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▼ サボと真夏の納涼怪談


 野営地から見下ろす岬の少し手前に、一本だけ大木が立っている。
 夏島に相応しい青々とした大木なのだが、どうにも周囲の風景からは浮いて見える。いっそ場違いなほどだ。
 それもそのはず、近隣住民の話によるとあの辺りは人の手で切り拓いた土地で、その木だけは『いわくつき』なために敢えて残されたのだそうだ。

 二日前の夜半、草木も眠る丑三つ時。
 そんな『いわくつき』の木の程近くで、通信兵の一人が見てしまったらしい。
 ──赤い、鬼火が舞うのを。

 それは決して松明の火などではなく、ゆらりと灯ったと思えば不意に消え、今度は別の場所でカッと燃え上がる。
 捉えどころのないその動きと、遠くからでも網膜に灼き付くようなその鮮やかな色は─その通信兵の言を借りるならば─「およそこの世のものではない」。
 勿論、そんな世迷い言を鵜呑みにするような革命軍でもない。
 話を聴いた者たちはこぞって笑い、幾人かの仲間たちはそれなら近くまで行って確かめてみようと言い出した。
 そんな肝試しのような真似をしでかしたのも、後は幾つかの停戦処理を終えて帰還するのみで気が緩んでいたためだろう。
 結果として、『肝試し』に出掛けた者たちは異口同音にこう言って憚らない。

「鬼火は本当だった。正体を確かめようともした。だが、そこから先は覚えていない」

 大木に近づこうとしたあたりまでは覚えているが、次に覚えているのは水平線から顔をのぞかせる朝日の眩しさで、そこでやっと自分たちが死体のように転がって眠っていたことに気付いたのだという。
 これだけの目撃者が居るのだから、あの鬼火も本当に死者の魂や怨念の類なのではないか。革命軍は今やその話で持ちきりだ。
 世の中には黄泉の世界と通じる能力者すら居ると噂されているし、何より、この<大いなる航路>ではいかなる不可思議も有り得るのだから、と──。


  ■


「──って怪談が流行ってるのか? 今、ここで?」

 片眉を上げたサボが問えば、年の近い衛生兵は真剣な面持ちで肯定を寄越してくる。
 解放した村に置いていく物資に関する話し合いが終わったところで「そういえば参謀総長、こんな話を知っていますか」と切り出され、妙にまどろっこしく語られたかと思えば、まさかこんな話だとは。
 サボはあからさまに呆れ顔を作ってから、お前らなァとため息をついてみせた。

「オバケが怖いだなんて、この暑さにやられちまったんじゃねェだろうな? 本当に怖いのは生きた人間だ、というかそんな無駄口叩いてる暇があるなら帰還準備もっと早く進めろ」
「しかし、鬼火どころか、すすり泣くような声を聴いたという連中も居るんです。悩ましげで、切羽詰まったような、とぎれとぎれの声で、時に叫び声に近かったとか……耳にした者は未だに鼓膜にその声がこびりついているようだと言っています。ここまで来るとあまり看過も出来ないかと……」

 そう言う衛生兵の顔は幾分か青ざめている。どうやらこの怪談を一番怖がっているのはそれを口にした当の本人のようだ。それこそ、この海を行き来していればもっと奇妙な物も奇怪な事柄も見聞きしたことがあるだろうに、なぜそんな鬼火の正体なんかに首を突っ込むのか。
 しかも、『すすり泣くような声』とまで言い始めるのだから、サボは内心思わずには居られない──全く、どうして、こんなことに。
 仕方がなくサボは大仰に両肩を竦めてから、しかし、ふっと目元を和らげてみせた。

「……分かった。じゃあ、今夜おれが見て来てやるよ」
「本当ですか!」

 この反応は、元より参謀総長直々に噂を確かめに行ってほしかったということなのだろうか。
 衛生兵は途端に目を輝かせると、では何名か一緒に付いて行かせましょうと進言してきた。それを「必要ねェ」の一言で端的に断ってから、サボは労うように衛生兵の肩を叩いて先に部屋を出る。
 一人になったサボは、先程までの頼もしさはどこへやら、僅かにうなだれて歩きながら、頭痛に耐えるかのように手袋越しの指で己の両方のこめかみを押さえる。

