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▼ ルシエルナガ


 通りから見た時には分からなかったが、この宿には四方を建物に囲まれた小さな中庭があるようだった。
 部屋まで案内してくれた宿屋のジジイは、しきりに「中庭じゃなくてパティオ」と訂正しながらも、この宿の自慢なのだと胸を張っていた。一階の客室はテラスから直接庭に出られるからアンタは運が良いとも言っていたっけな。
 っつっても、外はもうすっかり暗くなってるし、おれは庭になんざ興味無ェからどうでもいい。単身ストライカーでグランドラインを逆走するのは存外体力を消耗するから、そこらで野宿するよりは雨風しのげる平らな場所で横になりたい。望みなんてそれくらいだ。そりゃ出来れば美味いメシ屋が近くにありゃあありがたいが、いずれにしろ、宿から見える景色を気に留める余裕もなかった。
 暖炉の火を準備するというジジイの申し出を断ってから、ベッドに腰掛けつつ指先に灯した炎を飛ばす。分厚いばかりの薪が従順に燃え始め、石造りの部屋に柔らかな光が広がった。マッチか何かで点けようとするとやたら時間がかかるが、メラメラの実の能力なら一瞬だ。ただ、油断すると部屋が暑くなりすぎるので、適当なところで消してさっさと寝ちまおう。そんで朝になったらさっさと次の島に行く。
 ──今日も何も情報得られなかったしな。
 逸る気持ちのままにベッドに仰向けに倒れこむと、視界の端に奇妙な緑色の光が見えた。

「なんだ?!」

 寝転んだばかりだというのに慌てて飛び起きる。何かの攻撃かとまでは疑わないが、小さな点のようなものが不規則に揺れ動いているのは気味が悪い。
 しかし、数回瞬きをしたおれは、すぐさまその正体に気付いた。立ち上がって、テラスへと続く大きな二重窓を開いて外に出る。ひやりとした夜の空気は肌に冷たいが、おれの肌が粟立ったのはそのためじゃなかった。

「…………すっげェ」

 なるほど、宿の自慢だというのは誇張でも何でもなかったらしい。部屋から漏れ出る暖炉の光をもってしてもなお暗いその中庭には、緑色の淡い光が幾つも飛び交っていた。

「蛍、か。こんな寒ィ季節に……」

 気候も習性もお構いなしとは、流石はグランドラインといったところか。おれにとっちゃ酷く季節外れに見える代物だが、宿の主人が特に何も言わなかったことから察するに、この辺じゃ珍しくないのかもな。
 しかし、寒空の下で音もなく浮遊する光は、興味が無かったはずのおれの目すら惹きつけてやまない。蛍は死んだ人間の魂だ、なんて作り話をガキの頃に聞いた覚えもある。あれはマキノが教えてくれたんだっけか。作り話とはいえ、今おれがあの男を追っている理由を考えりゃ、いやがおうにも胸にクる話だ。
 いや、待てよ。そうだ、話じゃなく歌だったな。そう、丁度『こういう歌い出し』で──って、待て、おれはまだ歌っちゃいねェぞ!?
 思い浮かべたと同時に聞こえてきたのは、間違いなくおれが記憶している歌だった。
 抑揚を抑えた、子守唄のように柔らかく、そして少し甘い歌声。だが、若い男の声だ。おれの真上から聴こえてくるから驚いたが、どうやら同じようにバルコニーに出て庭を眺めている客が居るらしい。
 その小さな歌声に感じる、この懐かしさはなんだろう。それが東の海の歌だからだろうか。一番の歌詞ばかりを繰り返すその歌声の主に気安く下から声をかけたのは、そういった自分でもよく分からねェ感傷からだったのかもしれない。

「歌上手いな、お前。うちの海賊団に入るか?」
「うわっ!?」

 素っ頓狂な声が二階から響いたので、更に首をひねって上階を見上げる。同じように相手も身を乗り出してこちらを見下ろしている気配はあったが、お互いに顔までは見えなかった。でも、まあ、声の感じからして同い年くらいってとこだろうか。

「わ、悪ィ……この寒いのに窓開けてる奴なんて居ねェと思って」
「外出てんのはお前も同じだろ」

 呆れ声で返してやると、二階の客は覗きこんでいた身体を戻す。脅かしちまったかといささか残念な心地でおれも顔を引っ込めたが、予想に反して「いや、おれも出るつもりは無かったんだ」と相手の声は続いた。

