▼ アフターグロウ -残照-
「──っでェ!!!」
自分の叫び声で飛び起きて、刺すような眩しさに目を細める。
この秘密基地の内側にまで光が届いている、ってことは、つまり、おれたちはいつもより寝坊しちまったみてェだな。まあ良いさ、別に何時に起きて勉強しろだの、何時になったら乗馬に行けだの指図されるような生活じゃねェし。
そんなことよりも、叫び声の原因──謎の痛みの方が問題だ。
目を擦りながら見てみりゃ、おれの腹の上にはエースの足が堂々と乗っていた。そんでもってエースは大口開けて寝こけてやがる。エースの服に書かれている『無罪』の文字がやけに目について、おれはぐっと眉間に力を入れた。
「おい、エース!」
足をどけながら強く声をかけても、エースは「おう……」と答えるわりに全然起きる気配がない。寝相キックで人のこと起こしておきながら、なんて奴だ。
っつーか、おれたち兄弟はいつも三人で顔を突き合わせて話をしてそのまま眠るから、真横で寝てるってわけでもねェのに、一体全体どうしてエースの足がここまで来てんだ?
おれが不思議がっている内に、エースは何度か寝返りを打って、今度はルフィの方へと近づいていく。なるほどこうやって転がってんだな、と何となく感心していると、あっと声を上げる間もなく、寝ぼけたルフィの腕が思い切りエースの顔面に直撃した。
「──っでェな!!??」
エースがおれと同じように叫んで飛び起きる。流石に顔は痛ェよな、顔は。いや、おれの腹も痛かったんだけどよ。
「ルフィ、この野郎! おい、起きろお前、どういう寝相してんだ!?」
目を三角にしたエースは寝ぼけたルフィの襟首を掴んで揺さぶるが、ルフィはワニ肉がどうとか寝言を言うばかりで起きやしない。この動じなさ……こいつは大物になるだろうな。
「あのなエース、言っとくがお前が転がってったんだぞ? あとお前もおれの腹に蹴りを──って寝るのかよ!?」
ルフィを揺さぶっていたかと思いきや、エースはその姿勢のまま鼻ちょうちんまで出して二度寝を決め込んでいる。
なんだ、この状況。おれを起こしたエースがルフィに起こされて、怒ってルフィを起こそうとしだけど、そのままエースも寝て……ああ面倒くせェ!
「んんッ、ごほんごほん。よーし、今朝の修行は沢までの競争で決まりだ! 誰が一番に着くだろうな?!」
わざとらしい咳払いと共に高らかに宣言してやると、『修行』という単語に反応したのか、エースもルフィも一気に目を見開いた。
二人が何かを言う前に、おれは急いで立ち上がる。そして出入口に立てかけていた鉄パイプを手にすると、振り返りもせず朝の山へと駈け出した。
アフターグロウ(残照)
朝イチの修行の結果は、もちろん真っ先に駈け出したおれの圧勝。次が「ズリィぞ、サボ!」なんて文句を言いながら追いかけてきたエースで、最後が未だに半分寝ぼけているかのようなルフィだった。
ルフィは一番幼くて、足だって遅いけれど、でも絶対に諦めずについてくる。それは出会った頃から変わらなくて、おれは何だかそんなルフィのことが自分のことのように誇らしくてたまらない。
冷たい水で顔を洗って、その間に寝相の件で取っ組み合いになって、結局三人揃ってずぶ濡れになって、一度ダダンの家に替えの服を取りに行く。その頃には全員ケンカのことなんて忘れちまってて、ダダンの小言を三者三様でかわしては笑い合っていた。こうやって、ケンカしてもすぐに日常に戻れるのは何だか『兄弟』らしい気がして、ちょっとくすぐったい。
服を着替えてさっぱりした後は、いつも通り山を駆け回り、獣を狩って魚を捕り、適当に切って刺して焼いてそのまま食う。腹がふくれりゃ何だってかまわないけれど、こうも単調な味が続くと、海に出たら腕の立つコックを捕まえなきゃなァとは思う。
「よし、今日はデザートを食おう」
おれと同じように思ったかは分からないが、珍しくエースが食後にそう宣言した。
「デザート! なんだ、プリンか?」
「バーカ。そんな上等なもん、山で食えるはずねェだろ」
目を輝かせるルフィに、呆れ顔のエースが肩を竦めてみせる。
