▼ 透明人間と指先の包帯
あ、とサボが声を出した直後、貴族の邸宅に相応しい豪勢な玄関には陶器の砕ける音が響き渡っていた。
金色の細かな細工が施された真っ白な花瓶は、大理石の床に落ちて無残に砕け散り、生けてあった瀟洒な花々もその身を横たえている。
「何の音です!?」
すぐさま金切り声を張り上げてやってきたのはサボの母親だった。その後ろには青い顔をしたお付きのメイド達が連なっている。
「まあ! なんてこと! 大事な花瓶が……!!」
玄関の惨状を目にした母親の叫びは、両手で口元が覆われていたにも関わらずホールに反響するほどだった。
サボはすぐさま深々と頭を下げる。それは、家庭教師から教わった貴族の社交儀礼とは異なる、極々子どもらしい頭の下げ方ではあったが、サボは心の底から反省していた。わざとでないにしろ、家の物を壊してしまったのだ。
「ごめんなさい、お母さん。僕、少しふらついてしまって、花瓶に手が触れてしまいました」
「サボ! あなた、この花瓶がどれだけ高価な物か分かっているの!?」
その声に怯えて顔を上げるも、母親はサボの方など見てはいなかった。母親の視線は落ちた花瓶の方ばかりを向いていて、しかし口だけはサボを非難し続ける。
「これは遥か遠い海の向こう、花ノ国からの舶来品なのよ?! それに、この玄関の大理石だって、他の貴族の邸宅よりもずっとずっと高価なもので誂えてあるというのに……傷が残りでもしたら承知しませんからね!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
涙ぐみながら再度頭を下げて、何度もサボは謝る。
ごめんなさい、ごめんなさい。お母さんの大事な花瓶を壊してしまって、お家の大事な玄関に傷を付けてしまって、本当に反省しています。ごめんなさい。
繰り返す謝罪に見向きもせず、母親は破片を片付けるメイド達を怒鳴りつける。
「そこのメイド! 何をやっているの! 布越しに触れていては小さな破片が拾えないでしょう!? 素手で拾いなさい! いいこと? ほんの一粒でも取り零してごらんなさい、あなたもあなたの家族もすぐにクビにしますからね!」
あなた達のような使用人が一生働いても買えない花瓶なのよ、と厳しく叱りつけてから、母親は漸くサボの方を向いた。
「あら、まだ居たのサボ。まあいいわ、お父様がお戻りになったら折檻して頂きますからね、それまで反省室でよーくお勉強していなさい。怠けてはダメよ。全くあなたと来たら、私の息子とは思えないほど出来が悪いのだから」
無用な物を見るような目と落胆に満ちた溜息。既に慣れてしまったものとはいえ、肉親から無慈悲に齎されるそれは、幼いサボの心を締め付ける。喉が詰まったような心地がして、もう謝罪の言葉すら口に出来ない。
じっと俯くサボに声をかけてくれる者だって他に居はしない。母親は、メイド達が冷たい床に跪いて指先を押し付けるようにしてほんの小さな欠片までをも必死に集めている中、落ちていた花の一輪のみを恭しい手つきで拾い上げた。
「ああ、この薔薇だって、王族の方から頂いたものなのに……もったいない……」
そう言って、母親はとても心配そうな顔つきで、大輪の花を大事に掌に載せた。サボのことなど一瞥もしない。まるで、サボなんてそこに居なかったかのように──。
その日、反省室でどれほど理不尽な量の勉強を強いられたか。帰ってきた父親から、どれほど厳しい折檻を受けたか。それらに関するサボの記憶は最早曖昧だ。
けれど、この件を通じて、サボの心に深く刻み込まれた『意識』がある。
両親にとって、出来の悪い自分は、一つの花瓶、一輪の花よりも無価値な存在なのだと。
■
うわっ、とサボが声を上げた直後、山賊の名に相応しい雑然としたアジトには酒瓶の割れる音が響き渡っていた。
「やっべ……やっちまった」
床に広がるのは真っ赤なぶどう酒。それと、割れて飛び散ったガラスの破片。どう見たって誤魔化せるような状況じゃない。
今や見るも無残な形となったこの酒瓶は、ダダン秘蔵の酒の一つだった。ダダンにしては洒落た細工の代物で、ルフィの祖父であるガープが気まぐれに持ってきた上等なぶどう酒だ。いつか何かの祝いにでも飲むのだ、と大事に飾られていたものだったが、鉄パイプを持ったまま歩いていたサボがうっかりその先端をかすめて落としてしまったのだ。
「どうすっかな……逃げてもいいが……」
その場にしゃがみこんでサボは考える。逃げてもいいが、どうせ後からエースやルフィと一緒に疑われる羽目になる。そうなると二人に悪い。このぶどう酒を割ったのは自分一人の責任なのだから。
「仕方ねェ。証拠隠滅しちまおう」
素直に謝るという選択肢は、グレイターミナルで揉まれた今のサボには無い。脱いだ帽子の中に、大きな破片を摘んで一つずつ入れていく。零れた酒は後で雑巾ででも拭いてしまえば良いだろう。相当な量だから上手く行くかは分からないが。
