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▼ 惚れ薬の効能を思い知るに至る顛末


 小瓶の中身は、無色透明。
 コルクの蓋を指先で摘んで開けて嗅ぐと、まるで花の蜜のような香りがした。
 手袋を脱いで、ひとしずくだけ薬指の先に垂らして舐めてみる。まずは舌の痺れや身体の変化がないことを確認。信頼出来る相手から手に入れたとはいえ、得体の知れない代物を毒味無しに用いることは出来ないからな。
 そして肝心の味の方はというと、たったの一滴にも関わらず充分すぎるほど甘かった。しかも匂いから想像出来るよりずっと人工的な甘さだ。
 つまり、香りの強い酒に混ぜるべきなんだろうな。
 この惚れ薬を、エースに飲ませる、その時には。


『惚れ薬の効能を思い知るに至る顛末』


 ──などと入念に準備してしまったけど、よくよく考えれば惚れ薬なんてあるわけがない。
 ハニートラップが不要になるようなそんな便利な代物があったら真っ先に政府が利用していることだろうし、その情報を察知出来ないほど革命軍だって愚かじゃない。
 作為的に人を恋に落とすというのは言い換えれば他人の心を意のままに操ることに他ならないし、それがどれだけ危険な能力であるかは、かの有名な海賊女帝の評判を聞くまでもなく明らかだ。
 だから、これはきっと革命軍に出入りしている商人が、おれをからかうつもりで寄越しただけの、ただの花の蜜か何かに違いない。

「……って、分かっちゃいるんだけどよ」

 それでも、先に酒場に到着したおれはカウンターの上で例の小瓶を見つめている。瓶底で円を描くようにぐるぐると回すと粘度の低い液体は勢い良く波打った。
 きっと酒に入れた時だって、グラスを軽く揺らせばすぐに混ざるだろう──と想像してしまい、ぐっと小瓶を握りこむ。だから、偽物だっての。こんなの。何を本気で使おうとしてんだ。使ったところで「効果がなかった」と商人を問い詰めて「本当に使ったのか」と笑われるのが関の山だ。
 ついでに噂が回りまわってコアラにも爆笑されるところまで想像して、おれは大きく溜息を吐いた。
 そうしていると不意に酒場の扉がきしむような音を立て、同時に室温が少し上がる。温度に関しちゃ、おれの気のせいかもしれないけれど。

「サボ! 先に呑んでたのか。待たせちまったな」

 帽子を片手で外しながら入ってきたのは、待ち合わせをしていたエースだ。会うのは一ヶ月ぶりくらいだが、輝く笑顔には一点の曇りもない。どうやら航海も冒険も順調なようだ。
 おれは小瓶を握りこんだ手を急いでコートのポケットへと突っ込んでから、後ろめたさの反動みたいな作り笑顔を貼り付けてエースを見上げる。

「……待っちゃいねェよ、大丈夫。っつーか、エースの方こそ、まさか外で待ってたのか?」
「いや、サボが遅れて来た試しはねェからな。パッと見で姿が見えないってことは中に居るんだろうって分かった」

 久しぶりだな兄弟、と白い歯をのぞかせてエースは真横の椅子に躊躇いもせずに腰を下ろした。狭い店のカウンターだから仕方がないが相当距離が近い。ふわりと海と太陽の匂いが香った。

「会いたかったぜ、サボ。元気にしてたか? お前がよく無茶するせいで、おれは毎朝誰より先に新聞読む癖がついちまったぜ。おかげで仲間にからかわれちまってよ」

 軽い会話と共にエースは何の気無しにおれの肩を抱き寄せるが、こっちにとっちゃ大問題だ。心臓の音が、エースはおろか周りの客にまで聞こえてるんじゃないかと錯覚する。悲しくもないのに瞳に涙が滲む気すらした。
 ああ、クソ、やっぱりダメだ。まだ顔を見てほんの数十秒だというのに、それだけで白旗をあげたくなるような気持ちになってしまう。

 好きだ。やっぱり好きだ。この男が、義理の兄弟が、ポートガス・D・エースが、どうしようもなく好きだ。

 抱いていた想いが明確にいつから『恋』になったのかは自分でも分からない。でも、例えば待ち合わせに一度も遅れたことがないのだって、エースに会えるとなると浮足立ってしまうからだった。そう思うと、随分と前から、おれはエースのことをそういう目で見ていたのかもしれない。
 悟られない程度の深呼吸で無理矢理鼓動を抑えこむ。やけに渇く喉になけなしの唾液を流しこんでから、おれはゆっくりと目を細めてみせた。

「エースだって無茶してるじゃねェか。おればかりじゃねェだろ?」
「まあな。ルフィといい、おれたち『兄弟』は揃いも揃って無茶ばっかだ! ダダンのやつの教育が悪かったな」

