▼ 今はまだソーダ水のような恋を
稽古が終わるのと同時に、見計らったようなタイミングでスマホが震えた。
おれが連絡先交換している相手なんて劇団関係以外じゃ三人だけ。コアラはさっきまで一緒だったから残りは二人、となれば、どっちからの連絡にしろ良い知らせに決まっている。
タオルで汗を拭いながら、最近やっと設定した顔認証でロックを解除。この一手間は未だに面倒だけれど「落としたり盗まれたりしたらどうすんだよ」とキツく言われてしまったから仕方ないか。
そうやって覗きこんだ画面上、見慣れたアイコンの横に並んだ文字列に、おれは思わずその場で飛び上がりそうになった。
【今夜来れねェか? 聴かせたい曲があるんだ】
今はまだソーダ水のような恋を
駅から全速力で走ってきたおれを出迎えるなり、エースは「なんだその格好」と訝しげに眉を上げた。もしかしたら呆れていたのかもしれない。
「お前がちゃんと変装しろって言うから変装して来たんじゃねェか」
「いや、その帽子に、そのグラサンに、そのマスクじゃ逆に怪しいだろ。職質かけられるぞ? っつーか走って来たのか? タクシーは?」
「……勿体ねェし。贅沢すんのは性に合わねェよ」
有り合わせのニット帽を脱ぎつつ真っ白なマスクをずらし、貰い物のサングラス越しにエースをじっと睨む。
エースとは幼馴染だが、最近漸く映画やテレビで役を貰えるようになったおれとは違い、エースの方は十代の頃にメジャーデビューしているし、今やヒットチャートにその名を見ない日はない。
そういった経験値の差もあって、まるで指さし確認するように服装を指摘されるのも、芸能人としての危機管理とやらを説かれるのも今日が初めてではなかったが……それにしても会って第一声がソレってのも寂しいものがある。そう思ってしまうこと自体、おれがまだ気持ちを『整理』しきれていないってことかもしれないが。
「まあいいや。入れよサボ、飲み物何がいい? 酒?」
「いや、明日も稽古なんだ」
「おっと、そういやそうだったな」
不思議とおれのスケジュールを把握しているエースは「そんじゃノンアルだな」と先を歩く。
マンション最上階でワンフロアぶち抜きのこの部屋も、エースにとっちゃ隠れ家の一つだ。スタジオに近いこともあって、バンドのレコーディングの頃はこの部屋を使うことが多い。つまり、今日この部屋を指定してきたということは──。
「飲み物よりも、エース、早く聴かせてくれよ! 新曲だろ?!」
外したサングラスを大事に仕舞いこみながらも、おれは気が焦ってしまってどうしようもなかった。走ってきてそれなりに喉が渇いているはずなのに、そんなことよりも今すぐエースの曲が聴きたくてたまらない。
エースは広いキッチンへと足を向けつつも、仕方なさげに振り返って苦笑する。
「焦らねェでも、もう準備してあるっての。ほら、そこ」
顎で指し示されたリビングのローテーブル。その上に鎮座していたのは御馴染みの小さな音楽プレーヤーと大きな有線ヘッドフォンだ。スタジオで録音しただけでまだ完成版ではないのだろうけど、あの中に最新のエースの歌声が入っているのだというと居ても立ってもいられない。膝立ちでテーブルにかぶりつくと、ごちそうを前にしたペットのようにエースを見上げて懇願してしまう。
「もう聴けるんだよな? このまま再生押して良いか?」
「せめてソファ座れって。別に曲は逃げたりしねェしよ」
完全に笑い声の混じった、からかうような声だ。おれは従順にソファへと腰掛ける。本当はもう今すぐヘッドフォンを着けてしまいたかったが、一応エースが冷蔵庫を開けているようなので戻るのを待とう。しかし、募る期待のせいでまだ聴いてもいないのに涙まで滲みそうなくらいだ。
幼馴染という点を差し引いても、おれは昔からエースの歌声のファンだった。実はファンクラブの会員番号二番は他でもないおれだし─流石に一番は白ひげのオヤジさんに譲ったけれど─年季の入り方は伊達じゃない。
そんな相手の歌った、まだ世に出ていないお宝が目の前にあるのだ。ごくりと生唾を飲み込んでしまうのも当然だろう。
グラス二つと、珍しくペットボトルを片手に戻ったエースの姿に何か少し引っかかるものを覚えつつも、おれは食い気味に質問を口にする。
「これ、アルバム用じゃねェよな? この前出したばっかだし」
「ああ。今回のはタイアップ」
「タイアップ?! WB(ホワイトビアード)が?!」
エースがボーカルを務めるWBがタイアップで曲を出すのは相当珍しい。二年前の海外のチャリティー企画以来じゃないだろうか。
やりたくないことはやらない、という自由なバンド方針だ。今回はよほどタイアップ先のことが気に入ったのだろう。
「え、一体どことの……いや、もう先に聴きたい。なあ、良いか?」
「ああ。まだ合わせただけだけどな。おれも早くサボの感想が聴きてェ」
試聴頼むわ、なんてエースが言ってくれるものだから、おれは急いでヘッドフォンを装着した。
■
──最後のドラムの音と同時に、おれはそのままソファの上に横向きに倒れた。
おぼつかない指で何とかヘッドフォンを首元にずらしたけれど、本当はこのままもう十周くらい聴いていたい。いや、十周なんかじゃ足りねェか。
「はあ……今回のもすっげェよ、エース……もう、聴いてるだけで、心臓跳ねちまう……ッ」
「その顔と言い方どうにかなんねェのお前……余所ですんなよ絶対に」
斜め向かいに座っていたエースが低く唸るように言うけれど、だって、もう、仕方がなくないか? ファンなら誰だってこうなるに決まってる!
