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▼ こんなにドキドキときめくな!


 船に戻るなり、着ていたコートや身に着けていたベルトをその辺に脱ぎ散らかしながら、コアラの姿を探し回る。
 すっかり上半身の衣服を落としきり、ブーツを脱ぎながら片足で跳んでいる頃になって、漸くその姿を船の厨房で見つけた。

「居た! コアラ! 石鹸貸してくれ!」
「はい? わっ、なんで服脱いでるの?!」

 コアラは顔をしかめつつ、テーブルの上のトレイにティーポットを載せていた。淹れたての紅茶の香りがする辺り、きっと今から自室に戻って久方ぶりの休息時間と洒落込むつもりだったのだろう。だが、ちょっと待ってくれ。こっちは急用なんだ。

「さっさと風呂に入りたいから脱ぎながら来た。だから、石鹸」
「『だから、石鹸』じゃなくてさ……あーあ、もう、点々と脱ぎ散らかしてるし」

 おれの後方を見遣ったコアラは大げさな溜息をつくと、それにね、と続けた。

「さっきから要件ばっかだけどさ、いつも使ってる備え付けのじゃなくて、わざわざ私に借りに来たからには理由があるんじゃないの? あっ、というか帰り早かったね。また一緒の宿に泊まれなかったんだ?」
「泊まれるわけねェだろ!」

 我ながらまるで噛み付くような即答だ。でも、仕方がないだろ。エースと会った日の夜は毎回こうやってからかわれるが、エースと同じ宿に泊まるだなんて、想像しただけでも緊張しちまうんだから無理に決まっている。
 別室ならまだしも、エースの奴はおれのことなんて兄弟としか思ってないんだから、絶対に「同室が良い」と言い出すに違いない。

 もしそうなったら、一体どうやって眠りにつけば良いって言うんだ──おれはエースのこと、勝手に好きになっちまってるのに!

 コアラは「革命軍は外泊禁止ってわけじゃないのにね?」と小首を傾げながら更に追い打ちをかけてきたが、それについては、もう無視だ。いいから石鹸、そう、石鹸だ。

「んなことより、エースがおれの見た目のことちょっと気にしてるみたいで……ほら、今日も服とかそのままで出ちまっただろ? だから明日は、可能な限り清潔な状態で会いたいんだ。浴室の石鹸じゃ泡立たねェからコアラの貸してくれ」
「えっ! いや、エース君でしょ? そんなこと気にしないんじゃないかな」
「おれだってそう思ってたけど……」

 エースもおれも、元はコルボ山やグレイターミナルを中心に生活していたんだ。顔が汚れようが、服が破れようが、それが当たり前だと思って生きていた。山賊の家に移ってからは、ダダンに風呂場に放り込まれることも増えたが、それだって最低限だったはずだ。
 今だって、戦地から戦地へ、任務続きともなれば水だって節約するし、そもそも風呂や洗濯どころじゃない場合も多い。こうやって任務も終わって、補給のために寄港するって時には余裕もあるけれど、それでも特別時間をかけるほど気にかけちゃいなかった。いつも会いたい気持ちを抑えきれず、港に着くなり船を飛び出してしまうから、髪が跳ねていようが服が汚れていようがお構いなしだった。
 エースだって海賊だし、海の荒くれ者と一緒に過ごしているんだ。綺麗さだの何だのを気にしているだなんて、全く想像もしていなかったんだ──さっきまでは。
 おれはもう片方のブーツを脱ぎながら、なるべく自嘲にならないように話を続ける。

「……本当は、前から気にしてたみてェなんだ。今日まで言わなかっただけで。あいつはいつ会ったって三百六十度どこからどう見ても格好良いもんな」

 今となっては反省している。エースと会う時くらいは、もっとちゃんと綺麗にしていくべきだった。エース自身がそうだからというのもあるが、実際のところ、それだけが理由じゃなかった。
 ──おれだって男だ。好きな相手の前では少しくらい格好つけたいさ。たとえこれが身勝手な恋心で、一生想いを告げることすら適わないとしても。

「……そっか。うーん、とりあえず事情は分かりました」

 多分誤解だと思うけど、と付け加えてコアラは頷く。誤解じゃねェよと反論したくもなったが、それより先にコアラは人差し指を立てて、作戦会議みたく発言を始めた。

「それなら、必要なのは石鹸じゃなくて、シャンプーにコンディショナーにトリートメント、それにバスソルトにボディソープにボディクリームだね。良かった、たまたま持って来てて! ベティさんに感謝だね」
「なんだって?」

 シャンプーくらいまでは聞き取れたが、その後につらつらと並べられた単語は、おれの耳を右から左へ通過する。コアラの方は他の女子とそういう話で盛り上がるのが好きなんだろうが、そういう類に興味のないおれには馴染みのない言葉ばかりだ。
 そりゃあ貴族だった頃は、豪奢な風呂に毎日入れられては使用人に全身洗われて、服まで他人に着せられる生活だったが、家を逃げ出してからはゴミ山の住人、その次は革命軍育ちだ。石鹸一つで賄える暮らししかしてない。

