▼ かぜのないよる
風のない夜だ。いや、正確に言やァ、『風のあってないような夜』ってとこか?
宿屋の薄っぺらいカーテンはたまにほんの僅かに動くものの、この部屋に溜まった熱い空気を鍋みたくかき混ぜるだけで、傍らのサボの金髪一本揺らしちゃくれねェ。
むしろ『そんな微風ならないほうがマシな夜』とすら言えるかもしれない。
『かぜのないよる』
道理で宿代が安いと思ったぜ、他に客が居ないのも頷ける。
みんな夏島の夏の夜に、こんな風通りの悪い宿屋なんて選ばないんだろうな。
そのおかげで他の奴のことを気にせずに窓を開けたままヤレたのは良かったけど、それでも汗だくなことに変わりはなかった。
片方のベッドの汚れたシーツの上に寝転んで、下着一枚の姿で寄り添っていても、流石に今夜はサボを腕の中に閉じ込めるまでは出来そうにもない。
内側から焦がされるような火照りが落ち着いてなお、室温のぬるつきはおれたちを遠慮なく苛んでくるからだ。
『おれたち』と言っても、実はおれは寝付けないほど暑くもないのだが─それがメラメラの実のおかげかは分からない─サボの方はといえば、可哀相に、目を固く瞑ったまま、シーツの上に少しでも冷たい場所を探そうと何度も寝返りを打っていた。
おかげでおれも眠れなかったが、サボを置いて寝る気もなかったからそれは構いやしない。
こうなったらいっそ「諦めてもっと熱くなろうぜ」と長い休憩の終わりを告げようかとも思ったが、どこかぐったりとした様子のサボにそれを告げるのもどうかと悩んだ。
シンプルに「あちィ、無理」と断られる未来も予想出来たしな。
でももしかしたら……と淡い期待を胸にサボの横顔をちらりと窺っていると、サボはぱちりと大きな目を開いて熱い息を吐きながら上体を起こす。
「…………あちィ、無理」
殺気すら帯びたその言葉はおれが予想していたのと寸分違わぬもので、おれの中の淡い期待は即座に霧散する。
サボは不機嫌そうに何事か小さく唸ってから、ひとりベッドを降りると、床に放り投げてあったズボンに足を通してゆらゆらと扉の方へと向かった。
「サボ、どこ行くんだ? 便所?」
慌てて背中に声を投げかけるも、サボは夢の世界に片足突っ込んだままなのか、むにゃむにゃと言葉にならない返事をして出て行ってしまう。
でも、多分便所なんだろうな。こんな夜更けにおれを置いて他に行く場所もない。安宿ゆえに便所も風呂も廊下の奥のひとつきりだったが、他に客も居ないし誰かに出くわすこともないだろう。上半身裸のまま出て行ったけど、まあ、今だけならセーフだ。今だけならな。
サボの居なくなったベッドは、人ひとり分の熱を失って先程よりは若干涼しかったが、それを快適と思えるはずもない。
それどころか、先程までゼロ距離で触れ合っていたからか、ほんの少し離れるだけでもとてつもなく『遠く』思えてならなかった。いつもは何千海里も離れて過ごしているってのに変な気分だ。
でも、この気分こそが、再会の度におれたちが溺れた水夫みたく求め合う理由でもあるんだろう。
──とはいえ、きっとサボは戻って来たらもう一つのベッドへ行っちまうんだろうな。
視線を投げた先には、手付かずのまま残った一台のベッド。シーツだってまっさらだし、おれが隣に居るより断然涼しいこと請け合いだ。
疲れたサボをゆっくり眠らせてやろうと思うなら、おれの方から「向こうで寝ていいぞ」と言ってやるべきなんだろう。
だけど──流石にそれは言いたくなかった。独りよがりと言われようが知ったことか、本心だ。
「ああ、クソ、次は絶対冬島にする、なんなら冬島の冬にしてやる……」
待ち合わせ場所が簡単に選べるわけでもないが、おれは口に出してそう誓う。
冬だ、冬が良い。寒ければ寒いほど歓迎だ、おれの腕に抱かれてなきゃ凍えてしまうくれェに。
ひとりで決意を固めていると、不意に扉が開いてサボが顔を覗かせる。
──ああ、あっちのベッドに行っちまうかな。
納得はしているのにどこか寂しい気持ちを拭いきれないまま見つめていると、サボが両手に幾つもの小さな袋を提げているのが分かった。
暗がりで見るとまるで金貨の詰まった袋のようだったが、サボがこんな夜更けに急にそんな真似するわけもない。
「あつくね? えーす」
あついよな、とサボはどこか舌足らずのまま結論づけてから、そのまま『こちらのベッド』へと戻ってくる。
近づいて来てやっと分かった。妙に冷えた空気が感じられたからだ。
どうやらサボの持つ袋の中身は──『氷』らしい。
「どうしたんだ、それ」
「下でもらってきた。店主起こしちまったけど仕方ねェよな、暑ィし」
「下? 店主? お前、どこ行ってたんだよ、んな格好で」
「お前に言われたかねェよ」
暗がりの中でサボはムッと眉を寄せたようだが、いや、お前、百歩譲って上半身裸なのは良いとしても、おれがつけた跡だらけなの知ってるか?
寝ているところをキスマークだらけの青年に叩き起こされた宿屋の主人には同情するが、しかし、おれとしたってそれどころじゃない。
「氷食うのか? ──って、冷たッ!?」
「食わねェよ、枕にしたり、いろいろ冷やしたりして、ねる」
サボは氷の入った袋をおれの胸の上に気軽に置いてくる。びっくりして跳ね起きたが、サボは「ほらねるぞえーす」とまたしても半ば夢見がちな声で言いながらおれを無理やり押し倒して寝かしつけようとする。
どうやら相当眠いらしい。そりゃまあ良いんだが……冷てェよ、いきなり過ぎんだろ!
「わきの下を冷やすと良いらしいぞ、けっかんが……」
「おれの腋?! っ、て、だからいきなり冷てェよ!」
そそくさとおれの脇の下に氷のうを設置して、サボは猫みたく身体を丸めておれの腕の中に収まる。
図らずも腕枕をすることとなってしまって身動きの取れないおれの横で、サボはやけに満足気に目を閉じて口元を緩めた。
「あー……やっぱおまえの腕ん中じゃないとダメだ……おやすみえーす…………」
──サボ、お前、そんな。
そんな今にも蕩けそうなくれェに幸せそうな顔と声で、そんなこと言われて、『違う熱』の点いちまったおれは一体どうしたらいいって言うんだ。
急激に冷えていく肌とは裏腹に、熱と鼓動を増していく心臓。
腕の中には柔らかい眠りについた愛しい恋人、そして目は冴えてもどうせ生殺しのおれ。
離れて眠るより断然良いけれど、あまりの温度差に流石のおれも風邪の心配をしちまいそうだ。まあ、風邪なんざひいたことねェんだけどな。
【終】