 当たり前だ、一人で行くに決まっている。
 ここまで噂になってしまったらそうせざるを得ないだろう──なぜならサボは鬼火の正体を嫌というほど識っているから。





 漆黒の薄衣を重ねたような朧気な暗闇と、纏わりつくような潮風の湿り気の間を縫うようにして、サボは単身、件の大木の元へとやってきた。
 にわかに振り仰いだ先の野営地では幾つかのランプが灯っているのが見えたが、それ以上のことは分からない。つまり、向こうとしても同じだろう。
 それは『昨晩もその前も』重々確認したことではあったが、サボは再度確かめずにはいられなかった。

「──サボ、もう来てたのか」

 おれのが先かと思ってたが、と続けながら大木の後ろから出てきたのは、サボの義兄弟にして恋人であるポートガス・D・エースだった。
 エースは予期せずこの岬の対岸の遥か沖にある小さな島に停泊しており、お互いが同じ海域に居ることを知った二人はここで密やかな逢瀬を楽しんでいたのだ。
 そう、丁度、三日前から。

「エース……ちょっとやべェことになった」
「ん? 革命軍でなんかあったか?」

 そう言いつつもエースの性急な手はサボをきつく抱き寄せる。
 当然のごとく近づいてくる唇をさりげなく避けてから、サボは「任務とは関係ないんだけどよ」と前置きしてから続けた。

「革命軍の中で、この辺りに鬼火が出るだのなんだのって噂になってんだ」
「は? 鬼火? って……ああ、そうか! おれのメラメラのせいか!」

 エースの悪魔の実の能力は炎そのもの。自然系のその実はエースの身体自体を炎へと転ずるものだが、たまにエースが思いもしない時に、勝手に髪の先やつま先がゆらりと燃えてしまうことがあるのだ──『理性が飛ぶ瞬間』には、特に。
 サボはわずかに赤くなり始めた顔を横に背けながら、言いにくそうに頷く。

「ああ。お前のっていうか、その……『おれらがヤッてるせい』だな」

 普段は離れ離れの若い恋人たちが、深夜の密会でナニもしないはずもない。
 会えなかった時間をあらん限り埋めようと、この大木の陰に隠れるようにして濃密なセックスに及んでいたのだが、理性の飛んだエースのメラメラの実の能力がほんの僅か暴走し、暗闇に鮮やかな炎を幾度となく揺らめかせてしまった……というのが先の怪談の顛末である。
 普段飄々としているサボも、流石にこれには必死のポーカーフェイスの裏で忸怩たる思いに苛まれた。
 自分達のセックスの現場についてーそうと知らないにしろー革命軍の同志たちが口々に話しているなど、もはや羞恥で己の頭を握り潰したくなるレベルだ。
 しかも、好奇心旺盛な革命軍の連中は鬼火を『見た』と言うだけには留まらない。

「──昨日の夜、なんか変な気配がするっつってエースが覇王色の覇気使っただろ? あん時、うちの革命軍の奴らが様子を見に来てたみてェなんだ。全員朝まで伸びちまってたらしい」
「おいおい、覇王色で泡吹いて倒れるなんざ革命軍らしくもねェな? サボ、お前もうちょっと鍛えてやった方が良いんじゃないか?」

 それはそうかもしれない。
 が、今はそういう問題ではない。
 ともかく、と強めの語調で話を戻しつつ、サボは身をよじってエースの腕の中から抜け出す。
 実際のところ、暑すぎる夏島の空気に晒されてなお、サボはこの眼前の男の熱い体温を欲してやまない。それはもうサボにとっては一種の条件反射のようなものだ。だからこそ、物理的に『離れて』いないと、このまま流されてしまいそうで危険だった。
 こういった時に何かと流されがちなことを自覚しているサボは、んんっと咳払いまでして意識を切り替える。