確かにプリンなんて街に行かなきゃ食えやしねェ。つまり、エースの言うデザートは、きっと『アレ』だ。
「もしかしてエース、あの山奥の赤い実か?」
「正解」
ニッと笑ったエースにおれも同じ笑みを返す。そうか、もうそんな季節になったのか。
山奥のあまり陽が射さないあたりに生えた、いびつな形の大木。その大木には、この時期になると、上の方にだけとびきり甘い実がなるのだ。早く採りすぎると固くて食えたもんじゃないし、遅く採りすぎると今度はねっとりとして気持ちが悪いので、一年の内にほんの一週間ほどしか食えないとびっきりの代物だ。
「さっきダダンの家に、あの実の汁が垂れてるの見かけたんだ。ちょうど頃合いなんだと思ってよ」
「げっ、ダダンが食ってるってことは、おれたちの『あの木』がバレてるってことか?」
「いや、ダダンは裏手の小さい木しか知らねェはずだ。同じ実だが、おれたちの『あの木』になる実の方がずっと甘くてずっと美味ェ」
エースが自慢げに両腕を組んでみせる。なるほどな、ダダンはダダンで別の木からあの実を取って食ってるのか。
「ふんふん……だが今後もダダンが『あの木』に気付かないままかは分からねェ。早めにおれたちで食い尽くしちまった方が良さそうだな? エース」
「ああ。今回はルフィの奴もいるしな」
そう言うとエースはルフィに向き直り「期待してるぜゴム人間」と続ける。
「ん? よく分かんねェけど、おれ、デザートならいっぱい食えるぞ!」
甘いの食うのも大好きだ、とルフィが嬉しそうに声をはずませるのを見て、おれとエースは視線を合わせてしうなずく。今日の予定は、デザート狩りで決まりだな。
■
そうして急いで走り向かった山奥は、太陽が真上にあるにも関わらず肌寒くすらあった。この辺は獣も少ないから、いつもならあまり寄り付かない場所だ。
なるべく早く立ち去りたいので、おれたちは手分けをすることに決める。木のてっぺん付近で実を採るのがルフィ、そこから受け取ってカゴに入れてロープでゆっくりと下ろすのがエース、そして木の下でカゴを受け取って中身を選別するのがおれだ。
上手い具合に分担したおかげで、一時間もすればおれの足元には赤い実がどんどん積み重なっていた。
「よし、良いぞルフィ! その調子だ!」
「うわー、すっげェ甘ェ! 口ん中でとろける!」
「おーい、上でばっかつまみ食いすんなよなー!」
エースの期待通り、ゴム人間であるルフィはおれたちでは届かないような高い位置の実も採れるようだった。
普段は、ルフィの食べた悪魔の実を「使いようがねェ」と言ってはばからないエースだったが、なんだかんだで認めちゃいるんだな。
収穫した実が多すぎて少し手狭になったので、根元から離れた場所で何度目かのカゴをひっくり返す。潰れて食べづらい物や鳥に食われてダメになっている物を摘んで除けていると、エースの怒鳴り声が響いて来た。
「……危ねェっつってんだろ! もういい、深追いすんな!」
「でもエース、あっちにもう少し、」
「あっ! バカ!」
おれが大木へと視線を向けた時には、既にルフィの身体は宙に放り出されていた。
──足を滑らせたんだ。
一気に血の気が下がる。おれは勢い叫ぶしか出来ない。
「ルフィ! どこかに掴まれ!」
だが真っ逆さまに落ちてくるルフィは、そのゴムの腕をどこにも伸ばさない。この高さだ、頭から落ちたらひとたまりもないだろう。必死に駆け寄るけれど、下で受け止めようにも間に合わない。それでも、届かない両手を突き出してルフィの名を叫ぶ。それしか出来ない。そんなことしか。
不意に、視界の中で影が踊った。
逆光になったエースの姿だ。エースはルフィを空中で抱きとめると、そのまま何度か枝にぶつかるようにして弾みながら落ちてくる。
「……エース! ルフィ!」
木の真下に落ちた二人の側へと駆け寄る。エースはルフィを腕の中に抱き込んだまま動かない。ルフィは声を上げて泣いている。横になったままの二人の下からは、赤い液体が滲んでいて──。
「……ッ、このバカルフィ!! 何やってんだお前は!」