 ダダンのせいだなんて本当は思ってもないくせに、エースは懐かしさを声音に載せて笑った。
 『兄弟』──そうとも、この絆はおれの宝物だ。だけどエースの口からその言葉を聞かされると、まるでこの恋は絶対に叶わないのだと何度も言い聞かされているような気持ちになってしまう。
 大事な兄弟、それに間違いはない。だからこそ、それで満足すべきなんだ。この恋は諦めなきゃいけない。ちゃんと兄弟として振る舞えるように、どれだけ苦しかろうと己の気持ちに蓋をしなければ。今までずっとそうして来たんだから、これからもそう出来るはず。
 けれど、今日はいつもと少しだけ状況が違っていた。
 ポケットに突っ込んだままの指先、硬質な感触、無色透明の惚れ薬。いいや、偽物に決まってる。でも、もしも本物だったら? そうすれば、これを飲んだエースは──。
 落ち着かせたはずの心臓が再び跳ねる。浮かんでしまった考えが頭から離れない。人知れずポケットの中の指を震わせるおれに追い打ちをかけるように、酒を頼んだばかりのエースが急に「あれ、無ェぞ!」と騒ぎ出した。

「っ、何が無いって?」
「お前に見せようと思ってた、新聞記事の切り抜き!」
「切り抜き?」
「そうだ、さっき財布の中身確認したから、そんときに……ちょっと待ってろサボ。多分、表で落とした」
「お、おう」

 一人で納得したらしいエースは、即座に立ち上がって店の外へと向かう。そのたくましい背中を見送るのもそこそこに、おれは勢い良くカウンターを振り返った。タイミングが良いやら悪いやら、丁度店員が酒の入ったグラスを置いたところだ。エース好みの度数の強い酒。ごくりと喉を鳴らす。指先は再び硬質な小瓶の感触を確かめていた。
 ──今しかない。
 おれは急いでコートのポケットから小瓶を取り出すと、小さなコルクの先を噛んで蓋を開け、さらさらとした中身をエースのグラスへと一気に流し入れる。片手で小瓶を元に仕舞いつつその辺にコルクを吐き捨て、もう片方の手でエースのグラスを円弧を描くように揺らす。きっと、その間、十秒以内。早業だったと自分でも思う。
 おれの『犯行』から少し遅れて店の扉が開かれ、苦笑いのエースが頭を掻きながら悠々と戻ってきた。おれは冷や汗をかいてしまっていたけど、エースはそれに気付くこともなく、来た時と同じ気軽さで隣へと腰を下ろす。

「風で飛んで行きそうだったから、つい足で踏んで捕まえちまった。でも読めるだろ? 見ろよコレ」

 おれの肩を軽く叩いて、カウンターの上の切り抜きを指で示してくる。しっかりと足跡のついたその切り抜きは、どこかのリゾート島だか観光地だかの記事らしく、デートスポットがどうのこうのと書いてあったが、今のおれに内容をしっかりと読むほどの余裕はなかった。

「面白そうなところだからよ、今度もし近くの海に行くことがあったら一緒に──」

 エースは快活な声を上げながらグラスを手に取る。そしてそのまま何の警戒もなく口へと近づける。そりゃそうだ、まさか隣に居る『兄弟』が酒に何か盛るなんざ想像するはずない。エースの唇がグラスの縁へ寄せられるのを固唾を呑んで見つめていると、おれの頭の中では今までの思考がまるで走馬灯のように回り始めた。
 ──『好きで好きで仕方がない』
 ──『この恋は絶対叶わない』
 そうだ、だから、惚れ薬に頼るしかないんだ。
 でも、本当に良いのか?
 ──『作為的に人を恋に落とすというのは言い換えれば他人の心を意のままに操ることに他ならない』
 誰より大事にしたい相手の、一緒に自由になろうと誓った相手の、その気持ちを、おれは、こんな風に。

「待てエース!!! 飲むなッッッ!!!」
「へ?」

 勢い良くグラスを手で覆う。急に自分の顔の目の前に手を差し込まれた形となったエースは驚いたように目を丸くした。

「その、酒は……その酒は、飲んじゃいけねェんだ」

 喉の奥から何とか絞り出したおれの言葉に、エースはすぐさま片眉を上げ、カウンターの向こうの店員へと鋭い視線を向ける。きっと、店員が毒でも盛ったと思ったのだろう。違うんだ、とおれは首を横に振る。

「おれが全部悪い、ごめん、エース……」
「……どういうことだ? 訳が分からねェ」

 訝しがるエースの顔をこれ以上見ていられなくて、おれは自分の膝を見るように顔を伏せてしまう。
 どうしてこんなバカなことしちまったんだろう。恥ずかしさと情けなさで眼の奥が灼けるようだ。今まで幾度となく想像してきたどの振られ方よりも無様で最低な状況だった。今更悔やんでも遅いけれど。
 顔を上げられないまま、それでもエースの問いに答えようと口を開く。

