▼ 注文の多い料理店を出禁になる話
端的に言いますと、エースとサボは迷子になっていました。
「さっきもここ通ったみたいだ」
剥き出しの山肌にコートの裾が擦れるのも厭わず、サボはそう言って樹の根元にしゃがみ込みました。そこにあった石の欠片は、サボがポケットから出した欠片とぴたりと合致します。目印代わりに、石を半分に割って置いていたのでした。
「マジかよ。ったく、こうも曇ってちゃ方角も分かりゃしねェ」
エースは被っていた帽子を背中側に落としながら空を見上げます。空には黒灰色の雲が緞帳のように垂れ下がっていました。
「とりあえず傾斜を登ろう。上から見た方が早ェはずだ」
「なんっか方向感覚ズレんだよな……山育ちのおれがこんな山で迷うか? 普通」
「おれもそう思う。もしかしたら既におれたちは敵の掌の上なのかもな」
「敵っつーと、おれの? サボの?」
「そこまでは分からねェけど……」
サボはゆっくりと立ち上がってから肩を竦めました。
「ただ、おれはこの木とは逆方向に歩いてたつもりだったんだ。何かがおかしい」
「ああ。そうだな」
「あと……スゲェ腹減った」
「おれも」
二人は目を見合わせて、力なく笑いました。天下にその名を轟かせている白ひげ海賊団二番隊隊長と革命軍参謀総長といえども、腹の虫には勝てません。
こんなことなら、近道なんてしなければ良かった──二人は内心そう思っていましたが、お互いに「わざわざ迂回すんの面倒臭ェな」「山突っ切ろうぜ」と二秒で決定した事柄だったので今更そんなこと口には出せません。本当なら今頃お腹いっぱいご飯を食べて、会えなかった寂しさの分だけセックスして、後は抱き合って好きなだけ寝るという三大欲求フルコースを味わっているはずだったのに──と思っていてもです。
空きっ腹を抱えながらそれでも仲良く山の頂上を目指して歩いていると、急に拓けた場所へと出ました。そこには見るからに立派な、まるで貴族の邸宅のような一軒家が建っていました。山の規模から考えると、この館の存在に今まで気付かなかったのはとても不可思議でした。
「……でっけェ家だな。いや、待てよ、なんか書いてある──」
エースが玄関に立てられた看板に気が付きました。そこには【西洋料理店 山猫軒】と流れるような文字で書かれていました。
「西洋料理店、ねェ? つまり<西の海>の料理を出すってことか?」
「おいエース、こっちには【どなたもどうかお入りください】って書いてあるぞ」
サボが両開きの玄関扉を指さします。どうやら営業中といった風情でした。
とりあえず入ってみよう、と二人は玄関扉をゆっくりと押し開けます。中へ入るとそこは廊下になっており、両側の壁には一風変わった絵画や何かの動物の骨が飾ってあります。真っ直ぐに進むと、またしても扉が立っていました。そこにも、玄関と同じように、メッセージの書かれた札が下がっています。
【ことに肥ったお方や若いお方は、大歓迎いたします】
その札を読んだ二人は不思議そうに顔を見合わせました。
「若く……は、あるけどよ」
「なんだろうな、この注意書き……」
特にサボの方は腕を組んでまで考え込みます。何かもう少しでひらめきそうな気もしましたが、エースは「いいからさっさとメシ食わせろよな」と扉を開いてどんどん前へ進んでいってしまうので慌ててその後を追いました。
やはり扉の先は短い廊下になっていて、その先には扉がありました。扉には、お決まりのように札が下がっています。
今度の札には次のように書かれていました。
【当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください】
「メニューが多いってことか? そりゃあ良いな」
「いや、向こうが何かと注文つけてくるって意味じゃないか? 実際、こんな注意書きを扉ごとに付ける理由なんて無いはずだろう」
やっぱりおかしい、とサボは様子を窺うように辺りを見回します。
「──しかも豪奢な内装の割に、調度品の趣味がバラバラだ。格式張ってるくせに案内人の一人も出てこねェし、そもそも間取りもおかしい」
サボの指摘はもっともでしたが、かと言ってすぐに引き返すほど慎重な二人でもありません。「怪しいなあ」「どんな奴が待ってんだろうな」等と呟きながら更に足を進めます。怪しみながらも好奇心が勝っているのはお互い様でした。
とはいえ──、
【注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえて下さい】
