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▼ 四畳半の水槽


 誰にだって人には言わねェ秘密くらいあるだろう。
 おれにとって、それは夢の話だった。
 幼い頃からおれが夜に見る夢はたったの一つで、それが普通でないと知ったのは随分経ってからだった。
 全てを覚えているわけではないが、繰り返し見る夢は泡のように弾けてもなおその余韻を現実へと残す。
 青い海、青い空。幾つもの悔しさと、跳ね返すように抱いた野望。結んだ絆、誓った約束。果たしたかった想い、果たせなかった願い。唯一の後悔に、無二の感謝。
 あまりにも真に迫ったそれらの夢が、今のおれに何一つ影響を与えなかったと言えば嘘になる。

 それでも、ただの夢だったんだ。
 あの日、サボに会うまでは。


『四畳半の水槽』


 ちらちらと目元を擽る光に意識が浮上して、おれはまたサンキャッチャーを外し忘れていたことを思い出した。
 小さく唸り声を上げてから、寝転んだままカーテンレールの端に吊り下げられているそれを疎ましく見上げる。いつかの夜店で酔って買った挙句未だに捨て損ねているサンキャッチャーは、今もまた、カーテンの隙間からなけなしの光を集めては値段相応の単純さで部屋へと撒き散らしていた。
 この光が朝日なのか夕日なのかも分からない。だが、薄暗い部屋に跳ねる丸い光は水の中を思わせた。目覚めたての視界は少し曖昧で、目を細めていると水底にでも沈んだような気持ちになる──でも、きっと、ここは海じゃない。これは水槽だ。打ち寄せる波もなく、停滞した水は澱みきっているに違いない。実際、この部屋は精液と人工的な甘ったるいローションの匂いに満ちている。碌に窓も開けやしないから。
 安眠妨害の元凶を外しに行くのも面倒で、刺さる光を避けるようにして顔を背ける。枕がどこかへ転がってしまったのか、頭のすぐ近くに床の気配を感じた。元々は、狭いばかりのこの部屋にもベッドと呼ばれ得る代物があったのだが、サボを連れ込んでたったの八時間で壊してしまったのだ。だから、今はこうやって古びたフローリングの上に三つ折の薄っぺらいマットレスを敷いて、その上に同じく薄っぺらい敷布団を乗せて寝床にしている。どれだけ激しく動いても転がり落ちることが無いのは助かるけれど、枕が頻繁にどこかへ行ってしまうのだけは悩ましいところだった。
 ふと首を捻って、傍らで眠るサボへと目を遣る。噛み痕も鮮やかな首筋にしっとりと汗に濡れた金髪が張り付いていた。眠ってからそう時間は経ってないのかもしれない。おれに背を向けた姿勢が気がかりで、軽く肩を掴んでこちらへと向かせ直せば、無いと思っていた枕を抱きかかえていた。おれを差し置いて枕に抱きつくなんてどういう了見だよ。
 無理に寝返りを打たされてなお夢の世界に浸かったままのサボは、機嫌の悪そうな寝言を何事か口の中で呟いていたが言葉にはならないようだった。眉間に寄った皺を宥めるように指で触れてやれば、途端によく懐いた猫のようにサボは身体の力を抜く──その隙を突いてさっさと枕を取り上げてやった。勿論、今更枕が欲しいわけじゃないので、そのままその辺に放り投げる。欲しいのはサボの方だ。

「えーす……」
「起きたか?」
「のどかわいた……」

 瞼を閉じたままのサボは、おれの質問には答えずにむずがる子どものように欲求だけを口にする。仕方がねェな、と布団周りを見渡してみると少し離れた場所に開けてない缶ビールを見つけた。買ったまま放っておいたらしい。

