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▼ 拉麺挽歌(ラーメン・ラメント)


 一枚だけ写真を撮ってからスマートフォンを仕舞いこんで、箸を割る。
 スープから楽しむのが通の味わい方だと聞くが、おれは食いたい時に食いたい順番で食う派だ。
 この店に来るのは二度目だが、今回は季節限定のラーメン。最初の一口目を啜ると思うと少しだけ緊張する。
 垂れ下がってくる邪魔な髪を耳にかけつつ、いざ実食と箸を構えたところで、真横からじりじりと焦がすような視線が送られていることに気付いた。
 まるで太陽の光を一点に集める虫眼鏡のようだ。

「……んな物欲しそうな目ェすんなよ、エース。先に言ったろ? この店、餃子頼むとラーメン出て来るの遅くなるって」

 注文時に再三言ったにも関わらず、エースは片手でカウンターに頬杖をつきながらも、飢えた獣のように目を光らせている。
 ごくりと喉が動くのも見えた。そんなに腹減ってたのかよ。でも、このラーメンはおれのだから渡さねェぞ。

「……んん、いや、違ェよ。ラーメンが食いてェわけじゃなくて、えーっと、アレだ、サボは本当にいつも適当に写真撮ってんなって思ってよ」
「別にこだわりねェからなあ」

 そりゃ仰々しい一眼レフを片手に構図にこだわって撮る奴らも居るんだろうが、おれにとっちゃ単なる記録用の写真だ。
 何のラーメンを注文したかが分かれば良い程度だし、何より写真撮影に時間をかけてちゃ折角の出来たてラーメンが勿体無い──って今もそうか。
 いただきます、と小さく呟いてから、一足先にラーメンへと手を付ける。
 前回食べたものよりも麺は若干柔らかめだ。きっと味の濃い特製スープに合わせて茹で加減を調節しているのだろう。
 固めの方が好みではあったが、これはこれで麺に絡んで美味い。というか基本的におれはラーメンという存在自体が好きなので、余程のことがなければ何でも喜んで食べるんだが。

「美味いか? サボ」
「ああ、この店のラーメンは素直な味付けで、ってなんだその指」

 未だにラーメンも餃子も提供されないエースが、両手の親指と人差指だけを立て、こちらに向けて見えない長方形を形作っている。
 写真家気取りなのか片目まで瞑りながら、エースは得意げに口の端を引き上げた。

「ブログ用におれが撮ってやろうかと思って。前に撮ったやつ、結構上手かっただろ? って勿論ラーメンだけな、またお前の顔写真が出回ると面倒なことになるし」

 軽く肩を竦めたエースは恐らく半年前のことを思い出しているのだろう。おれの脳裏にも苦い思い出が蘇る。
 おれは趣味の食べ歩きの記録を『ラーメン革命』という自分のブログサイトにアップしていて、淡々とした地味なサイトの割にはそこそこ閲覧も回っているのだが、半年ほど前に、訪れた小洒落た新規ラーメン屋で千人目の客としてサービスされたことを書いてしまったのだ。
 すると、後からそこの店主がインスタグラムとやらに「千人目のお客様は、なんと、あの有名ブログ『ラーメン革命』の『総長』さんでした!」といつの間にか撮っていたらしいおれの顔写真をアップしたものだから、幾つかのニュースサイトで『あのマニア御用達ブログの素顔が明らかに! 意外な若さに業界騒然!』だの『誰も予想だにしていなかったまさかの顔面偏差値』だのと話題になってしまったのだ。
 勿論、すぐに該当記事は消してもらったが、顔バレしているせいでラーメン屋で肩身が狭かったり、ブログに妙なコメントばかり来たりと散々だった。今はすっかり落ち着いたが、あんな思いは二度としたくない。
 ラーメン屋巡りに付き合ってくれているエースも、あの頃は周囲の視線が鬱陶しかったのか、随分と機嫌悪そうにしていた。

「本当にあん時はな……でもエースの撮った写真、『写り込んでる財布格好良いですね、どこのブランドですか』とかコメント欄で訊かれたりして、それもそれで面倒だったぞ? おれの財布じゃねェし」

 エースのセンスの良さには全力で同意したいものの、それをおれの持ち物と勘違いされては困る。
 元々コメントは一切返さないから構わないのだが、同時に誤解を訂正することも出来ないので、その記事に付いたコメントの数々にはちょっと居心地が悪かった。

