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▼ 弟がカナヅチで本当に良かった


 カナヅチの弟を置いて、いつものように海へ向かった。


『弟がカナヅチで本当に良かった』


 小高い崖から勢いよく飛び込んだ場所は、エースが今まで潜っていた辺りからは少し離れていた。
 ここを選んだのは、ルフィが以前住んでいたフーシャ村の村長がドーン島周辺の潮の流れを教えてくれたからだ。
 慣れない海図とにらめっこして大体この辺だろうとあたりを付けて来たのだが、こんな時エースはつい、「サボが居てくれたら」と夢想してしまう。
 しっかりと航海の勉強をしていたサボは、エースと違って海図も上手に読めたものだ──無論、そのサボが居ないからこそ、エースはずっと海へと通っているのだけれど。
 派手な着水と同時に勢いよく上る大小の泡を避けるようにして、染みる海水の中で懸命に目を凝らす。
 緩やかに足を動かして、一層深みへ。泳ぐのは苦手ではない。それこそルフィがコルボ山に来る前から、エースは海賊修行の一環と称して、サボと連れ立って泳ぎの練習をしていたくらいだ。
 海賊の入り江は物騒だからと、少し離れた浅瀬まで足を伸ばし、日が傾くまで二人で競い、遊んでいたのをエースは昨日のことのように思い出す。

『エース、どうした、もうバテちまったのか?』
『誰が! そりゃお前の方じゃねェのか?』
『あーあ。この調子じゃ、お前が船から落ちたらおれが助けに行かなくちゃいけねェみてェだなあ』
『だからバテちゃいねェよ! そこまで言うなら、あの沖の岩まで競争だ! 負けた奴は明日一日、勝った奴の子分な!』
『あっ! いきなり始めるなんてズリィぞ!』

 どれだけ遠くまで泳げるか、どれだけ深くまで潜れるか。
 何度も勝って、何度も負けて、それぞれに得意不得意もあったけれど、結局のところ、どうせいつか二人で海に出るのだ。足りない部分は補い合えば良いと楽観視もしていたように思う。
 そして、自分たちには間違いなく『その未来』が待っているのだと信じて疑わなかった。

 ──でも、今は、一人だ。

 より深くへと潜り、岩場の影もくまなく見て回る。
 今、エースがわざわざ弟を置いてまで海へ潜る理由は、亡きサボの遺品を探すためだった。
 エースはサボの死を伝え聞いただけで、その場に居合わせることすら出来なかった。
 だからというべきか、頭では確かに分かっているのに、エースはいつまで経っても『サボが死んだ』という事実を飲み込みきれていない。

 いつかの日に、まるで何もかも冗談だったかのように、不意に木の陰から姿を覗かせるのではないかと。
 いつかの朝に、まるで何もかも悪夢だったかのように、目を覚ませば傍らに眠っているのではないかと。

 そんな虚しい期待を抱いたところで幾度となく裏切られるばかりなのに、心は勝手に有り得ない『いつか』を求めてしまう。
 だからこそ、エースはサボの遺品を探すことにしたのだ。
 己の中でくすぶり続ける都合の良い『期待』にケリをつけるために──それに、いつまでもこの調子では弟に偉そうなことも言えやしない。サボは死んだのだと、ルフィに言って聞かせたのは他でもないエース自身なのだから。
 とはいえ、遺品と言っても、大層な代物など望めないのは分かっていた。あの事件の後、船の残骸は街の連中にあっという間に片付けられてしまったと聞く。
 だから何か一つ、ほんの些細な物で構わなかった。誇らしげに掲げていたという海賊旗、愛用していた帽子やゴーグル、あるいは思い返せば上等だった服の切れ端。サボが遺した何かがあるのならば、己の手で掬い上げてやりたいとも思った。
 けれど、あれから何度エースが探しても、サボの持ち物は欠片も見つからない。
 潮流の関係で流れてしまったのかと遠くまで足を運んだ今日でさえ、目ぼしい発見はなさそうだ。
 それでもエースは呼吸の続く限り、青く透き通った海の底を必死に探し続ける。
 そうする内に──きらり、と不意に何かが視界の端で光った気がした。そろそろ息もつらいけれど、もう少しだけ、とエースは手を伸ばす。
 どこからか流れ着いた小さな板切れの下、僅かな光を返した小さな『それ』。
 しっかりと握り込んでから浮上すると、そのまま岸に向かって泳ぎ、足が付く辺りになってからゆっくりと掌を開いてみた。

「…………なんだ。ただのビー玉か」

 小さな手の内にあったのは、海水に磨かれた青色のビー玉だった。
 がっかりしながら転がしていたが、ふと思いついて指先で摘んで空に透かしてみる。そうすると胸を真っすぐに刺すような懐かしさと苦しさがあった。
 サボの瞳の色だ──ずっと、これから先も、曇ることなどないと信じていた、あの色。
 エースは暫しの間、目を細めながらビー玉を見つめていたが、やがて小さく鼻先で自嘲すると、振りかぶって沖へと放り投げた。
 大きく緩やかな放物線を描いたビー玉は、軽すぎる水音と共にあっけなく海へと戻る。
 気付けば、陽は少しばかり傾いてその赤を増し、海面は低い陽光に鱗のように煌めいて、遠く遥か見渡す水平線は輝く黄金を湛えている。
 エースは半身を海に浸したまま、目の前の光景をじっと見つめた。
 美しかった。
 東の海で最も美しいと名高いゴア王国の街並などよりも、ずっとずっと美しかった。
 素直にエースはそう思う。けれど、同時に、『それ』が許せないとも思った。

 サボが居ないというのに、どうして世界は美しいままなのだろう。

 欠けてはならない存在を失ってなお、世界は不条理なまでに粛々と進んでいく──まるで、サボなんて最初から居なかったみたいに。
 いや、違う、とエースは一人で頭を振る。

「……サボは居た。いや、サボは『居る』んだ。おれたちが、生きてる限り」

 独り言を呟いてから、勝手に垂れてきた鼻水をすすり上げる。
 それだけじゃ足りなくて手の甲で拭ったけれど、結局それ以外の液体も顎の方まで伝って来たから、慌ててエースは海へと潜り直した。
 流れる何もかもを海水でごまかしながらエースは思う。ルフィがカナヅチで本当に良かった、と。

 こんな顔、とても弟には見せられやしない。

【完】



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