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▼ アンダー・ザ・ビーチパラソル


   ■

 胸の前で捧げ持つように運んでいる、三つの紙コップ入りドリンク。
 それを真上から見下ろしながら、サボは浜辺で一人、眉を寄せていた。
 海の家で無駄に『三十オンス』だなんて洒落た単位で売っていたこのドリンクが、実際のところ、どれくらいの量に相当するのかはサボにも分からない。だが、三つを一度に運ぶには規格外の大きさだというのは確かだ。ストローの刺さったプラスチック製の蓋が付いているため、零す心配はそれほど無いものの、正三角形状に配置したドリンクをきっちりと支えるには限界まで指を広げる必要がある。
 だから、合計九十オンス超えのドリンクをたった一人で持ち歩くというのは、指が長く柔軟なサボだから成立している一種の荒業ではあった。そうとなれば、平然と「メロンソーダ一つにコーラ二つだね、はいどうぞ」と渡して来た店員の方もどうかしているが、サボが眉を寄せている理由はそれではない。
 ──何かのマークに似てんな。なんだっけ。
 この三つのドリンクを見下ろしていると、何かに似ている気がしてならないのだ。
 あまり良い意味のマークじゃないな、等とぼんやり考えながらも、サボは熱せられた白砂を踏み歩いていく。
 底の薄いビーチサンダルは兄弟と色違いで買ったもので、今朝おろしたばかりのそれはまだ固く、足を早めると鼻緒が少し指の間に食い込んだ。

「っつーか、どこだっけな……? 早く戻らねェと、おれが最後になっちまうかも」

 焼きそばが食いたい、スイカ割りがしたい、喉も渇いた。
 有り余る欲望を一気に満たそうと兄弟三人で手分けして調達に走ったが、長蛇の列を避けたせいもあり、サボが一番遠くまで足を伸ばしてしまったように思う。
 決して方向音痴の類ではないのだが、冗談みたいな暑さの海水浴場には、それでも冗談みたいに人が集まっていて、弟が「ここがおれ達のナワバリだな!」と立てたビーチパラソルも容易には見つけられない。
 電話して連絡しようにも両手は塞がっているし、その両手すら結露した水で滑りそうになっている。このままでは荒業めいたドリンク運びも長くは続きそうにない。

「あの……お一人ですか?」
「は?」

 焦りだしたサボの進行方向を塞ぐように現れたのは、同年代くらいの見知らぬ女子二人組だった。当然、知らない相手だ。
 上目遣いで問いかけられたサボは「わざわざ三つもドリンク運んでんのに一人なわけねェだろ」と正論を返そうとしたが、それを口にするよりも先に、もう一人の女子が「えっ」と声を上げた。

「ジュース三つも持ってます? すごくない? もしかして友達と三人とかですか? それって男友達?」

 矢継ぎ早の質問は、真夏の浜辺特有のテンションのせいか。ヒートアップする女子たちは唇を噤むことも忘れたのか、更に怒涛のごとく話しかけてくる。もしかしてモデルさんですか、この辺りに住んでいるんですか、写真って撮っても大丈夫ですか、SNSやってますか、うんぬんかんぬん、エトセトラ。
 対するサボはロクに相槌すら打たずに黙りこんでしまっていたが、かといって目の前の女子に気圧されているというわけでもなかった。
 更に言うと、彼女たちに何か悪感情を抱いたというわけでもない。人の話をまともに聞かないことに定評のあるサボは、ひたすらに投げかけられる質問よりも、己の頭に浮かんだ疑問の方が頭に引っかかって仕方がなかったのだ。
 ──やっぱ、何かのマークに似ている気がすんだよな。
 三つの丸、伸ばした指。また、『いつもの既視感』かとも思った。兄弟で乾杯する度によぎる、『あの』……でも、違う。これは、別の何かだ。
 そして、それほど時を待たずに脳内シナプスが無事につながり、サボは「あっ」と小さく声を上げた。

「──『バイオハザードのマーク』か!」
「「は?」」

 あまりにも急すぎて、女性陣はサボが何と言ったのか聞き取れなかった。もっとも、仮に聞き取れたとしても意味不明であることには変わりないだろう。
 しかし、「あースッキリした」と呟くサボの甘くも爽やかな笑顔を真正面から浴びせかけられた女子は、意味など二の次で、ただ口をぽかんと開けたまま見惚れてしまう。
 結果として、赤面しつつも固まっている水着女子二人と、一人でニコニコしながら「似てる似てる」と嬉しそうなサボ──という異様な光景が広がってしまっていたが、ありがたいことに、それを打破するような快活な声が背後から響いてきた。

「エース、居たぞ! サボだ!」

 暑さや人波をものともせず、飛び跳ねるようにやってきたのは、弟のルフィだった。その後ろからは、ゆっくりとした足取りでエースも歩いてくる。
 何故か口元にソースを大量に付けた弟は「喉渇いた!」と落ち着かない素振りだが、近くまでやってきたエースの方はというと、どこか不穏なまでにじっとりとした空気をまとわせていた。

「……サァボ。ったくお前、電話出ろよな? 何かあったかと思うだろ。連絡つかねェから店の方まで行っちまったぜ」
「電話? ああ、サイレントにしてたかも。っつーかどっちにしろ出られるかよ、この状況で」

 サボはドリンクで完全に両手が塞がっている状況を指したつもりだったが、エースの方は異なる受け取り方をしたらしく、「『この状況』ねェ……」と固まっている水着女子をじろりと睨んだ。
 その視線の険しさにもかかわらず、やっとサボの魅了が解けた女子たちは、今度は「きゃあ」だか「ひゃあ」だかと声を上げてはしゃぎ始める。
 だが、エースは女子たちが続けて何か言い出す前に、サボの肩に腕を回すと、わざとらしく口の端を持ち上げ、にっこりと目を細めてみせた。

