▼ エース先生とサボ先生なら渡り廊下で見たよ
放課後。
明日楽しみだなァ、と繰り返しながらエースは薄暗い廊下で大きく伸びをした。今となっては『旧校舎』となってしまったかつての学び舎だが、日当たりの悪さだけはおれ達の在学時代と変わらない。
おれとエースが通っていた頃のこの学校は酷く荒れていて、廊下の窓が割れていることすら日常茶飯事だったけれど、今や物置と化した旧校舎はあまりにも静かだった。生徒の間では怪談話も流行しているという。そのためか、一応は部員数の少ない文化部の部室となっているにも関わらず、渡り廊下のこちら側には人っ子一人居ない。
そもそも旧校舎にはエアコンも付いてないし、新校舎の空き教室を使う方が楽ってのにはおれも同意だ。おれ達の頃は─冬の寒さも厳しかったが─特に夏は地獄だった。しかし不思議なもので、今になるとその地獄が懐かしくすら感じられる。
「それにしても懐かしいよな。解体するって話もあったみてェだが最近聞かねェし」
心を読まれたかのようにエースが懐かしさを口にする。何だかくすぐったいな、こういうの。
「よく知らねェけど、解体費用やら税金やらが絡んでるらしいぜ。当面はこのまま物置代わりだろうな」
「体育倉庫の雨漏り修理も遅いし、もしかしてうちの学校って金無ェの?」
どうだろうなァ、と答えておいたが、しかし、体育倉庫の修繕に関して言えば、実は、もう少し後でもおれは嬉しい。そのおかげで、授業用具の片付けを手伝うという大義名分の元に、こうやってエースと二人きりの時間が過ごせるし。
「ま、給料減らされなきゃなんでも良いけどよ。それに、この校舎が残ってた方が嬉しいってのもある。青春の思い出だしな」
「喧嘩ばっかの思い出だけどな?」
今となってはお互い丸くなった─と言うと妙に老けこんだ気分だ─けれど、高校時代はこの辺りの高校が軒並み荒れていたこともあって、二人そろって毎日喧嘩に明け暮れていた。あの頃もしドラゴンさんに会ってなかったら、おれはきっと進学もしなかっただろう。こうやって教師として母校に戻ることがあるなんて、想像すらしていなかった時代の話だ。
「喧嘩だけじゃねェだろ。ほら、この教室とか」
「ん?」
思い出に浸っていたおれは、エースが足を止めたのに気付けず、やや遅れて立ち止まる。エースが「そうそう、ここだ、ここ」と言いながら入って行ったのは昔の視聴覚室だった。長年使われていないせいで埃っぽいが、四人掛けの机と作り付けの椅子が極々小規模の映画館のように配置されている。
「──夏休みの補講の後、一度帰ったと見せかけて忍び込んで、汗だくでヤりまくってたよな」
「!!」
突然、まざまざと蘇る記憶。
うるさいセミの鳴き声に重なる荒い息遣い。反らした喉が灼けるほどの温度と湿度。机の天板がもたらす僅かな冷たさと擦れる背中の痛み。エースの前髪から垂れ落ちた汗の雫が己の肌に跳ねる感触。それら全てが、まるで昨日のことのように頭と身体を駆け抜ける。
あの頃はまだ高校生でラブホテルにも入れなかったし、家に帰ればルフィだって居るから、エースと抱き合える場所なんて本当に限られていた。だから、教師となった今は『有り得ない』と言いたくなるようなことも色々としでかしてしまっている。
「そんで日が沈んでから帰りにプールんとこのシャワー借りて、そこで今度は立ったまま、」
「あああやめろやめろ! 若気の至りだ!」
両手をばたつかせてまで制止するおれに、エースは拗ねたように片目を眇めた。
「なんだよ、すげェ興奮しただろ……サボにとっちゃ黒歴史なのかよ」
「そ、そういうわけじゃねェけど」
今のおれ達にとってこの場所は─正確にはこの建物ではないが─職場だし、生徒が万が一『そういうこと』をしていたら厳として指導する立場でもある。
それに、一応は『先生の顔』をしていなければならなこの場所で、エースとの熱い時間を思い出すのは何だか凄く変な気分になっちまう。
