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▼ Spice Beanの驚異的な一日 -もしもアラバスタにサボが来ていたら-


 アラバスタ王国の湾岸沿いに位置する港街、ナノハナ。『香りの街』と称されるだけあって、名産品の香水はどれもグランドラインで屈指の逸品として知られている。だが、何も『香り』は香水だけとは限らない──ナノハナのもう一つの名産品はその多種多様な香辛料である。
 希少な物などは同じ重さの黄金と交換されるほど、となれば、そのスパイスを絶妙な配分で組み合わせた郷土料理が不味いはずもない。中でもナノハナのほぼ中央に店を構えるSpice Beanは、街一番との呼び声も高い大衆食堂だ。料理の味が絶品なのは勿論のこと、夜は酒屋となるこの店のマスターの敏くも優しい人柄もあり、地元の者も旅人も混ざり合い、いつだって笑い声が絶えない賑やかな店だった。
 ──賑やかな店、のはずなのだが。
 今、Spice Beanには開店以来初めてと思しき沈黙が立ち込めている。客が居ないわけではない。ただ、皆、言葉もなく唖然としており、手を動かすことすら忘れている有り様なのだ。
 店の壁には向こう三軒まで突き抜けた大きな穴。
 カウンターの上には積み重なった大量の空き皿。
 目に焼き付いているのは、海に出る者なら誰もが知っている『正義』の二文字と『あの』海賊旗、それから場を引っ掻き回して飛び出ていった麦わら帽子。
 誰もが怒涛の展開についていけず、口をあんぐりと開けたまま、騒々しさが連なって駆け出していったその出入口を見つめるばかりだった。唯一、マスターだけが店の主としての責任と矜持ゆえか、「食い逃げだ」と現状を正しく、そして虚しく呟く程度だ。
 そのままどれほど時間が経っただろう。店主自慢の豆スープすらすっかり冷めた頃、その出入口に再び嵐の予感が姿を表した。

「はー、やっと見つけた、メシ屋だ! ハラ減ったー!」

 先刻聞いたのと似たような台詞を、全く違う声が発する。声の主は、鉄パイプらしき棒で片肩を叩きながら「メシだメシだ」と嬉しそうに店の奥へと足を進める。半壊したカウンターに一応は目を向けたが、特に臆した様子もなく、麦わら帽子の少年が座っていたのと同じ席へと落ち着いた。
 周囲の視線も沈黙も一向に介さないこの豪胆な人物はまだ年若い青年のようで、この辺りでは珍しい金色の髪が異国風の帽子の下から覗いている。かっちりと隙無く着込んだ服装もまたアラバスタ風ではなく、一見して旅人であることが分かった。

「おっさん、メシ頼むよ。この店で一番美味いヤツと一番量のあるヤツと一番早く出来るヤツ。ああ、その前に冷たい水をいっぱいくれるか?」
「あ……ああ。そもそも君、そんな格好で暑くねぇのか?」
「ん? 確かに言われてみれば暑いな」
「言われなくても暑そうだけど……」

 青年は今更気づいたかのように呟くと、ゴーグルのついた帽子を脱いで、異国の貴族のような服装の首もとをぐいっと開いた。見れば、片目にかかる前髪の合間から、整った顔には不釣合いな火傷の痕が覗いている。どうやらこの青年も只の旅人というわけではなく、ワケありのようだ。
 厨房に料理をオーダーしてから店主が水を差し出せば、青年は「助かる」とコップを手に取り、勢い良く呷って一瞬で空にした。店内の異様な雰囲気に動じないあたりからも想像は出来たことが、青年は見た目よりも随分と豪気な男であるらしい。二杯目を注いでやれば、再びきっちりと礼を言いながらも横目で壊れたカウンターとその奥の壁穴を見遣る。

「……しかし、変わった内装だな。おっさんの趣味か?」
「なわけないだろ!」

 さっき別の奴にも言われたけど、とは付け加えなかったが、早速上がってきた料理の皿を青年の前に置きながら、今日は妙な客ばかりだと店主は内心涙した。
 そんな店主の不運など関係ないとばかりに、青年は「うまそうだ!」と顔を輝かせると、ナイフとフォークを手に勢い良く口へと料理を運び始める。カトラリーを操るその所作はどことなく気品すら感じるのだが、異様なまでに早いスピードとパンパンに膨らませた頬がそれを台無しにして余りあった。

「ん、うめーっ! ……で、じゃあ一体その壁はどうしたってんだ?」

 すぐさま空になった皿を厨房から運ばれてきた皿と交換しながら、店主はゆっくりと今日の出来事を振り返る。その頃には、この第四の闖入者のおかげか、周りの客達も食事の存在を思い出したらしく、やっと店は普段の姿を取り戻しつつあった。
「それがもう今日は散々で……まず、一人の男が店にやってきたんだ。大体君と同じくらいの背格好で、年も同じくらいの――まあ、そいつは君とは逆の意味で砂漠らしくない格好をしていたんだけど」
 店主はじっと青年を見下ろす。幾ら栄えた港街とはいえ、こんな風通しの悪い服装で灼熱の砂漠の街を歩くなど自殺志願も良いところだ。だが、最初にやってきた青年のように上半身裸というのもいただけない。砂漠の日射を舐めてかかると痛い目を見るどころじゃ済まないのだ。