「久々にベッドで横になれたし、さっさと寝るつもりだったんだが、窓に蛍の光が見えてびっくりして起きちまった」

 なんだそれ。おれと全く一緒じゃねェか。
 そう思うとやけに可笑しくて、おれはテラスの柵に両肘を引っ掛ける。もう少し、ここでこうやって居たい気分になっちまった。

「分かるぜ、見たくもなるよな。ずいぶんと綺麗な庭だ。こんな季節に蛍だしなァ」
「ああ。幻想的で、どこか物悲しくて……昼間のパティオとはまた違った雰囲気だ」

 わずかに悲しみが滲んだような声だ。もしかしたら、こいつも何か蛍と魂について思うところがあるのかもしれない。だからこそ、あの歌を口ずさんでいたんだろう。

「そういえばお前、東の海(イースト)出身か? さっきのやつ、すげェ懐かしい歌だ」
「いや、まあ……ってことはあの歌、東の海の歌ってことか?」
「なんだ、知らねェで歌ってたのか? だから一番だけ繰り返してたのかよ」
「続きがあるのか!」
「そりゃあな。だって、そこで終わっちまったら、悲しいだけの話になるだろ?」

 こう言っちゃあ身も蓋もないが、一番の歌詞で歌われているのなんて要約すりゃあ『死んだ者の魂は蛍となって虚空を舞う』という、それだけだ。そこで終わっちゃ虚しいだろ。

「そうか……そういう歌なのかと思ってた」
「まあいいさ。で、うちの海賊団入るか?」
「なんでそうなるんだよ」

 流れるようにさりげなく誘い文句を繰り返してみるが、「脈絡無さすぎるだろ」と手厳しい声を返される。

「歌上手いし、宴が盛り上がると思って。お前が居ると楽しそうだ」
「別に上手くもねェだろ……それに顔も合わせてねェ相手をそんな理由で誘うなよ。そんな気軽で良いのか? 海賊って」
「おれの隊に入れる分には構わねェさ。それに、まさかお前、急に『実は海兵で』なんて言い出さねェだろ?」
「はは、海兵か。それだけは無いな」

 愉快そうに笑う、その声だけでも胸が逸る。何だろうな、ざわつくようなこの気分は。
 顔も碌に見えちゃいねェし、どんな奴かも分からねェ。でも、どうしても気になる。もっと話したい。もっと知りたい。
 たった数フレーズの歌声とほんの少しの会話だけで、おれをこんな気持ちにさせるお前は、一体どこの誰なのか。

「なあ、今から──」

 一緒に酒でも飲まねェか。
 そう誘いかけようと口を開いたと同時に、真上で小さなくしゃみの音がした。

「ん、悪ィ、ちょっと肌寒くて……何か言ったか?」

 二階の客はすんすんと鼻を鳴らしてから問いかけてくる。確かに寒い夜だ。他に客も居るだろうに、外に出ているのはおれ達だけってくらいには。

「いいや──別に。冷えるし、そろそろ寝るかって言っただけだ」
「……そうだな」

 久しぶりにベッドで横になれるって、二階の奴も言っていたしな。あっちはあっちで忙しい旅程でもあるんだろう。無理をさせたいわけでもない。おれだって陽が昇って海上の視界が充分に開けたら、さっさとストライカーを駆って次の場所へ行ってみようと思ってた──くらいだったんだが。

「なあ、明日の朝、一緒にメシでも食わねェか?」
「え?」

 ちょっとばかり予定変更だ。忙しそうな相手ってことはきっと色んな場所に顔出しているし、もしかしたらおれが追っている男の目撃情報だって持っているかもしれねェ。あるいは十七になって出航しているはずの弟だって、きっと今頃もうグランドラインに入っている。ルフィはどこに居ても目立つ奴だから、そっちを見かけたなんてことも有り得るかも。
 いや、でも、「情報が欲しい」ってのは紛れも無く本音だが、同時に建前ってことにもなっちまうかも。だって、結局のところ、それだけが理由じゃねェんだから。

「別に本気でウチに勧誘しようってわけじゃねェよ。ただ、なんつーか……もっと話してみてェんだ。もっと知りてェんだよ、お前のこと」

 口にしてみると、まるでナンパみてェだな。男相手に何やってんだ、おれは。でも、たとえ上の階のやつが海兵だったとしても、おれはきっと同じように誘いかけただろう。
 おれの誘いに、しかし二階の客は答えない。夜の空気よりも重たい沈黙が流れる。流石に引かれたかと思わず額に手を当てていると、不意に上から「分かった」と声が降ってきた。

「……じゃあ、あの歌の二番以降の歌詞教えてくれよ。明日、メシ食いながらでいいから」
「良いのか!」
「実はおれも、お前ともっと話していたいって思ってたんだ。不思議な感覚だけど、初めて会った気がしねェっていうか──」

 そこまで言うと、二階の客は再び小さくくしゃみをした。

「──っと、流石に冷えちまった。こんなことならコート着て出りゃ良かった……。とにかく、その、えっと……楽しみにしてる。先に起きた方が相手の部屋の扉をノックするってことで良いか?」
「おう!」