割れる音が響いてしまったせいで、そろそろダダンや他の山賊たちが様子を見に来てしまうかもしれない。早くしないと、とサボは焦ってガラスを拾う──少し、焦りすぎていたかもしれない。
「ッ、痛って……!」
サボの小さな指先に、鋭利なガラスの破片が深々と刺さってしまったのだ。つうっと鮮やかな血が垂れて、床のぶどう酒の赤に混ざる。勢いで口に含みそうになったが、破片が刺さったままなことを思い出してやめた。
もう片方の手で破片を抜き取るも、血はダラダラと流れてやまない。存外深く刺してしまったようだった。しかも抜き取る際にそちらの手に付いていた小さな小さなガラスの粒が傷口に入ってしまった気もする。
「あー、ったく……」
コルボ山の過酷な環境の中で走り回っている身だ。今更この程度の怪我でうろたえはしないが、水で洗い流さなければいけないのも経験上分かっている。
でもなァ、とサボは割れた酒瓶へと目を向けた。先に片付けてしまわないと、ダダンにバレたらどれほど怒られるか知れたものではない。
別に怒られること自体は怖くもないけれど、きっとその時には『家』でのことを思い出してしまうだろう。今でもたまに夢に見る、あの悲しくて、つらくて、まるで自分が誰からも見つけてもらえない透明人間にでもなったかのような、あの日々のことを。
それだけは嫌なので、ひとまず怪我のことは後回しにして証拠隠滅を続けよう、とサボは再びガラスを拾い始める。その時、重量感あふれる足音と共に大きな怒号が飛んできた。
「さっきの音はなんだい、このバカども!!」
「げっ、バレた!」
息を切らしながら現れたダダンは、しゃがみ込んで証拠隠滅に勤しむサボを見下ろすなり、顔つきを険しくする。
「サボ、お前……」
「わ、わざとじゃねェよ。それにエースやルフィも関係ない。あいつらは今ワニ皮剥がしてる最中で……」
しどろもどろになりながらも立ち上がって説明するサボの手首を、ダダンは思い切り掴んできた。
「──なに素手で拾ってんだ、このクソガキ! 怪我してんじゃねェか!」
「……へ?」
サボは、大きな目を丸くして、まばたきを繰り返す。ダダンが何を言い出したのか分からない。
「小さな破片が傷に入っちまってる……ったく、このバカが! ゴミ山漁ってたくせに学習してねェのか?! おい、マグラ! 今すぐ来い、サボが怪我した!!」
ダダンは未だに血を流すサボの傷口を注意深く観察してから、振り返って奥に居るらしいマグラを呼びつける。
ますますサボは混乱した。大事な物が壊れて、それを壊した自分がここに居て──どうしてダダンは傷の心配ばかりをしているんだ?
もしかしたら、帽子の中に大きな破片を仕舞いこんでいるから、ダダンはまだ状況を理解していないのかもしれない。ダダンのことだしな、と半ば失礼な予想と共に、サボはおずおずと己の罪状を白状してみせる。
「えっと……その、ダダン、おれ、ダダンの大事な酒を割っちまって……」
「見りゃ分かる。祝いで飲むはずのとびっきりの酒をぶちまけやがって。おまけに人も呼ばずに素手で拾うなんざ……」
ダダンはさらりとサボの言葉を流すと、他に怪我しちゃいないだろうなと眉間にしわを寄せる。だが、口調の強さに反して、触れる手つきは柔らかだ。割れた大事な酒瓶や、零れた上等な酒にも目もくれず、じっとサボだけを心配そうに見つめるその視線すらも。
「お……怒らねェの?」
「今まさに怒ってんだろうが。なんだい、そうは見えないってか? おいマグラ、何してんだ! ああもう、そっち連れてくぞ!」
「わわっ」
怒っている─らしい─ダダンは、痺れを切らしたとばかりに、サボを小脇に抱えて持ち上げる。
それはとても野卑で、乱暴な素振りだったけれど──サボは、ずっと昔に割れたままになっていた大切な何かをそっと継ぎ直してもらえたような、そんな不思議な気持ちになってしまった。
それから、少し経った頃。
指先に大仰な包帯をぐるぐる巻きにされたサボが兄弟の元へと戻り、事の顛末を話すと、エースとルフィは口々に抗議の声を上げた。
「なんだよ、ダダンの奴に怒られたのか?! サボだってわざと割ったわけじゃねェのに!」
「そうだそうだ! サボは悪くねェぞ!」
「いや、まあ、怒ってはいたみてェなんだけど……」
二人はムッとした顔で「とにかく、あいつの言うことなんか気にすんなよ、サボ」「そうだぞ、おれなんかこのあいだ屋根を壊したぞ」などと励ましてくれるのだが、サボはじっと己の指先の包帯を見つめて呟く。
「怒られたけど、なんか……すごく嬉しかったんだ」
それは貴族の家での悲しい出来事あっての言葉だったが、このときの兄弟は未だサボの出自を知らない。
ゆえにエースは「サボって、『まぞ』だったのか……?」と目を瞠り、ルフィは「『まぞ』ってなんだ?」と無邪気に首を傾げ、後年に尾を引く少々面倒な誤解を生じさせることとなるのだが、それも今は知る由もない。
少なくとも、この日のサボは、悲しい過去の夢を見ることもなく、とてもあたたかい気持ちで眠りについたのだった。
【完】