「……店員じゃなくて、おれが酒に盛ったんだ。さっきエースが席を外してる間に……惚れ薬を」
「はあ、ホレグスリねェ…………は? 『惚れ薬』?!」
「エースのことが、好きなんだ。兄弟としてでなく」

 両膝の上でぐっと拳を握りしめる。
 ああ、言っちまった。こんなタイミングで、こんな最低な状況で。
 でも、せめて謝りたかった。本当に好きだからこそ、少しでもエースの気持ちをないがしろにしようとしたことを、おれたちの誓いを台無しにしようとしたことを。

「……本当に悪かった。魔が差したなんて言い訳にもならねェよな。惚れ薬なんて卑怯な真似でエースのこと、振り向かせようとしたなんて、おれ、」
「そうか……そりゃ確かに頂けねェなァ」

 おれの謝罪を遮ってエースが小さく溜息を吐く。呆れられるのは怒られるよりもずっと恐ろしかった。エースの失望する顔なんて見たくないはずなのに、絶望に引かれるようにして顔を上げたおれは、そこで思いもしない光景を目にして叫んだ。

「何してんだ!!!」

 エースが、グラスを呷っていたからだ。
 おれの盛った惚れ薬入りの酒が一瞬で飲み干され、エースの喉仏が大きく上下する。

「バカ、吐け!!! いや、惚れ薬は本物じゃねェかもしれねェんだけど、でも万が一効いちまったら」
「大丈夫。効きやしねェよ」

 慌てて肩を掴んで揺らすおれに、エースはなんてことないように口にする。

「──だって、おれは元々お前のことが好きなんだから」

 揺さぶる手をぴたりと止めて、妙に得意げなエースの顔を注視する。そしてエースの言葉をもう一度反芻してから、おれは更に血の気が引いてしまった。嘘だろ、まさか。

「『本物』だったのか? 惚れ薬が? っつーか、こんな即効性あって大丈夫なのか?! 飲んで数秒だぞ!?」
「違ェって!!! だから『効かない』っつってんだろ、元々これ以上ないってくらい惚れちまってんだから!!」

 至近距離で聞かされるエースの大声に一瞬両眼をつむってしまったが、すぐに開いて何度も瞬きをする。おれは夢でも見てるのか? だって有り得ないだろ。

「惚、れ……エースが、おれに?」
「なんでそんなビックリした顔してんだよ。そこまでされると逆にちょっとショックなんだが」

 あんな分かりやすく口説き続けてきたおれの努力はなんだったんだよ、とエースは唇を尖らせながら続ける。

「く、くく口説かれたことなんかねェし!」
「口説いてたんだよ!!! っつーか今も口説いてただろ!? 見たかよこの記事! わざわざ切り取って持って来てんだぞ!! 分っかりやすくデートに誘ってんだろうが!! それにお前相手じゃなきゃ店入る前に財布の中身なんざ確認するか! かっこつけてェの!! サボの前では!! ずっと昔から惚れてっから!!!!!」
「そんなこと、急に言われても」
「んだよ、別に急でも無いんじゃねェの? 惚れ薬盛っちまうくらい情熱的におれのこと好いてくれてんだろ? まあ、そこまで思いつめる前におれに告白するって選択肢がないのはちょっと……、、」
?」

 おれの理解を千八百五十二メートルくらい超えた言葉ばかりを連ねていた唇が不意に止まり、エースは小さく呻くとそのままカウンターに顔から突っ込むように身体を丸めた。普段なら急に寝たかと思うところだが、今回ばかりは状況が状況だ。おれはエースの背中に手を当てて問いかける。

「大丈夫か?! やっぱり、何か薬のせいで、」
「嘘だろ………勃った」
「は?」

 何が? なんつった?

「サボ……さっきの酒に盛ったの、惚れ薬じゃなくて精力剤か何かじゃねェの?」
「えっ、いや、そんなはずは」
「おれ、サボに会う時は抜いてから来てるし。こんな急にガッチガチになるなんて絶対おかしい……両想いになったからって途端に反応するほどバカな息子だと思いたくねェし……」

 ぶつぶつと呟きながら、エースは前かがみのまま顔だけを横に向けておれをじっと見上げてくる。その目に滲んだ情欲だとか、おれと会う前に抜いてるだとか、両想いだとか、ああもう待ってくれ。全然ついていけねェよ。
 頭の中がひっくり返されたみたいな気分だ。何も分からない。いや、分かった、分かったよ。おれが悪かった。

「任せろエース、せ、責任は取る!」
「お前はまたそんな顔してそんなこと言いやがって……大事に大事に時間かけて口説いてたってのによ……」

 本気にしちまうぞ、と一層低く唸ったエースの瞳は既に真剣そのものだったのに、混乱したままのおれは「よろしく頼む!」と場にそぐわぬ快活な返事をすることしか出来なかった。

【完】




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