……あんまり飛ばすなよ?」
「分かってるって。大事な大事なサボを乗せてんだ、安全運転で行くさ」

 ま、踏めば出る車だけどな。そう続けて意味深に笑ってからエースはエンジンを始動させる。今日のためにわざわざ借りて来てくれたというスポーツカーは二人乗りで、メタリックブルーの車体も流線型のフォルムもユニークな開き方をするドアも非日常感に溢れている。おれだって普段なら、存分に面白がっていた──はずなのに。

 自分の誕生日でもある今日この日に限って、とんでもなく、体調が、悪い。

 ここのところ相当忙しくしていたせいもあるだろうけれど、具体的な原因は不明だ。
 ただ、今日はベッドから起き上がるのさえキツくて、何とか床に両足をつけて立てたと思いきや、次の瞬間には膝から崩れて、顔が床にくっついていた。視界が回るせいで真っ直ぐ歩けず、顔を洗いに行くまでに三度は壁に激突したと思う。
 その後、冷たい水を飲んで少し──ほんの少しは回復したし、迎えに来てくれたエースの顔を見た瞬間には完全復活した気もしていた。実際、顔色だって良くなっていたと思う。一目見ただけで地獄のような体調不良が治るんだから愛の力ってすげェな! と勝手に納得してすらいた。
 けれど、結局はこのザマだ。幾らエースのことを愛していても、それとこれとは話が違ったらしい。当たり前だ、愛の奇跡で全ての不調が治るならこの世に医者は要らない。
 有り余る愛をもってしても、今も現在進行形で視界は揺れているし、割れそうなほどに頭が痛い。高級レンタカーゆえに気を利かせているのか、車内には嗅ぎ慣れない香水のような香りが満ちていて、それが胃の中の不快さを更にぐるぐるとかき混ぜてくる──いや、この香りだって恐らく、おれの体調が万全なら気にならないくらいの控えめな代物なんだろう。もう全部おれが悪い。
 何でだよ、と思わずにはいられなかった。どうして今日なんだ。誕生日は自分が主役のはずなのに、なんていう意味ではない。そうじゃなくて──

「っし、じゃあ行くか! 完璧に計画してっからな、楽しみにしてろよ!」

 ──エースが、前々からこの誕生日デートを頑張って計画してくれているからだ。
 おれがその『計画』について知っているのは、前からずっと気になっていたラーメン屋─辺鄙な場所にありすぎて高速使わないと行けないからと諦めていた店だ─へ連れて行ってくれる、ということだけだが、エースはそれ以上に色々と準備してくれているらしい。泊まりでという話だったからホテルだって予約していることだろう。こういう時のエースはここぞとばかりに張り切ってくれるから、だからこそ──。
 おれがぼんやりしている内にも、車は滑らかに動き出す。とても優しい走り出しだ。そんなに眩しくねェけど、なんて言いながらサングラスを掛け、片手で器用にギアを入れる運転席のエースは、いつもより少し大人びて見えて、悔しいくらいに格好良かった。
 助手席のシートに身を沈めながら、余計におれは自責の念に駆られる。大好きな恋人が全力で誕生日を祝ってくれるって言ってんのに、なんでおれは体調崩してんだろう。折角最高の誕生日にしてくれようとしているのに、おれのせいで最悪の誕生日になっちまう。それだけは、ごめんだ。

「サボ、そこ置いてるのコーヒーだから、飲みたかったら飲めよ。あ、でも眠かったら寝ててもいいぜ?」
「寝ねェから大丈夫。コーヒーもらうな」

 先に買ってくれていたらしいコンビニのカップコーヒーをありがたくいただく。体調不良にコーヒーが適しているかは分からないが、気つけくらいにはなるだろう。
 こうなったらもう気合いで乗り切るしかない。おれは内心エースに誓う。

 おれは絶対お前の、誕生日デートプランを完遂してみせる!
 ちゃんと全力で祝われてやるからな!!

「そうだ、結構先だけど途中にデカいサービスエリアあるから寄ろうぜ。例のラーメン屋並ぶかもしれねェし、先にちょっと食っとこう」
「そ、そうだな……!」

 誓った矢先だが、サービスエリアで食べて、ラーメンも食って──というのは想像するだけでも喉からこみ上げてくるものがある。つーかあの店、『重くて濃い』ことで有名なんだよな。今のおれに食えるんだろうか。
 どれも普段なら余裕だし、諸手を上げて喜ぶ提案ばかりだ。それなのに、こんな風に心配に思っちまうこと自体何だか申し訳ない気持ちになってくる。
 ごめん、エース。でも、おれ、頑張るから。

   ■

 何気ない会話をしていたはずなのに、エースは急に小さなサービスエリアへと車線変更をした。予定していたサービスエリアよりも随分と手前だ。

「あれ、どうかしたか? トイレ?」

 一言も相談が無いままに駐車場へと入ったのでおれは素直に驚いたが、停車してエンジンブレーキをかけたエースはすぐさまサングラスを外し、助手席へと顔を向けてきた。

「──サボ、調子悪いんじゃねェの? 大丈夫か?」

 思いもしない問いかけに、おれは先ほどとはまた違う意味で驚いた。なんでだ? 普通に話していたのに。

「いや……どうして?」
「どうしても何も、話し方で分かるっての。流石に運転中は真横向けねェから一回停めた。顔色悪ィぞ、おれの運転荒かったか?」
「違う、そんなことねェよ!」