「そいつが、うちのメシを食ってる途中で突然寝やがったんだよ」
「食ってる途中で?」

 流石に青年も食べる手を止めて、店主の顔を窺ってくる。本当かどうか怪しんでいるという目だ。

「そうさ、こう、持ってるフォークを宙に上げたまんま、おれとの会話の途中で寝たんだ。もう突然死したんじゃねえかって大騒ぎになってな! 普通に起きて、口の中のもの噛み始めた時は思わず脱力したよ」
「へえ、そりゃ面白ェな!」

 全くもって笑い事ではないのだが、青年は「そういう面白い奴、おれは好きだな」等と繰り返して喉の奥で笑いながら食事を再開する。
 店主は肩を竦めてから続きを話した。

「……そうこうしている内に、今度は急に海兵がやって来たんだ」
「海兵」

 青年が低い声で繰り返す。その声に割り入るかのように、正気に戻った別の客が横から声を上げた。

「店主、ありゃスモーカーっていう有名な海兵だよ! あの悪魔の実を食ってるって噂のおっかねえ大佐様さ、おれは前にイーストのローグタウンで見たんだ」
「……なんでまたそんな奴が?」

 視線だけでぐるりと周囲を見渡してから、青年が涼し気な顔で問いかけてくる。すると、今度はまた別の客が訳知り顔でくちばしを挟んだ。

「いやいや、実はな、ビビらねえで聞いてほしいんだが……さっき店主が言ってた、食ってる途中で寝たって男がな、なんとあの白ひげ海賊団の二番隊隊長だったんだ! 名前は、えっと、なんつったか忘れたけど、でも背中にでっけえ刺青背負ってたのをおれは確かにこの目で見た!」

 その声におののいたのはむしろ周囲に居た他の客の方で、当の聞き手の青年はというと、またしても異様なスピードで食事を腹に詰め込みながら平然と何度か頷いてみせている。

「あー、コレもうめェな……確か白ひげの二番隊の隊長と言えば、長年空席だったが、二年だか三年だか前に、若くて勢いのある海賊がその座についたって話だったな」
「おや、君詳しいね。でも全然そんな怖そうな奴には見えなかったんだよなあ。むしろ話している分には人懐こい兄ちゃんだった。人は見かけによらねえな」

 そう語る店主も確かにその男の背中の刺青を見ていたし、自ら食材を探しに海に出ることもある身だ、そのマークの意味するところが、その二番隊隊長という言葉の恐ろしさが分からないわけでもない。
 だが、それを差し引いても、よく食べて、よく話し、よく笑い、ついでに何故かよく眠る、そんな何処にでも居るような気安くて気分の良い青年だったのだ。

「ああ、そうだとも! 人は見かけによらないし、人は見かけじゃない。上辺や肩書で推し量ってばかりじゃ大事なものをを見過ごしちまう」

 こちらの青年は青年で妙に気安いというか、一人で勝手に感心して一人で勝手に頷いてから「分かってるじゃねェか、オッサン!」と親指を立てて来た。実際何を言っているか分からなかったが、店主は酔っぱらいの相手にも慣れているので曖昧に笑っておく。目の前の青年はその底なしの胃袋に酒の一滴も入れていないのだが。

「……そんでまあ、海兵と海賊の一騎打ちかと思いきや、急に、それこそ飛ぶようにして別の少年がやって来てよ。びゅーんと、ゴム鉄砲みたいな勢いで。で、件の二人はその少年にふっとばされる形で向こう三軒突き抜けてったわけだ」

 自分で話していても意味が分からない。店主は些か困窮したが、しかし事実なのだからどうしようもなかった。壁の穴を指さしながら「凄いだろ?」と問いかければ、青年は丸い目を更に丸くしてから「ああ」と溜息のような言葉を零す。

「──で、話がそこに繋がるのか」
「そうなんだ。でな、ここからが面白いっつーか更に意味が分からねえとこなんだが、」
「この皿の美味いな。もう一つ頼む」
「いや、ここまで来たら最後まで聞けよ!」

 いきなり店主の言葉を無視して、青年は空になった皿をカウンター越しに寄越してくる。思わず声を荒らげた店主に向かって、青年は更にもう一枚、空き皿を上乗せした。

「聞きたかったことはもう聞いた。あ、あとこの皿のも追加で」
「要件だけか! 気にならねえのかよ、そいつらがどうしたとか」

 海軍大佐が何故か麦わら帽子の少年を追って行ったことや、更にその後を白ひげ海賊団の隊長が追って行ったことなど、意味が分からないながらも不思議で面白い話はまだ続くのだが、目の前の青年はすっかり店主の話に興味を失くしてしまっているようだ。