「その、約束してたけど、今夜は出来ねェよ。来てもらって悪ィが今夜はこのまま帰ってくれ。おれも『鬼火なんざ出なかった』って言って戻るから」
「マジかよ。そんじゃ、ヤラなくてもいいからイチャイチャくらいしようぜ?」
「ん……いや、それで済んだこと一度もねェだろ」
「まァな。だってサボに触ってたら止まらねェもん」
「っつーか、す、『すすり泣くような声』まで聞かれてんだぞ……?! どうせあいつらも、また鬼火が出るんじゃないかって見張ってるだろうしよ」

 再び視線を投げた先には、革命軍の構えた野営地。
 勿論、これだけ離れた暗闇にあっては見えることはないし、声や音が聴こえることも早々ない。
 自分が戻らなくても決して近寄るなと厳命したから、様子を窺いに来ることもないだろうが─元々怖がって近寄ろうともしない者がほとんどのようではあったが─それでもある意味『衆人環視』なこの状況でセックスをする趣味などサボには毛頭なかった。
 サボが腕の中から逃げてしまったためかエースは少しばかり拗ねた様子で「そんなの気にすんなよ」と呟いてから、「ああ、でも」と続けた。

「聞かれちまってたのか、サボの喘ぎ声。他の奴に聴かせてやったかと思うと勿体ねェな、スッゲーエロいから。まあ昨夜はサボも結構タガ外れてたから、響いても仕方ねェけど」
それは! お前が! 抱えあげるからだろ!! 足つかねェのイヤだっつったのに!!」
「でも途中からおれの体に足絡ませて抱きついて来てたろ? 滅茶苦茶ヨさそうだったじゃねェか」
「だってしがみついてねェと腰が落ちて深いところまで入っちまうから……でも結局エースがおれの尻を、ってもういい、この話は」

 この調子で昨夜のことを思い返せば身体の奥に火がついてしまう。
 心頭滅却すれば火もまた涼し、と心の中で謎の文言を唱えつつ、サボはグッと耐えるように下唇を噛んだ。
 それをどう思ったのか、暗がりの中、エースは困ったように頬を指で掻きつつ言う。

「周りのことなんざ気にすんなって、どうせ火くらいしか見えねェんだから。また来たら覇王色使って沈めりゃいいし」
「お前、革命軍の奴らをなんだと思ってんだ?」
「第一、サボ、恥ずかしいの結構好きじゃん」
「んなことねェよ、人聞きの悪ィ!」
「それに……そろそろ本部に戻っちまうんだろ?」

 そうしたら、また当分会えねェし。
 そう呟く声の寂しさに、火もまた涼しと自負したばかりのサボの心がぐらりと大きく揺れてしまう。このタイミングでその言い方は卑怯だぞと思えど、サボの心の揺れを見逃してくれるようなエースではない。
 今だとばかりに手を引かれ、背を木の幹に押し付けられ、文句を言うより先に力強い両腕で顔の横を囲われれば、幾らサボとてそう簡単には逃げられない。
 ──否、本当はもう逃げる気もなかったかもしれない。
 どうしたってサボはエースに甘いのだ、エースがサボにとことん甘いのと同様に。それでもエースは、こうやって、たまに意地が悪いけれど。

「怪談は怪談のままにしといた方が面白ェって。なあ、だからサボ、『悪い鬼火に捕まって朝まで離してもらえなかった』って言い訳しちまえよ」

 どうだ悪かねェだろ、と自信満々に響く声。暗がりに慣れたサボの目に映るのは、エースのとびきり悪戯げな笑顔。
 幼い頃から見慣れたその表情には、しかし、子どもの時分にはなかった確固たる欲望がぎらついている。
 真っ直ぐに己を求める瞳に、真夏だというのにぞくりと背筋を震わせてしまったから、サボには多分、この怪談を止められない。


【完】


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