「しつけェな」
「しつけェな」
──扉に下がっている注意書きへの態度はどんどんと粗雑になっていきました。
そうやって幾つか扉を過ぎると、今度は、扉のすぐ横に鏡台の上に櫛と小瓶が置かれていました。注意書きには次のように書いてありました。
【お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落としてください】
「は? まあ、いいけどよ」
「既に随分汚してきたけどな」
サボが振り返ると、毛足の長い絨毯の上には二人の残した泥だらけの足跡がしっかりと残っていました。もっとも、そんなことで一々悪びれたりする二人ではありません。
「こいつは何だ?」
エースは鏡台の上の小瓶を手に取ると、ガラス細工の施された蓋を外して、くんと匂いを嗅いでみました。花のような香りがしたので、試しにそのまま掌に出してみると更に香りは広がりました。
「ああ、これで髪整えろってことか」
注意書きの意図を理解したエースは鏡の前で自分の髪を撫で付けてみます。長時間の山歩きでいささか跳ねていた髪の毛は、しかし、一度でぴったりと収まりました。
すると、鏡越しにサボがこちらを見ているのが見えたので、エースは「どうした?」と振り返ります。
サボは「いや……」と、覗き見がバレたように後ろめたそうに目を泳がせて、それから再びエースの顔を横目で見遣りました。
「……オールバックのエースも格好よくて、つい見とれちまっただけ」
恥ずかしそうにそんなことを言うのだから、エースはサボが可愛くてなりません。
「なんだよ、お前もやってやろうか?」
「おれはいいよ」
ひとしきり子どものようにじゃれ合ってから、二人は次の扉へと向かいました。
今度は扉の横に文机のようなものが置いてあり、そこに銀色のトレーが恭しく鎮座していました。エースがそのトレーを眺めていると、サボが扉の注意書きを読み上げます。
「【武器になるもの、尖ったもの、金属類、装飾品などは全てここに置いてください】──だってよ。いよいよ怪しいな」
「無視するか?」
「ああ」
流石に武器を全部置いていけ、というのは不自然です。サボは注意書きを無視して扉を開けようとしますが、びくともしません。
「……開かねェ」
「嘘だろ」
エースは目を丸くします。サボが力を込めても開かないなんてとても信じられません。エースは「貸してみろ」と自分が代わってみましたが、やはりどれだけ押しても引いても、扉を開けることは出来ませんでした。伝わるはずの力がどこかへ逃げていく感覚すらあります。もしかしたら燃やすことは可能かもしれませんが、手の内をここで晒して良いものかは悩ましく思えました。
「──どっかで見てやがんのか」
エースは視線を天井へと投げます。監視用の電伝虫でも居るのかと思ってのことでしたが、その姿はありませんでした。何か別の方法でこちらの動向を伺っているようです。
どうしたものかとエースは逡巡しました。引き返すことは出来そうでしたが、ここまで来てそうしてしまうのも面白くありません。結局、「敵の罠かもしれないがわざと乗ってみよう」とサボが言うので、エースは大人しく首や手につけている装飾品を外して、腰に提げていたナイフと一緒に銀色のトレーに置きました。サボも鉄パイプを壁に立てかけます。
ほんじゃ、と改めてエースは扉を開けようとしました。しかし、扉はびくとも動きません。
「まだ開かねェのかよ!」
「金属がダメってことは、ベルトやおれのゴーグルなんかも該当すんのかもな」
「マジか……」
結局エースは帽子とベルトを外し、サボに至ってはゴーグルやベルトはおろかコートやベストまで脱ぐ羽目になりました。サボは「このボタン、金属ってほどじゃねェだろ!」と何となく天井に向かって文句を言いましたが、もちろん答える声はありませんでした。
やっと開いた扉の向こう側は、今までのような短い廊下ではなく、広い談話室のような作りでした。
豪奢なソファに囲まれた低い猫足テーブルの上には、白い大きな陶器の壺が二つ並んで置いてあります。テーブルの上には、今度は札ではなく、手紙のようなものが一枚添えてありました。
【壺の中のクリームを顔や手足にすっかり塗って下さい。服は出来る限り脱いでください】
これには二人も、揃って同じ方向へ首を傾げてしまいました。
「はあ?」
「いよいよ分からなくなってきたな」