 また明日、と他人にそんな台詞を言うのも久しぶりだ。
 石造りの宿は壁も天井も分厚くて、窓を閉じてしまえば上階からの音は聞こえない。けれど、今この上で、さっき話した相手が自分と同じように朝を楽しみにしながらベッドに入っている──そう想像すると何だかとても浮かれてしまって、おれは多分、ニヤつきながら眠りに落ちた。

  ■

 扉の向こう側に気配を感じた気がして目が覚めた。
 朝の光は薄ぼんやりと部屋を照らしていたが、まだ枕元にまでは届いていないくらいの時間だ。
 ノックをされたわけではないが、足は自然と扉の前へと向かう。わずかに扉を開いてみるが、そこには誰の姿もなかった。ただ、一枚の紙が扉の下から差し込まれているのに気付く。拾い上げてみると、紙には『下の階の海賊へ』と走るような文字で書いてあった。
 あの二階の客からだ──そう思った途端におれの目は急いで文字を追い始めた。
 夜明け頃に急用の連絡が来て、今すぐ宿を立たなければならなくなったこと。
 一緒に朝食をとるという約束を守れなくて、申し訳なく思っていること。
 自分も楽しみにしていたから、とても残念だということ。
 でも、変だけど、お前とは何か縁のようなものを感じるということ。
 次に会えたら、歌の続きを教えてほしいこと。

 本当に急いでいる中で、それでも書き置きを残していかねばとペンを走らせたのだろう。斜めに歪んだ字には書いた相手の焦りが見てとれた。

「そうか……まあ、そういう事情なら仕方ねェ、って思わなきゃならねェんだろうな」

 いつかまたどこかで──その結びの言葉まで読み終えた後のおれの気持ちに、落胆がなかったといえば嘘になる。ひとり呟く唇を、思い切り歪めてしまったのだって不可抗力だ。

 だが、そんな気持ちは、最後の『一文字』を見て全て吹っ飛んだ。

 書き置きを手にしたおれの、親指に隠れていたその文字。
 イニシャルであろう『S』に重なるのは、海賊旗のような印。
 サインの代わりに手紙にこう書く奴を、おれは一人だけ知っている。
 無意識に左腕の刺青に触れていた。
『同じ文字』が、ここにも刻まれている。
 もう十年も前に死んでしまった、おれの──。

 書き置きを強く握りしめて、扉の蝶番が外れるのも厭わずに扉をぶち破って走り出す。心に足が追いつかなくてもつれて転びそうになる。宿の主人が何事か叫んだがそれすら耳に届かない。まだ薄暗さの残った朝の、人もまばらな街中で、おれはたった一人の男の姿を探そうとする。思い浮かぶのは子どものままの笑顔と、遠ざかっていく小さな背中だけだというのに。

「──サボッ!」

 それでも名前を叫ばずには居られない。それでも駆け回らずには居られない。有り得ないと分かっているのに声の続く限り呼び続け、息の続く限り走り続けた。サボ、サボ、行くなサボ。行かないでくれ。それは別れの時の自分の声とも重なって聴こえた。
 そうやっている内に、遂に島の外れまでやって来てしまった。
 冬の風が吹き込む崖の上からは、朝日を迎えたばかりの海原が場違いも甚だしく煌めいている。見渡す限りの海の上、どこにも船の一隻すら見つからない。

「……んなこと、あるわけねェよな……」

 荒い息を吐きながら海を見つめていると、急に自分の必死さが笑えてきた。
 きっとこのサインだって、おれがそう思うから見間違えただけで、きっとただの書き損じなんだろう。それか、似たようなサインを使っているってだけだ。そうに違いない。
 それもこれも、きっと昨夜の歌のせいだ。あの歌は、二番から、亡き人の魂が友と語らうために帰ってきたと続く。それが頭のどこかに引っかかってたんだろう。
 だから、もしかしたら、と思ってしまった。
 もう一度、サボに会えるかもしれない、だなんて。

「はは……バカみてェだな。寝惚けてんのか、おれは」

 ──あいつは死んだんだ。
 自分で自分に言い聞かせながら、遠い海を渡るカラスの群れをぼんやりと見つめる。手にしていた書き置きが風に飛ばされそうになって、ぐっと拳を握り直した。

                                     【完】


※この後、エースがバナロ島行く前に出会えたら生存IFルートになります

「最初に話した時、すぐに追いかけたけど全然見つからなかったぞ?! 出航早すぎだろ!! それともおれが起きるのが遅かったのか?」
「ああ、確か本気で急ぎの用だからって迎えが来てて、そのままカラス乗って行ったんだ」
「カラス……あん時に見たカラスの群れ!!!?」

みたいな
あとタイトルはスペイン語で蛍の意味です




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