「……まあ、長居している暇はなさそうだな」

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟くと、青年は追加の料理を勢い良く食べ始めた。


   ■


 それから少し経った、ナノハナの街のはずれ。
 本日閉業の小さな店の軒下で、革命軍参謀総長サボは低く鳴り続ける子電伝虫を漸く取り上げた。

「こちら、サボ」

 短く返せば、目の前の電伝虫が目を吊り上げて鋭く叫び始める。

『こちらコアラっ! もおぉぉぉぉぉサボくんってば、また勝手にどっか行って! あのね、何度も言うけど、君の単独行動で怒られるのは私なんだからね!』

 通信相手は革命軍の同志コアラだ。立場の割に勝手気ままに行動しがちな参謀総長のお目付け役も兼ねているためか、はたまたサボより一つ年上であるためか、コアラは何かとサボに口うるさく連絡してくる。自由を愛するサボとしては放っておいてほしい時もあるのだが、そのお節介がありがたい時もあるので、いつでも一応返事くらいはするようにしていた。

「腹減ったんだから仕方ないだろ」
『仕方なくない! 君のことだから、どうせ変装もせずに暑苦しい格好のままうろついているんでしょ?』
「それより、前にドラゴンさんが話してたローグタウンの自然系(ロギア)の海兵、今、この街に居るらしいぞ」
『えっ! うーん、それもやっぱり内乱の話と関係あるのかな?』
「さあな、それは調べてみねェことには……あと白ひげ海賊団の二番隊隊長も居るらしい」
『海賊団か……』

 革命軍は政府を相手に戦っているが、かといって海賊側に付くかといえばそうでもない。敵の敵は味方、と簡単に片付いてくれるほど世の中は甘くはないのだ。
 しかし、サボは個人的に海賊という輩のことを好ましく思っていた。民衆を苦しめるような悪党は論外だが、己の選んだ仲間たちと広大な海を渡り、未知の冒険へと繰り出していく夢見る海賊たちには親近感のようなものすら覚える。
 だが、コアラは海賊に対してまた別の感情を抱いているらしい。それはコアラの過去に関わることのようだが、サボは敢えてそれを訊いてはいなかった。サボには、代わりに差し出せるような己の『過去』が無いからだ。

「あとゴムみたいなの、とか言ってたっけな」
『ゴム?』
「以上」
『あ、ちょっと待って切らないで結局どこで落ち合、』

 コアラが何かしら話していたが、要件を告げ終えたサボはさっさと電伝虫を切る。
 即刻折り返しでぷるぷると鳴き始めたが、すぐには取らずに、先程から感じている妙な懐かしさについて考えた。
 この街に入ってから、あの店で食事をしてから、その話を聞いてから──胸騒ぎのように気持ちが逸って仕方がない。
 今すぐ何処かに駆け出さなければならないような、今すぐ誰かの名前を叫ばなければならないような、理解出来ない焦燥が胸を灼き続けている。

「……なんか、懐かしい匂いでもすんのかな」

 香りは記憶を呼び覚ますものだという。己の内から失われている十年の時を想い、すんと鼻を鳴らして辺りの匂いを嗅いでみたが――噎せ返るような香水の匂いがするだけで、他には何も分からなかった。


   ■


「……何だか今日は凄い一日だな」

 常連客が店主の肩を叩きながら、同情たっぷりの声で慰めてくる。
 今日という日は間違いなくSpice Beanの歴史上に残るだろう。大海賊の隊長が来て、有名な海軍大佐が来て、麦わら帽子の賞金首が来て、そして止めのように現れた謎の青年が、ただでさえ見失っていた店のペースを散々乱しに乱して去っていったのだから。

「ああ、もう、こんな日は今日限りにしてもらいたいね。しかし、それにしても、さっきの上品そうでそうでもない兄ちゃん……」

 この辺りじゃ珍しい金髪を思い出しながら、店主の頭には同時に黒髪の二人の顔が浮かんだ。

「あの二番隊隊長だとかいう男と、あとから来た麦わら帽の子に、何となく似てたな」

 考えるよりも先に呟けば、「どこがだよ」「髪の色も顔も全然違っただろ」「疲れてんのか店主」と客から口々に揶揄と心配の声が上がる。
 深呼吸してから再度考えれば、確かに似ているところなんて精々隊長という男との背格好くらいだ。突拍子もない自分の思いつきに店主は大きく首を傾げた。
 実はこのとき、Spice Beanの魅力の一つである、店主の敏さが驚くべき形で証明されていたのだが──悲しいかな、この時この国にそれを知る者は、誰一人として居ないのであった。

   【完】


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