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▼ 周回遅れで繋いだ手だから


 【エース】
 【迎えに来てくれ】



周回遅れで繋いだ手だから



 薄く霜の降りた田畑の真ん中、その細く平坦な道を自転車で十分も走れば、離れ小島みてェな木造一軒家が見えてくる。ダダンの家だ。つまり、サボの家でもある。
 いつ見てもどこからが畑でどこからが庭か分からない敷地内に自転車を停める。
 前カゴの通学カバンは薄っぺらいが、でけェタッパー二個入りの袋をハンドルにかけてたせいで思い切り前輪が横を向いた。そのまま倒れるかと一瞬焦ったが何とか持ち堪えてくれている。

「よしよし、大人しくしてろよストライカー」

 自転車相手に言い聞かせてから、古びた玄関の前に立って挨拶もなく引き戸に手をかける。だが、ガタガタと揺れるだけで開きやしねェ。
 朝早いせいか? でもサボはともかくダダン達はガープのじじいと同じくらい早起きのはずだし、誰かが居る時にこの家に鍵が掛かってた試しなんてないんだけどな。

「サボー?」

 それに、サボだって今日だけは起きてるはずだろ。
 なんたって、迎えに来てくれってライン寄越してきたのが他でもないサボなんだから。
 訝しむおれの頭上から大袈裟に窓を開ける音が降ってくる。

「エース! 悪ィ、すぐ降りる……って寒ッ!」

 二階の窓から身を乗り出したサボは、ギュッと目を寄せて威嚇する猫みたく肩を緊張させる。
 そんな寒いかと思わないでもないが、とりあえず顔を見て安心した。

「おう、っつーか大丈夫なのか? ダダンたちは?」
「出掛けてんだ、ドグラもマグラも! 下降りて話す!」

 余程北風が堪えたのか、サボはおれの返事も待たずに窓を閉める。ついで聞こえてくるのは何かを落とす音、何かがぶつかる音。そんなに焦らなくても時間は充分すぎるほどあるから大丈夫だけどな。
 程なく玄関扉の向こう側に気配を感じたが、サボは「あ、パン!」と一人で小さく叫んでからまた廊下を戻っていったようだ。
 ドタバタとしたサボのその動きは、心配と不安で寝不足気味のおれとしちゃ随分と気の抜ける代物だったが、やっと大きく息をつける気もした。

「エース、待たせた! 悪かったな、急に迎え頼んで」

 玄関を勢いよく横に開きながらサボが顔を出す。
 申し訳なさそうに目を細めてみせるサボの金色の髪が、まだ薄暗い朝の光に鈍く輝いていた。少し濡れているようだ。それにやけに良い匂いもする。
 どうやら風呂上がりだったらしい。朝風呂なんて珍しいな。

「構いやしねェけど、大丈夫だったのかよ? 夜中だろ、チャリで事故ったの。っつーか風呂上がり?」
「怪我はしてないんだけどチャリが再起不能。見てくれよアレ」

 古めかしい鍵をかけながら、サボは顎で庭の奥を示す。
 そこにはまっすぐ停めてあるはずなのに前輪がぐにゃりと曲がってしまった、哀れな自転車の姿があった。
 どうも前後を繋ぐフレームが九十度近く折れ曲がっているらしい。あれでは乗って走ることは勿論、押して車輪を動かすことも無理そうだ。
 担いで帰ったのか、引きずって帰ったのか、いずれにせよ家まで持って帰るのも大変だっただろう。とはいえ、フレームさえ戻ればどうにかなりそうにも見えた。

「うわ、えげつねェな。でも逆に曲げりゃ直るんじゃね?」
「あれ多分スチールだぞ? そう簡単に曲がるかよ」
「……そりゃそうか」

 そりゃそうだ。今のサボには無理に決まってる、幼い頃から鉄パイプ片手に走り回っていた<あの頃のサボ>じゃあるまいし。
 体力測定の結果だって高校生男子の平均より少し上という程度で、おれともそう変わらないんだから。
 ──日常の中で、不意に訪れるこういった微妙な『差異』が気になり始めたのはいつ頃からだっただろう。
 あの頃の<夢>を見ては流れ落ちる涙を止めきれずにガープを驚かせたのも、見知った懐かしい顔ばかりなのに覚えているのがおれ一人だということに愕然としたのも。
 鍵をかけ終えたサボは何も知らないままに眠そうに欠伸を一つしてから、「それでな、昨日のことなんだが」と続けた。