「サボ君が上から下まであの共用石鹸だけで洗っているの、正直どうかと思ってたんだよね」
「お前だって思ってたんじゃねェか!」
「まあ、それはそうだけど……たまには他人だけじゃなく、自分に気をかけても良いんじゃないかなってことだよ。物資が手に入ってもすぐに皆に分けちゃって、サボ君の手元には何も残さないじゃない。お風呂だって、総長室の横には個別のもあるのに全然使わないしさ」
「だって、掃除するところ増えると面倒だろ?」

 おれが自分で掃除するならまだしも、水回り含め掃除は基本的に当番制だ。おれ一人が使うことで全員の掃除の手間が増えるなんて無駄すぎる。
 何を当たり前のことを、と眉を寄せるおれに、コアラは「そういうところだよね」と嘆息してから目を細めて微笑んだ。

「だから、こんな風に頼られると、こっちも張り切っちゃうんだ」

   ■

 朝からコアラに髪までセットしてもらって、普段は着ない予備の服一式まで出してもらって、帽子だっていつもとは違う物を小脇に抱えて、花束みたいな良い香りがしているのを自分でも感じて、これならきっと、少しは良いところを見せられると、そう思って意気揚々とエースを探し出したっていうのに。
 ──それなのに。

「キ、『キラキラ』ってなんだよ……」

 折角整えてもらった髪はぐしゃぐしゃに乱されて、頭を両側から掴まれて、エースの顔が真正面にあって、こんなにまっすぐ見つめられて、なんでこんなことになってんだ?
 エースはというと、未だにソースをべったり付けたままだっていうのに、真剣な顔つきも相まって、あまりにも格好良すぎた。お前は結局何をしてても格好良いんだな。

「おれにもよく分からねェが、サボはずっとキラキラだ。自分じゃ分からねェのか?」

 そんな風にじっと見るな、ああもう、顔が近ェ。目を逸らしても、触れる指先の感触がおれの体温を上げていく。きっと見える肌全部真っ赤になっちまってることだろう。恥ずかしい。

「……いや、キラキラなんてしてねェと思うが、」
「してんだよ!」

 おれが言い終わらない内にエースは食い気味に言うと、急に険のある目つきになって周囲を睨み回す。こんだけ言い合ってちゃ店中の視線も集まっているもんな。まあ、エースが思いっきり顔から突っ伏して寝ていた時点で、かなり衆目は集めていたんだが。
 エースの視線が外れたことで、おれの頭も少しは回るようになった。なんて言われたっけな、正体不明の『キラキラ』はともかく──そうだ、『落ち着かねェ』だ。要するに、このおれの格好がエースを『そう』させているということだろう。

「えーっと、エース。よく分からねェがアレか? この格好、あまり良くなかったか?」
「…………良い」

 おれへと視線を戻したエースは、妙に溜めてから何故かムッとした表情で答える。いや、『良い』って顔じゃねェだろ、それ。
 しかし気を遣ってそう答えるタイプでもないし、エースが何を考えているのか、おれにはさっぱりだ。いつもは手に取るように分かるのに。
 とはいえ、エースの方も少しは落ち着いたらしい。おれの頭から手を離すと、おれが持っていた布─店長のオヤジから借りた台拭きみたいなやつだ─を取り上げて、汚れた顔を拭い始める。
 大型のネコ科の毛づくろいめいたその姿を見て、おれは急にある可能性に思い至った。
 ──もしかしてエースの奴、寝ぼけてたんじゃねェか?
 それなら納得だ。きっと何か夢でも見てたんだろう。
 おれは胸をなでおろしつつ、「まだ右の方に付いてるぞ」だの「お前から見て右」だのと気楽にソースの汚れを指摘していた、のだが。

「良いけど……なんつーか、おれの前でだけにしてほしい」
「え」

 そのエースの言葉が、先の返事への補足だと、おれの頭が認識するよりも前に、

「でも、この匂い」

 エースは、すん、と鳴らすようにして、その形の良い鼻を近付けて来たかと思うと、

「……いつものサボの匂いを消しちまうのは、勿体ねェ」

 鼻先も唇も触れんばかりに、おれの首筋に顔を埋めて、

「いつものサボが好きなのに」

 ──まるで睦言みたいに、低く掠れた声でささやいた。

 『いつもの さぼが すき なのに』?

 一瞬で顔に血が集まる。引いたはずの熱が首筋を燃やす。自分の瞳が滲んで決壊しそうなのが分かる。早まる鼓動は両耳のすぐ近くで鳴っているかのようだ。クソ、おれのバカな心臓め、こんなにドキドキときめくな!
 どうせ深い意味なんてない。
 そんな意味の『好き』じゃない。
 だから期待なんて、するだけ虚しいはずなのに。

「いつものサボは、もっと甘くて美味そうな匂いがするんだよなァ」

 石のように固まって指先一つ動かせないおれの首元で、エースは事も無げに言ってのける。このままじゃ、おれの心臓は、もう幾分も保ちそうにない。

                   【完】


※この日参謀総長は船に帰って来ませんでした


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