劇団じゃ硬派な古典演劇だって演じているけれど、そこで培ったはずの語彙力なんて圧倒的な感動と感激の前には無力だった。
「いつもよりも、曲に、なんて言うんだろうな……透明感みてェなの感じる。底まで見えちまうくらい綺麗な海で泳いでいる気分……マルコさん、こういう曲も書くんだな。最ッ高……」
「良かったのは曲だけかよ」
エースのあからさまに拗ねた声に、これがさっきのボーカルと同じ声かと半ば笑いながらおれは起き上がる。
「お前の歌声あっての名曲に決まってんだろ。特に、あのサビ入る前のところ、少し意地悪なのに甘やかすみてェな声が良いな……サビの伸びるところも華やかで色気があって、それでいて男らしくて格好良くて……たまんねェよ、ホント」
「──の台詞だぜ、全く……」
「ん?」
「いや? サボが気に入ったんなら良かったって話」
「気に入ったどころの話じゃねェよ! 歌詞も飾らないのにどこか切なくて、そんで……やっぱり片想いの歌詞、なんだな」
ほんの少しだけ声がトーンダウンしてしまう。全ての楽曲の歌詞はボーカルであるエースが書いていて、どれだけ曲調の異なる曲であってもそこに『一つの共通点』がある、というのはファンの間では有名な話だった。
エースの書く歌詞は、どれも、まるで『たった一人の片思いの相手』へと向けているように聴こえる。
コアなファンの中には、統一された歌詞の世界観やら『たった一人』がどういう相手なのかやらを考えている考察班もいて、新曲が出る度にそういった点でも大いに賑わっている。
けれど、同じファンであっても、おれはそんな風にエースの歌詞の考察なんて出来やしなかった。
何故なら、おれはエースという男がどういう奴かをよく知ってしまっている。たとえ歌とはいえ、嘘を歌うような奴じゃない。
つまり──エースにはずっと好きな相手がいるのだろう。多分。おれにも言えないような。
ずっと昔からエースに対して特別な感情を抱いているおれにとって、その真っ直ぐすぎる歌詞は─勿論素晴らしいとは思うけれど─深く考えれば考えるほど胸が苦しくなる代物だった。
ましてや、今はただの幼馴染同士でも居られない。お互いに立場もあるのだから、さっさとこの恋を諦めきゃならないのは分かっている。それでも、こうやって先に新曲を聴かせてくれるだとか、隠れ家に呼んでくれるだとか、そんなことがいちいち嬉しくて気持ちを『整理』しきれないでいる。
なんでこんな苦しい恋しなきゃなんねェんだ。自分でもバカバカしいと思いつつも、この経験を活かした演技のおかげで『恋に悩む青年役』が当たり役になっている現状を考えると、もう、何が何だか分からねェ。
おれの気も知らないエースは、「片想いの歌詞?」とおうむ返しに口にしてから、ああ、と間延びした声を上げた。
「なんか毎回そういう感じになるだけで、別に意識しているわけでもねェよ。まあ、片想いっつーか、メインディッシュは最後に食うみてェな男心っつーか、後はタイミングだけっつーか? 『おれ』なのか『歌』なのか、もう少し、こう、な? 見極めないといけねェっていうか?」
「……っと、悪ィ、エース。よく分かんねェ」
「色々あんだよ!! 歌詞は、その、伝わってんなら良いんだ! 気合い入れて書いてっから!」
急に声を荒げるエースだったが、まあ、エースにはエースの『ロックの哲学』みたいなものがあるのかもしれない。ミュージシャンにはミュージシャンの、役者には役者の理想や矜持があるものだから、あまり土足で踏み込むような真似はしない方がいいかもな。
「そういや、新曲は何とのタイアップなんだ? って訊いて良いか知らねェけど」
話を変えがてら、曲を聴く前から気になっていたことを訊いてみる。流石に契約上秘密になっているかとも思ったが、エースはあっさりとした口調で即答した──テーブル上のペットボトルを指さしながら。
「コレ」
「え?」
「この真っ白な炭酸飲料のCMだって聞いたぜ? サボ、来月撮影なんだろ?」
とっておきの悪戯が成功した時のような、幼き日々すら彷彿とさせるエースの笑顔。おれは瞠ったままの目を机上のペットボトルへと向ける。そうだ! 何か引っかかると思ってたんだ、このペットボトル。同じ物を、少し前におれも渡されたんだった……今度初出演することになるCMの打ち合わせの時に!