「いいじゃねェか。いっそおれの顔を載せるってのはどうだ? 『いつも一緒に食べ歩きしてるエースです、以後よろしく!』っつって」
「却下」

 絶対にダメだ。財布一つでも騒ぐ奴らが居るのに、エース自身の顔なんて出してしまったら皆こぞって色めき立つに決まっている。
 冗談めいた言葉と分かりつつも、すげなく手短に断ってから、おれは目の前のラーメンへ集中した。
 別に、心配だとか嫉妬だとかをしているつもりはない。何より、それが出来る立場でもないのだ。
 エースはいつも趣味に付き合ってくれる優しい親友──ただ、それだけなのだから。
 おれはじくりとした胸の痛みを誤魔化すように箸を動かす。美味いはずのラーメンの味も今は曖昧だ。

「……しっかし、本ッ当にサボはラーメン好きだよなァ」

 真剣な顔で勢いよくラーメンを食べ始めたおれを見ながら、感嘆の中に幾ばくかの呆れを含んだ声でエースが呟く。

「まあな。三食ラーメンでも良いくらい」
「マジか。おれも好きな方だけど、週二くらいで良いな……なんでそんなにラーメン好きなんだ?」

 何気ない声、屈託ない笑顔。
 きっと自分の頼んだ品が来ないから、暇つぶしに訊いてみた程度のことなのだろう。
 だが、おれにとっては、どうしようもなく心がえぐられる一言だった。

 ──なんでも何も、『お前』が、おれに教えたんだ。

 はるか遠い昔、けれど鮮明に蘇る記憶。
 あのゴミ山を抜けて、『兄弟』三人で出向いた中心街。
 初めて食べたその料理をおれの好物にしてくれたのは、他でもない『エース』だった。

 けれど、きっと、それは今のエースとは違うのだ。こうやって、その果てしない<遠さ>を思い知るたび胸が張り裂けそうになる。
 今のエースは覚えていない。だから、エースは知らない。
 おれが生まれる前からずっと、何十年も抱え続けたこの想いの重さを。どれほど焦がれ、どれほど求め、それゆえに今というこの現実がどれだけ奇跡的なのかを──しかし、それはむしろ知らなくて良いことなんだろう。
 こんな煮詰めたような重すぎる感情を、今のエースに背負わせるわけにはいかないから。
 だからこそ、おれは自分らしくもなく現状維持に甘んじる。
 とっくに気付いている自分の感情に蓋をして、どうか、どれだけ<遠く>ても、<近く>に居られるこの奇跡が、出来るだけ長く続きますようにと。
 いつか『隣』を誰かに譲る日が来るとしても、今だけは、友達で構わないから、エースと一緒に居られますようにと。

「……最初に食ったラーメンが滅茶苦茶美味かったから、かな」

 言いたい言葉も言えない言葉も、何もかも飲み込んでから、漸くそれだけを口にする。嘘はついていないつもりだ。

「へえ、初耳だ。それ、どこのラーメン屋?」
「すげェ遠くの店。それに今はもうない」
「なんだ、潰れちまったのか? おれも食ってみたかったのに」

 そう言ってつまらなさそうに唇を尖らせたエースの前に、威勢のよい店主の掛け声とともに餃子とラーメンが同時に提供される。

「おおやっと来たぜ、腹減った! いただきます!」
「ってお前、またそんな真っ赤にしやがって!」

 いただきますと丁寧に両手を合わせた次の瞬間には、エースは傍らにあった七味の瓶を思い切り上下させていた。一口も食べることなく香辛料をかけまくるその姿に、思わずおれはカウンターの向こう側を窺う。
 店主はタイミングよく他の客の注文を聞いているようで、敬意の欠片もないようなエースの所業には気付いていないようだった。

「これが美味いんだって。ほらサボもちょっと試してみろよ」
「あっ、バカ」

 おれがカウンターを見遣っている隙を狙って、エースが勝手におれのラーメンへと七味を振りかけてくる。
 エースのものと比べればささやかな程度ではあったが、辛いものが得意でないおれは眉間に皺を寄せてじとりと睨みつけざるを得ない。

「エース、お前なァ……」
「たまには良いだろ、おれ色に染まれよ」
「ったく、おれはラーメンはそのまま食う派なのに」

 文句を言いながらも、残すわけにはいかないので恐る恐るスープを蓮華に取って口に流し込む。
 もう完成されたスープだというのに七味を足すって、あれ、意外と──。

「──あ、美味ェ」
「言ったろ、だから!」

 ほらな、とエースはおれを指差して笑う。まるで子どもみたいに、得意げに、そして嬉しそうに。
 その表情があまりにも遠い記憶の『エース』と鮮やかに重なるものだから、おれは仕方なく嘘をつく。

「でも、やっぱちょっと辛ェよ」

 そうでもしなけりゃ、にわかに滲んだ涙の理由がつかないから。

【終わり】


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