「エース、」
「分かった分かった」

 不満気なサボをいなすように返事をしてから、何とか腕を伸ばして缶ビールを取る。そのまま片手でプルタブを開ければ、弱いながらも炭酸の弾ける音がした。軽い動作で口に含んだ常温のビールは安物であるのを差し引いてもそれなりに不味かったが、選り好みする状況でもないだろう。
 そのまま空いた片手で寝乱れたサボの前髪を避ける。そして指先で柔らかく頬を掴んで口を開けさせて、人工呼吸でもするように注ぎ入れた。急に流し込まれた─と言ってもねだったのはサボだが─液体に、サボは一瞬溺れでもしたように身体を跳ねさせたが、一筋零しただけで後は器用に飲み込んでいく。
 からかうように舌で遊んでから頭を上げれば、漸くサボは瞼を開け、潤んだ瞳で睨み上げてきた。

「……ぬるいし、苦ェ」

 飲ませてもらっておいて、サボは不満と共に濡れた唇を尖らせる。何が苦いだ、おれの精液なら喜んで飲むくせに。そう揶揄してやっても良かったが、寝起きにあまりいじめてやるのも可哀想だろう。
 代わりに、飲みきれずに零して頬まで滴ったビールを指で掬い上げ、唇に押し付けてやる。そうすれば、今さっき「苦い」と文句を言ったばかりだというのに、サボはまるで子猫みたいにおれの指を吸った。
 起きたばかりというのもあるだろうが、どこか陶然とした表情のサボを見下ろしながら、おれは思わずには居られない。きっと、サボにはもっと他の幸せがあっただろうに、と。

 あの日、おれはただバイトに遅刻しそうだったから近所の大学構内を突っ切っただけだった。
 サボだって、ただ自分の通う大学の中を、友人たちと一緒に歩いていただけだった。
 ──本当にただそれだけだったんだ。赤の他人同士がすれ違って、もしかしたらおれの方はサボを振り返ったりしたかもしれないけど、でも、それで終わりのはずだった。
 けれど、互いの視線は交わってしまった。
 目が合った瞬間に全てを悟った。サボは驚く周囲を振りきってまで初対面のおれに抱きついて来て、おれはそれを受け止めて──それから二人の人生はまるっきり変わってしまった。
 おれがこの手を離してやれないせいで、サボは無限の可能性と数多の選択肢を潰してまでおれだけを選び、今日も澱んだ四畳半の水槽の底に沈んでいる。


「──もっかいシようぜ、エース」

 おれの指を愛撫するように甘咬みしながら、サボはじっと透明な瞳で見上げてくる。

「それとももう出来ねェ?」
「トンデたくせによく言うぜ」

 見え透いた挑発を鼻先で笑ってやるも、サボはおれの指に頬を擦り付けながら続けた。

「もっと酷く出来るだろ。おれが気ィ失ってもやめないでくれよ」

 無茶言うなよ。そう口にしかけたおれの首を引き寄せて、耳のすぐ横でサボは少し震えた声で囁いた。

「──頼む、エース。お前に許されたいんだ」
「……バカだな、サボは」

 おれは肩口に顔を埋めるサボの表情を暴いてやることもしないで、ただ、苦笑と共にサボの背に腕を回す──いつものように。
 何かを恐れるように罰を望むサボに、きっと他に言ってやれることがあるはずだ。言われるがままに酷く抱き潰す以外に、もっと他にやってやれることがあるはずだ。それにも関わらず、おれはサボを手放したくないあまり『今』以外のやり方を放棄し続ける。遠い夢の内、遥か昔の記憶の中、あんなにも憧れた広くて自由な世界を前にしているのに、罪悪感を盾にこのちっぽけな水槽にサボを飼い続けるのだ。
 首輪で繋ぎながら「自由になってくれ」と乞うように。骨を軋ませながら「幸福になってくれ」と願うように。矛盾した身体と心を寄せ合っては今日も恋に溺れて愛を吐く。そういえばお互い昔はカナヅチだったな等と、連想すればそれすら馬鹿馬鹿しくてひとり嘲笑った。

                      【完】



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