 事実、エースは本当に安全運転だった。ゆったりと会話を楽しみながら走ってくれていたのも分かる。エースのせいでは決して無い。悪いのはおれなんだ。

「でも、お前……、」

 エースはそういって心配そうにおれの目を見つめた後、まあいい、と呟いてからシートベルトを外す。

「とりあえず外の空気吸うか? なんか飲む?」
「大丈夫。運転に酔ったわけじゃねェし」
「そうか。じゃあ帰ろうぜ」
「ああ……って帰る?! 家にか!?」

 あまりにもさらりと言われた言葉に、思わず頷きかけてしまった。なんでそうなるんだよ?!
「車酔いじゃねェのにそんな顔真っ青な方が心配だっての。時間経てば良くなるとは限らねェし、もっと悪くなることだってあるだろ? 次のところで降りて高速乗り直せばすぐに帰れっから」

「そんなのダメだ! だって、いっぱい計画してくれてんだろ?!」

 思わず語気を荒らげてしまう。確かに、実のところどんどん体調は悪くなっていた。でも、きっと少し我慢すればどうにかなる……はずなんだ。車まで借りて来て、全部調べて、計画して、それなのに帰るだなんて──!
 焦りだしたおれの頭は更に痛み出す。頭蓋骨の中で特大の鐘がぐわんぐわん鳴っている気分だ。上手く息が吸えない。視界が揺らぐのは元々だけど、ああ、クソ、大丈夫、大丈夫なのに!

「別にそんなんどうだって──、って、サボ?!」

 不快感が背筋を這う。勝手に涙が滲む。視界は荒波にもまれたように大きく揺らぎ、身体の中がねじれるような心地がする。ヤバイ、と思って口元を手で押さえた時には、もう指の先まで震えていた。
 最悪だ、最悪だ、本当に最悪だ。

「っ、えーす……、ごめん……吐く」

 無意味な謝罪と同時に全身に悪寒が走る。最後に見たのは差し出されたエースの両手だった。

   ■

 人生最悪の誕生日だ。

「本当にごめん、エース……」
「だから良いって。寝てろよ」

 あの後、よりにもよってエースの掌の上に吐いたおれは─もっとも胃にはコーヒーくらいしか入ってなかったけれど─緊張の意図が切れたせいかぐったりとしてしまい、全ての後始末をエースにやらせた挙句、計画を中断させてのこのこと自分の家まで帰って来てしまった。車から自力で降りることも出来ずに所謂お姫様抱っこ状態でベッドまで運ばれ、あれこれと世話まで焼かれて今に至る。
 これを最悪と言わずに何と言うのか。もうこのまま消えてしまいたいくらいだ。誕生日に思うことでもねェけど。

「吐いた後の始末までさせちまったし……本当に車、大丈夫だったのか? クリーニングとか、」
「だからそれも大丈夫だって、汚しちゃいねェよ。おれだって別に今更サボが吐くのくらい気にしねェし。普段もっと凄いことシてんだろ」
「それにお前、めちゃくちゃ計画してくれてたんだろ? 台無しにしちまってごめん、きっとサプライズとかも用意してくれたよな、本当にごめん」
「うっ、サプライズまで読むなっての……確かに用意はしてたけどよ」

 床に座ってベッドに肘をついたエースは、おれの顔を見つめて口元だけで笑う。

「サボを一日中めいっぱい幸せにして、甘やかしてやりてェと思って計画してただけなんだから、計画そのものなんざどうだっていいんだよ。むしろ調子悪かったんなら最初から言えっての。すぐに気付けなかったおれも悪ィけどよ」

 エースは額に張り付いていたらしいおれの前髪を戻しながら、柔らかい声で続ける。

「──バカなこと言ってねェで、よく寝て早く元気になれよ。ラーメン屋なんて、またいつでも行きゃあいいんだから」

 そう言って細められたエースのその両目に、ほんの少し肌に触れたその指の感触に、体調は悪いままだというのにどうしようもなく胸が騒いだ。申し訳ないと思っているのは本当なのに『好き』が勝ってしまうのは、おれが我が儘なせいだろうか。

「……エース。迷惑掛けついでに、もうひとつだけ良いか」
「だーかーらー迷惑じゃねェっつってんだろ。人の話聞かねェな? なんだよ、一個でも百個でも言え」
「その……一応、誕生日だし、今日だけでいいから……ずっと側に居てくれないか」

 そう言っておずおずと布団の合間から片手を出してみる。我が儘だな、もう眠っちまいそうなのに、それでもこんなこと言うんだから。本当に我が儘だな、ここに至ってもまだ、今日を最高の──好きな相手とずっと一緒に居られる誕生日にしようとしているんだから。
 おれの不躾な願いにエースは一瞬目を丸くしていたが、すぐさま耐え切れないとばかりに笑い出した。

「そんなの、今日『だけ』な訳ねェだろ!」

 一生そばに居るさ、とエースが当たり前のように笑っておれの手を握る。伝わる熱の心地良さに、やっぱり愛の奇跡はあるかも、なんてバカみたいな考えが浮かぶ。次第に微睡んでいく意識の中、「誕生日おめでとう、サボ」というエースの優しい声だけが耳に残った

                                   【完】




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