「な、なんでエースが知ってんだよ!!」
「デュースがお前んとこのマネージャーに聞いたから」
しれっとエースは口を割るが、コアラのやつ、おもいっきり情報漏洩じゃねェか。発表前の新曲をこっそり聴かせてもらってるおれが言えた義理ねェけどよ。
「お前がCM出るっつーからタイアップ受けたんだぜ? おれだけじゃなく、マルコもイゾウもサッチも何度もイメージ擦り合わせて、サボにぴったりの曲に仕上げたつもりだ。お前の初出演だってのに他の奴が歌う曲流されるなんてムカつくからなァ」
そう笑うと、エースは得意げにソファの背に腕を回す。
いや、確かに─自分で言うのも何だか─おれは最近世間に名前も売れて来たけれど、WBとじゃ知名度は雲泥の差だ。こんなの完全にコネじゃねェか。良いのか、こんなこと。
「き、緊張しちまう……」
「なんで緊張すんだよ。サボ、嬉しくねェの?」
喜ぶと思ったのに、とエースは子どものように口を尖らせる。
完全にコネで、おれがエースの幼馴染だからで、全然実力に見合ってなんかいなくて──でも、そうと分かっていても、どうしても。
「──すっげェ嬉しい! お前の歌に泥塗らねェよう精一杯頑張るからな!」
おれは身を乗り出してエースの両肩を掴んでしまう。緊張よりも何よりも、大好きなエースの歌う曲のイメージの中で演技出来るのが嬉しくてならない。足りない実力は己の全部を費やしてでも努力で埋める以外にないだろう。こんな幸せなこと他にないのだから。
「あー…………」
おれの気迫に押されたのか、エースは急にがくりと首から項垂れてそのまま言葉にならない呻き声を上げた。
「エース? どうかしたか?」
「……今のだけでこのジュース百万本買うわ……」
「そんな美味かったのか? そりゃ良かったな」
そういえば新曲を聴くのに夢中で、折角用意してもらったのに一口も飲んじゃいなかった。今更ながらに乳白色の液体が入ったグラスを傾ける。存外強めの炭酸は、ほんの少しの余韻を残しながら、明るくも切ない恋のように舌の上で弾けた。
【完】
おまけ
なんだかんだでしっかり歌詞も咀嚼するガチファンサボ「この歌詞、“相手の美しさを世界に知らしめたいけれど他人の目に触れさせることへの不安もあるから、せめて「この美しい宝物は自分のものだ」と牽制したいっていういじらしさと、それだけ大事にしているのに相手には気付いてもらえていない切なさ”みたいなのあって泣けるよな」
エース「(こいつ分かって言ってんのか????)」
【設定補足】
エース
有名ロックバンド、WB(ホワイトビアード)のボーカル。とても人気。昔からサボのことが大好きで歌詞も全てサボに向けて書いている。最近メンバー(マルコ・サッチ・イゾウ)に「段々歌詞がこじらせてきているから、いい加減付き合えや」と思われている。サボが自分のこと好きなのは薄々感づいているが、自分の歌が好きなだけ(=熱烈なファンなだけ)かもしれなくて一歩踏み出せない。マネージャーはデュース(だけど他にも居る)
サボ
劇団革命軍の舞台俳優。たまたま出演したドラマの一途な美青年役が大ヒットして一躍有名になったが本人はまだ有名人の自覚がなくポヤポヤしている。昔からエースに恋しているがエースの歌があまりにも片想いラブ全開なせいで、自分にも言えないような恋をしているのだろうと思い込んで勝手に失恋している。マネージャーはコアラのみ。