「深夜にどうしても肉まん食いたくなって駅前のコンビニまでチャリ飛ばしたんだけど、途中で急にチャリがパンクしたのか土手に落ちちまって。気付いたら一時間くらい経ってたからびっくりした」
「この時期に外で一時間?! やばくねェ?!」
「やばいよな、寒かったし。だから本当は帰って風呂入りたかったんだけど気分悪くてそのまま寝ちまって、んで明け方起きてお前に連絡して風呂入って、それで今って感じ」

 明け方に鳴ったライン通知に気付いたのは偶然だった。
 普段のおれなら眠ってる間にそんな小さな音が響いたところでお構いなしだったが、たまたまその時だけタイミング良く目が覚めたのだ。
 虫の知らせなんて御大層なことは言わないが、しかし、この偶然はおれにとっちゃ一種の運命にも近かった。

 【エース】
 【迎えに来てくれ】

 たった二行の言葉。しかし、おれはそれを見た瞬間、一気に血が下る思いがした。それこそ手が震えてすぐには返信出来ないほどに。
 それは、おれの夢のような<過去>に一繋がる言葉だったからだ。
 <サボ>の幸せを測りかねて、取り返しに行くことすらしなかったときの、そしてそのまま世界に<サボ>を奪われたときの──。

「……エース? 聞いてるか?」
「え? っと、なんだっけ」
「ストライカーに何提げてんのかって」
「ああ、ありゃ唐揚げだ。ルフィにおだてられたガープが大量に作ったからタッパーに詰めて持ってきた。昼に一緒に食おうぜ」
「本当か!? おれガープの唐揚げ好きなんだよ、何しろデカい」

 ルフィの奴もよくやった、とサボは嬉しそうに笑う。
 おれたちは『また』血の繋がらない兄弟として義弟のルフィを可愛がっているけれど、住んでいる家が違う分、サボの方がルフィに甘い気もした。とはいえ、おれもガープを上手くその気にしたルフィのことは褒めまくったけれど。
 もう中学生だってのに、頭を撫でてやるとルフィはいつまでもガキみたいに喜ぶ。おれの弟はやっぱりいつだって世界一可愛い。今も昔も。
 そんなの口に出して言ったら頭の検査でもされそうだから絶対人前じゃ言わねェけど──って、そうだ。それで思い出した。

「っつーかサボ、頭とか打ってねェの? 病院行かなくて良いのか?」

 土手を転がり落ちて一時間も気を失ってたなんて、よくよく考えりゃ一大事だろ。目に見える怪我をしてないからと言って放っておいて良いんだろうか。
 どこか打ったりしてないかと、乾かしきれていないサボの頭をじろじろと見回す。

「んー起きたらスッキリしてたから大丈夫だと思う。変な夢ばっか見たけど、それくらい」
「……良いなら良いけど」

 本人が良いと言うなら、とおれは一応納得してみせた。
 しかし、おれの<記憶の中のサボ>の桁外れの丈夫さが判断を鈍らせていたらどうしようとも思う。実際おれは前に「これくらいの高さ余裕だろ」と三階から飛び降りて怪我したこともある。
 やっぱり油断するのは拙い気がするので、ちょっとでも怪しかったら保健室にでもぶち込むことにしよう。おれは医者でもねェし、素人判断じゃよく分からねェ。サボのクラスの奴にも言っておこうと決める。

「んで、ダダンたちは?」
「みんな昨日の夕方から泊まり込みで仕事出てんだよ。だからおれ一人だったんだ」
「んだよ、一人だったならハナから呼んでくりゃ良かったのに」