一瞬よぎった最悪な想像をぶち壊すように、エースが身体を起こしてルフィの頭を叩いた。ルフィは「ごめんよエース」と声を震わせている。ひとまず二人とも、大怪我をしているわけではなさそうだ。
「っと……二人とも、大丈夫か?」
「ああ。おれが枝で身体打ったくらいだ。これくらい何てことねェ」
そう頷いてから、「だがな」とエースは続けた。
「なんで枝を掴まねェんだルフィ! おれがキャッチしてやらなきゃ脳天から地面に落ちてぶっ刺さってたぞ!」
「だ、だって、両手で実を抱えてたから離せねェし、」
「実なんざ落ちようが何しようがどうでもいいだろうが! っつーか、うげ、結局実も潰れちまってんじゃねェか……」
エースは自分の服の裾を引っ張りながら片眉を上げる。確かに、ルフィが抱えていたらしい赤い実が、エースの腹の辺りでべったりと潰れていた。さっき見えた赤い液体も、この潰れた汁だったらしい。
そう、それは分かっているんだけど。
「──ッ、エース、それ早く洗えよ!」
「え?」
焦って服を引っ張るおれに、エースは驚いた顔を見せる。ぴたりと泣き止んだルフィも不可思議そうにおれを見つめてきた。
「洗うって……服を? こんだけ汚れちまってんだ。後で良いだろ」
「良くねェよ!」
「どうしたんだよ、サボ。そんな急に……何か変だぞ?」
確かに、自分でも変だと思う。そんなことしなくたって良いんだ。おれがすべきことは、助かって良かったなと胸を撫で下ろしてから、叱られているルフィをフォローしつつ、同じことがないように釘をさして、怒鳴るエースの奴を宥めてやることなんだ。
でも、おれは今、その赤がどうしようもなく恐ろしい。
「……ま、マキノに、そう、それ、マキノに貰った服だろ? 染みになっちまったら勿体ねェし?」
上滑りするような言葉を口にしながら、無理に引っ張ってエースの服を脱がす。汚れているのは服だけだから、脱がしさえすればエースの腹には何もない。当たり前だ。
当たり前なのに、何故かそのことに妙にホッとしたおれは、「洗ってきてやるよ」とエースの服を抱えて川へと走り出す。何だか心臓が潰れそうだ。大木から二人が落ちてきたその時よりも、今の方が体の芯が冷える心地がする。何だか分からないけど、すごく嫌な感じがするんだ。
大して走ってもないのに、川に着く頃には息が上がっていた。
赤く汚れたエースの服を冷たい水に突っ込んで、がむしゃらに洗う。無くなれ、無くなれ、と祈るように必死に手を動かしては、水に溶けて流れていく赤を見つめ続ける。
その時、不意に、その水面に誰かの顔が映った気がした。大きな火傷の痕のようなものがある、知らない大人の顔だ。
驚いたおれはすぐさま後ろを振り返る。そこにはもちろん誰も居なかった。
■
気がつけば陽は随分と傾いて、山は黄金色の夕日に染まっていた。
「あれ? ルフィは?」
目の前にはエースが居るだけで、ルフィの姿が見えない。きょろきょろと辺りを見回してみる。あれ、そもそもここはコルボ山のどの辺だっけな。今日は遠出をしたせいか、現在地がいまいち掴みきれねェ。おかしいな、こんなこと今までなかったのに。
「ルフィなら先に帰ったぜ」
「先にって……一人で帰らせたのか? 心配だな」
「ルフィなら平気さ。あいつも強くなった」
エースは柔らかく微笑んで頷く。おれは不思議さに首を傾げる。エースがそんな風に言うなんて意外だった。
まだまだあいつは幼くて、おれたちよりずっと弱くて、だから兄であるおれたちが守ってやらなきゃいけねェのに。
「……サボも、そろそろ帰らねェとな」
そばかすの散った頬を指で掻きながら、エースがそう言って優しく目を細める。何だか、エースなのにエースじゃないみたいな表情だ。
「何言ってんだよ、エース。そんな、おれだけ帰るみてェなこと……もしかしてグレイ・ターミナルに帰れって言ってんのか? ブルージャムに目ェ付けられてるから、もうあそこには帰れねェんだって」
何を今更、と呆れ半分に言っても、エースは黙って首を振る。なんだよ。何か変だぞ、エース。おれたちの帰る場所はあの秘密基地か、そうじゃなけりゃダダンの家かのどっちかだろう?