「ふーん……じゃ、塗るか? 『わざと乗ってみよう』って話だったもんな?」
「あ、ああ……」
あまりサボは乗り気でないようですが、エースは壺の蓋を外すと中に指を突っ込んで掬い上げます。中に入っているのは、白くて少しもったりとした、粘度のあるクリームでした。ミルクかバターのような匂いがエースの鼻をくすぐりました。
エースがそのクリームを自分の剥き出しの腕にすべらせると、更に強く香る気がします。
「……良い匂いだよな、コレ」
「なんか色々混ざってるみたいだな。腹減る匂いだ」
エースが塗り始めたので、サボもまた─自分が『わざと乗ってみよう』と言い出した手前もあって─仕方なく手袋を脱ぎました。注意書きには【服は出来る限り脱いでください】と書かれていましたが、既にコートもベストも前の扉で脱いでいたので、シャツの袖をまくるだけにしておきました。
サボは掬い上げたクリームを、手の甲から、顕わになった腕の辺りにまで、丁寧に塗り広げていきます。白い肌の上を更に白いクリームが這うように侵食していきました。
「あんま伸びねェな。塗りづらい」
サボはぼやきながら両腕に塗ると、両手を再度鼻の前に翳して匂いを確かめてから、いささか恐る恐るといった様子でちょんっと頬にもクリームを付けました。
「食えそうだけど、このクリーム……さすがに食うわけにはいかねェよな?」
「むしろ今はサボが食いてェんだけど」
「分かる、腹減ってると何でも食いたくなっちまうよな──て、なんだって?」
思わず一度同意してしまいましたが、サボはすぐに何を言われたのかを理解して驚きました。
エースは「だってサボ、お前、エロすぎるだろ!」と小さく叫ぶとまるで被害者かのように頭を抱えます。先程整えたばかりの髪が一筋、エースの額へと落ちました。
「急にどうした?!」
「急にも何も当然だろ、そんな白くてもったりしたクリームべたべたに塗りつけやがって! エロい仕草で塗るな! そんな無防備な格好で、手袋まで外しちまって!」
「お前も同じことやってんだろ?!」
どの辺りでエースのスイッチが入ったのか分からないとばかりにサボは慌て始めますが、当のエースの方はというと、既にさっきまでの被害者然とした慌てぶりが嘘のように大人の男の目をしていました。
「──いいじゃん。お誂え向きに高そうなソファまであるし。訳分からねェことさせられてんだし、ソファくらい思いっきり汚してやろうぜ?」
「いや、っつーかメシは!? それに監視されてるだろうし、ほら、罠かもっつってんのに、」
「見られてるかもって思った方が興奮すんじゃねェの? サボの場合」
「そんなこと、」
「それに」
エースはサボの言葉を遮ると、べとついた手でサボの腕を掴みます。二人の肌が触れ合うとクリームは更にぬるぬるとした質感となり、いやらしい音すら立てました。
「メシより何よりサボが食いたくなっちまったんだよ。それとも、サボはおれが欲しくねェの?」
そう言ってエースがサボの肌を親指でさすると、サボは今にも泣き出しそうに目を歪めてから、悔しそうな声を絞り出しました。
「ッ、…………んなの、欲しい、に決まってんだろ!」
その姿を見て気分を良くしたエースは、はは、と小さく笑いました。それから、サボの腕を掴んだまま手首の内側から指先まで熱い舌でべろりと舐め上げて言いました。
「──甘ェな、サボは」
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一番奥の部屋では化け猫たちが、迷いこんできた愚かな食材たちの様子を水晶球越しにじっと見つめていました。
「親方、どうしましょう。食材になりそうな人間たちがやって来たと思ったら、途中の部屋で急に交尾を始めたんですが……」
「帰ってもらえ。怖いから」
流石の人喰い化け猫といえども、人の店に入って来て急に交尾し始めた人間の雄二匹に対しては、食欲よりも恐怖が先立ちました。途中まで警戒していた素振りもあったのに、と思えば、余程の余裕がある強者ということでもあるのでしょう。こういう輩に喧嘩を売ってしまっては命が幾つあっても足りないと、老獪な化け猫はよくよく知っていたのです。
気が付くと、エースとサボは豪奢な談話室のソファの上でなく、ふかふかの落ち葉の上で青姦をしていました。しかし、正直その時の二人はまさに盛り上がりに盛り上がっていたところだったので、まあいいか、と特にそのことに言及することもなく、そのままセックスを続けたのでした。
【おしまい】