 ごく稀にダダンたちは全員連れ立って泊まりの仕事に出るので、そういうとき、昔からサボはよくおれを家に呼んだ。
 ダダンも「クソガキ、家を壊すんじゃねーぞ!」なんて言いながらも、サボが一人で留守番するよりは、おれだのルフィだのと一緒に騒いでくれている方が気楽らしかった。
 だからその延長線のようなつもりで軽い気持ちで口にしたのだが、思いがけずサボは僅かに目を伏せて睫毛を揺らす。

「その……、おれのクラス、今日体育あるから……」

 数秒遅れて、その意図するところに気付く。
 ああバカ、クソ、そりゃ『そういう話』になるよな、おれはなんて間抜けなことを。
 ──サボと『そういう仲』になって半年、初めて『そういうこと』をしてから三ヶ月、そして最近出来たのがもう二週間も前。
 こんな田舎じゃ高校生がホテルなんざ入れるはずもないし、お互い家には人が居るから、中々『次』のチャンスがなくて悶々としていたのはおれも一緒だったのに。
 照れまくって靴のつま先あたりに視線を投げているサボの、首筋に張り付いた濡れ髪を見ておれは一人ごくりと喉を鳴らす。
 そうか、おれを誘えば『そう』なるだろうと思ったんだよな。でも、『そう』なると翌日の体育に差し支えると思ったんだよな。
 おれに抱かれて足腰立たなくなるって想像して、おれを呼べなかったなんて──昨日サボが一人でその想像したのかと思うと、それだけで身体の奥がカッと熱くなるような心地がした。
 いやいや、まだ朝だぞ。しかも早朝。これから学校だし。学校だよな? チクショウ、残念ながら学校だ。
 おれは慌てて顔をぶんぶんと振ってから、多分真っ赤なツラを晒したままでストライカーを親指で示した。

「その、それ、あれだ、じゃあ、そろそろ行くか? だいぶ早ェけど?」
「お、おう!」

 カラ元気のような声で、朝の空気にそぐわないヤラシイ空気を二人して懸命にかき混ぜる。
 お互い、一度スイッチが入ってしまったら止められないのは分かっていた。
 おれなんかは学校なんて行かずにこのまま……なんて考えまで浮かんではいるが、それだと体育の授業があるからとちゃんと我慢したサボに悪い。
 グッと下腹に気合いを入れて、何とか盛り上がりかかった気持ちを抑え込む。今のところはギリギリセーフってところだ。
 それを知って、というわけではないだろうが、サボが「おれが漕ごうか?」と申し訳なさそうに眉を下げる。

「いや、乗せてやるよ。ただガープのジジイに二人乗り見つかると面倒だから遠回りしてくぞ?」
「了解。じゃあ、おれ後ろでメシ食ってて良い? 朝まだ食ってないんだ」

 ストライカーのスタンドを蹴ってサドルに跨ったおれの真後ろで、同じように後輪の荷物置きに跨がりながらサボが腕を伸ばして直方体の塊を見せてくる。透明なビニール袋に入っていたのは一斤まるごとの食パンだった。

「食パンだけ?」
「ああ。ダダンが隣町の小洒落たパン屋で買ったとっておきのやつ」

 何でも食パン自体の味が美味いから何も付けなくても食べられるらしい。なんてことないように言いながら、ダダンのとっておきを堂々とくすねてくるのだからサボも中々の悪ガキだ。
 食いながらでも良いけど落ちるなよ、と冗談交じりに声をかけてからゆっくりとペダルを漕ぎ出す。
 うわこのパン切れてねェじゃん!とサボが驚きの声を上げたのは、数メートル走ったあたりのことだった。





 端からパンをちぎり取りながら食べているらしいサボは、たまに手を伸ばして運転手であるおれに一口大のそれを寄越してくる。まあ、確かに美味いけど、おれはやっぱり何か味のついた物を付けてェかな。
 タイミングなんてお構いなしにホイホイと人の口にパンを放り込みながら、サボは「これガソリン代わりな」と笑う。
 指をわざと甘噛みしてやれば「おれまで食うなよ」と背中からくすぐったそうな声が上がった。