きっと顔を赤くしているであろうおれの肩に、不意にエースが触れる。そして、そうするのが当然とでも言うように、慣れた手つきでおれを長机の上に優しく押し倒すと、絶対に教師が校内でしてはいけない顔と声で囁いた。
「──久しぶりにここでヤってみるか?」
されるがままに押し倒されたおれが、何か言わなくてはと唇を微かに動かしたタイミングで、静かなはずの旧校舎に大きな声と足音が響き渡った。
「エースぅぅぅ、サボぉぉぉ!!」
聞き覚えのありすぎるその声に、おれ達は毒気を抜かれたように身を起こす。程なくして足音はすぐ近くの廊下まで迫ってきたので、こちらから教室のドアを開いて顔を出してやった。
「ルフィ?」
「あ、見つけたぞ、エース! それにサボも!」
ブレーキ音がしそうなほどの勢いで足を止めた生徒は、予想に違わずおれ達の弟だった。
「おらルフィ、学校じゃ『先生』付けろって何度も言ってるだろ」
「まあまあエース、今は他に人もいねェし」
乱れてもいないネクタイを何となく整えながら「どうしたんだ、おれ達のこと探してたのか?」と問いかけると、ルフィは何度も首を縦に振る。新校舎を延々と探し回って、最後にここに来たってところだろうな。
「じいちゃんが『返事がない』って怒っておれに連絡してくるから」
「ジジイが?」
片眉を上げたエースがジャージのポケットからスマートフォンを取り出す。
「うわ未読二十四件……って、何ッ?! 『今日』?!」
それこそ旧校舎に響き渡るくらいの声でエースが素っ頓狂な叫び声を上げる。今日、今日って……おいおい、もしかして。
エースは顔を上げると短く問う。
「サボ、今日何日だ?」
「八日」
「七日じゃなかったか!?」
「八日だって」
「嘘だろ、つい昨日までは七日だったのに」
「だからだろ」
どうやらエースは混乱しているらしい。そして、おれもそれが何故なのか既に勘付いている。これはおれも悪いな。おれはおれで明日の九日が『その日』だとばかり思っていた。
マズい、ヤバい、と頭を抱えんばかりの愚かな兄二人を前に、ルフィは両手を頭の後ろで組みながら弾んだ声で言った。
「今日、『焼き肉の日』だよな! おれずっと楽しみにしてたから、学食のおかわりも八回でやめといたんだ!」
そう、明日だとばかり思っていた『焼き肉の日』は、今日──だったらしい。
「おれ、仕事終わらせてねェんだよな……」
「うっ、おれも明日までの仕事が……」
こんなに悠長にいちゃついている場合ではなかった。明日は国語科教員の研究会だってあるのに、いや、それは今晩帰ってからでも出来るけれど。
ルフィはそんなおれ達の顔に交互に視線を向けてから、「仕事……」と真似るように呟き、そして見るからに残念そうに眉を寄せた。
「──じゃあ、二人は今日の焼き肉来ねェのか?」
「「行くに決まってんだろ!」」
図らずとも声が揃った。そう、幾ら仕事が残っていようと、行かないという選択肢は無いのだ。
ジジイ、もといガープの気まぐれで行われる焼肉大会は、普段のおれ達じゃ気軽に行けない高級店で行われる上に、しかも正真正銘の食い放題ときている。安価な食べ放題の店であっても三人揃って行けば店を潰しかねないほど食って食って食いまくるおれ達が、本当に腹がはちきれそうになるまで美味い肉を食えるのは、この機会を逃せば他に無い。
さっきまでの淫靡な雰囲気が嘘のように、おれとエースは健全な欲望に目を光らせる。
「──ルフィ、お前は先にジジイの車で店行っとけ!」
「おれ達も仕事片付け次第、すぐに向かう!」
遠方の店なのでガープは車で迎えに来るだろうが、待たせると面倒くさいので後からエースのバイクで向かおう。二人乗りしているところを見られたって、今日ばかりは理由がはっきりしているから心配ないはずだ。
「よし、急ぐぞ!」
「ああ!」
「おう!」
エースの号令を合図、に三人揃って風のように旧校舎を後にする。渡り廊下を全力疾走していると、部活帰りらしい生徒達から「エース先生とサボ先生がまた廊下走ってる!」と指を差された。
【完】