そういやルフィはどっちへ帰ったんだろう。追いかけてやらねェと、日が沈んで真っ暗になってからじゃ遅いしな。
けれど、エースは何も答えない。おれは何だか気分が悪くなって、責めるように続けた。
「それとも高町の『家』に帰れって言うのか? おれはもう貴族なんかじゃねェ。絶対に帰らねェからな。それに、あの家にはもうステリーも居るし、いや、違う、エースがそんなこと言うはずが、そもそも、おれは、」
どうしてステリーのことを知っているんだ?
あいつに会ったのはエース達と離ればなれになった後のはずだ。離ればなれに、待てよ、それなら今は、いつで、ここは、どこで──考えが追いつくよりも先に、おれの両目からは次から次へと涙が溢れる。
黄金色の海に沈んだみたいに周囲の風景は淡く滲んで、その真ん中でエースの姿だけがはっきりと見える。
嫌な予感がする。いつの間にか山々の喧騒は遠く、静かすぎる空間におれの上擦った声ばかりが響いた。
「なんで……なんで『帰れ』なんて言うんだよ。おれは、お前と、ここで、ずっと」
「もう分かってんだろ? サボ」
嫌だ。分かりたくなんかない。
エース。お願いだ、言わないでくれ。
「そろそろ──夜が明けちまう」
エースのその言葉を引き金に、周囲を取り囲む懐かしいコルボ山の風景は、まるでガラスのように割れて崩れ落ちていく。
その場に膝をついたおれは、堰を切ったように嗚咽を零して顔を覆う。長い前髪の合間から、指先がざらりと顔の火傷痕に触れた。顔を覆う手は紛うこと無く大人のそれだった。掴めるだけの力がありながら、大事なものをみすみすと指の隙間から零した、罪深いおれの手だ。
本当は分かっていた。思い出の反芻ですらなかった。あの赤い実だって、三人で一緒には食べられなかったのだ──熟すよりも先におれが二人の元を去ったから。そして、もう二度と食べられないだろう。どれもこれも、おれの都合の良い夢でしかなかった。
慟哭するばかりのおれに、記憶の中と同じ高い声のまま、けれど大人びた様子でエースが語りかけてくる。
「泣くなよ、サボ。大丈夫だ。目覚めたって、おれはお前といつでも一緒だから」
ハッと顔を上げると、幼いエースの姿すら風景と共に消えゆかんとするところだった。おれは必死に手を伸ばす。届かないと分かってもなお、縋るように求めずにはいられない。
「いやだ、エース、おれが悪かったから、なあ、頼む、エース、エース、」
行かないでくれ。
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自分の叫び声で飛び起きて、刺すような暗闇の中で目を見開く。
しんと静まり返った部屋に自分の心臓の音だけが響いて、冷たい汗が無情にこめかみを伝った。
また、あの頃の夢だ。
臓腑から迫り上がるものを感じて、おれは思わず片手で口元を押さえた。己の都合の良さに吐き気がする。十年ものあいだ忘れていたのに、今になって毎晩のように夢に見るなんて──本当は夢の中ですら、赦しなど乞えるはずもないのに。
しかし幾ら己を否定しようと、幸福な思い出は願望すら混ぜ込みながら繰り返し夢となり、そして目覚めの度に喪失感は津波のように押し寄せる。希望に満ちたあの美しい日々と、夜明け前の昏いこの部屋に横たわる隔たりを、夜毎思い知っては一人嗚咽する。
「……エース」
他のどの言葉を付け加えるのも許されない気がして、ただ、あいつの名前だけを口にする。
冷えきった指先を血が滲むほど握りこんでも、あの日々の残照すら掴めない。
【完】