 早朝の田舎町、しかも遠回りの細い道。 
 他に行き交う人も居ないから、まるでおれたちは世界に二人きりみたいだ。

 大声で馬鹿話をしながら信号なんてない道を選んで悠々自適に走っていたけれど、真っ直ぐ真横に町を分断する長い線路の手前で、おれたちは運悪く踏切の遮断機に捕まってしまう。
 二人して足を地面につけて、まだはるか遠くにある貨物列車を見遣った。カンカンと鳴る警鐘の音が冷えた空気を震わせる。立ち止まったせいか、後ろのサボから漂う花のような香りがおれの鼻をくすぐった。

「サボ、良い匂いするな」
「パンの?」
「違う、多分シャンプー」
「ダダンと同じシャンプーだぞ?」
「……それ言うなよ」

 次にサボん家に行ったときに、もっと言えばベッドに上がったときに思い出して萎えちまったらどうするんだよ。
 しかし、言われてみれば女物のシャンプーなんだよな。改めてそう思うと「ダダンと一緒」と言われてもなお少しときめいてしまった。

「……あのさ、エース」

 すっかりパンを食べ終わったらしいサボが、不意におれの腰に手を回して、肩口へ額を埋めてくる。
 件のシャンプーの香りがより鮮明に浮かび上がっておれを惑わせた。

「どうかしたか?」
「いや、なんか……今日はごめんな。迎えなんて頼んじまって。変な夢見たせいかな、お前にどうしても迎えに来てほしくなっちまったんだ」
「おれが夢に出てたってこと?」
「ああ。ほとんど覚えてないけど……すげェ楽しいのにずっと悲しいって夢だった」

 もしかしたら、とおれは思う。
 それは随分と前に、幼いおれが見た<夢>と同じなのだろうか、と。
 冒険と戦いの日々、互いに誓った絆、自由への憧れ、決して楽ではなかったけれど全力で時代を駆け抜けた、あの眩くも遠い<昔>のこと。
 けれど、ほとんど覚えていないのだとしたら、それはサボにとって思い出さない方が良いことかもしれない。あのとき、どんな気持ちで<サボ>が一人死んでいったのかと想像すれば尚のこと。

「……悪い夢なら忘れちまえば?」
「はは、悪かったのかどうかももう曖昧だよ。一瞬すぎて、これが走馬灯ってやつかと後で焦ったくらい」

 そう、それでいい。忘れちまったって良いんだ、その分おれが覚えているから。
 たとえ誰かにそんなの妄想だと鼻で笑われたって構いやしない。
 おれは、あの時の嬉しさも悔しさも絶対に忘れないって心に決めた。
 今度こそ、絶対に──。

「でも……寂しかったんだエース。だから、迎えに来てくれてありがとう」

 泣き出しそうに声を滲ませたサボの手に、おれはそっと自分の手を重ねる。冷え切った手は少し震えていた。
 大丈夫、とおれは静かに答える。
 いつの間にか貨物列車はすぐ近くまで近づいて来て、轟音と共におれたちの目の前を通り過ぎていく。

「──おれは『二度と』お前の手を離したりしねェから」

 貨物列車が通り過ぎて、警鐘音が鳴り止んだタイミングで踏切の棹がすうっと上がる。
 おれはゆっくりとペダルに足を乗せて、慎重にストライカーを漕ぎ出した。

「……エース、さっき何か言ったか?」

 背中にくっついたままのサボが不思議そうに問いかけてくる。やっぱり聞こえちゃいなかったか。聞こえないだろうと思ったからこそ、口に出せた覚悟だったけれど。

「ん? 『学校サボって海にでも行きてェ気分になった』って言ったんだよ!」

 本当のことなど言えるはずもないおれは、冗談めかして声を張り上げる。
 そうすると、体育の授業を楽しみにしていたはずなのに、サボは「唐揚げもあるしそれも良いなァ」とのんきに呟いた。


【完】



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