「……悪ィが、兄弟水入らずで遊んでんだ。手出し無用で頼む」

 優しい口調の割に、エースの笑顔には有無を言わせないような圧が含まれている。
 それを察したのか、サボの行く手を塞いでいた女子二人組も「はい! ありがとうございました!」と律儀に頭まで下げてから即座に退散した。

「なんか……変わった奴らだったな? でも悪いことしちまったかも」

 呟くサボに、エースは「ナンパか何かだろ。まともに取り合うなよ」と低い声で応える。弟はというと、一連の話よりもドリンクが気になるらしく、半透明の蓋の中身を一生懸命覗き込んでいた。

「なあ、サボ! おれのはどれだ?」
「ん? ああ、コーラとメロンソーダ、どっちがいい?」
「メロンソーダ!」
「じゃあ、緑のストローのやつだな。このまま取ってくれ。エースとおれは赤の……、って、そうだ。これ、バイオハザードのマークに似てねェか?」
「ばいおはざーど?」

 ルフィは首を傾げつつもサボの手からドリンクを抜き取る。本当に喉が渇いていたらしく、ストローをくわえると音をさせながら一気に吸い込んでいた。

「バイオのマーク? もっと傘みたいなやつじゃねェの」

 残ったドリンクの片方を渡してやると、エースは訝しげに片眉を上げてくる。

「それはゲームのやつだし、会社の方のマークな。そうじゃなくて実際のマークの方」
「実際のマークなんてあんのか? っつーか『バイオハザード』って言うなら、どっちにしろ飲み物に言うことじゃねェだろ」
「飲み物じゃなくて三つ持った時の形が……まあ、いいか。それより、そっちは買い出し終わったのか? それとも今から?」

 手ぶらのエースとルフィを見遣りつつ、サボもストローをくわえて少しコーラを口に含む。氷がめいっぱい入っているおかげか、そこまでぬるくはなっていない。冷たい炭酸が喉を滑り落ちる感覚に、サボは僅かに目を細める。

「ああ。パラソルに置いてきたから早く戻るぞ」
「もう置いて来たのか! じゃあ、やっぱおれが一番遅かったんだな、悪ィ」
「悪かねェが──どうやら手分けせずに一緒に回った方が良かったみてェだな」
「でも、分かれた方が効率は良いだろ。一応、空いているところまで足伸ばしたんだけど、それが逆効果だったか」
「そういう意味じゃ……まあ、いいわ」

 エースは疲れたように肩を竦めてから「急ごうぜ」と言って先に大股で歩き出す。
 背を追うようにサボも足を進めていると、後ろから追いついて来た弟がエースの背中とサボの顔を交互に見てから、珍しく声をひそめて言った。

「エースの奴、なんか機嫌悪ィんだ」
「……そうみてェだな」

 サボも静かに答える。パラソルを立てた頃はエースも愉しそうにしていたのに、今は纏う雰囲気に隠しきれない棘がある。

「おれが勝手に焼きそば十人前食ったからかも……」

 頬をかきながら反省してみせる弟に「お前、半分以上食っちまったのかよ!」と一応釘はさしつつも、それが理由じゃないだろうとはサボも思っていた。

   ■

「……ルフィの奴は?」

 パラソルの下に仰向けに寝転んだまま、エースは器用に片目だけを開けて問う。
 多少つっけんどんな物言いではあったが、たらふく食べて、めいっぱい遊んだおかげで、午前中は雲行きの怪しかったエースの機嫌もすっかり直っているようだったから、これは単に眠いだけに違いない。
 二人で行ったはずの兄弟が一人になって戻って来たから、眠気をおして心配しているのだろう。サボは何だかくすぐったい気分になって、安心させようと殊更に明るい声で答えた。

「ロー達を見かけたって走って行ったぞ。誰か女子も一緒だったみてェだけど、まあ、面白いから止めなくていいかと思って」
「女子ィ? マジかよ。またローに監督責任がどうとか言われて知らねェぞ?」
「おれも知ったことじゃねェし」

 無責任に笑ってから、サボもまたパラソルの下へと潜り込む。直射日光を避けるだけでもかなり涼しい。置いていたカバンの中から一冊の文庫本を取り出すと、黙ってエースの真横に腰を落ち着けた。
 歩いている時にはビーチサンダルすら貫通する勢いの熱い砂に「エースはよくこんな砂の上で寝転がっていられるな」と思ってすらいたが、実際に隣に座ってみると、長くパラソルをさしていたせいか、砂はそこまで酷い温度ではなかった。

「げっ、ビーチに来てまで本なんて読む奴が居るかよ」

 横目で窺ってくるエースは「マジで理解出来ねェ」と顔を歪めるが、サボは涼しい顔でそれを受け流す。

「どうしても読みてェってわけじゃねェよ。どうせお前のことだから昼寝するだろうと思って備えといたんだ」
「……おれの昼寝に付き合うために、わざわざ持って来たのか?」
「ああ」

 即答かよ、とエースは小さく掠れた声で呟く。もしかしたら独り言のつもりだったかもしれない。

「サボ、別にお前も遊んで来ていいんだぞ? あっ、でも知らねェ奴にはついていくなよ。話しかけられても無視しろ、無視」
「ガキじゃあるまいし。おれが居たくてここに居るんだから、ほっとけっての」

 弟のルフィにも言わないようなことまで念を押され、サボはムッと眉を寄せる。
 しかし、すぐに何だか可笑しくなってしまって、今度はそのまま眉を下げてしまう。
 どちらかというと、意味もなく機嫌が悪かったのに、食べて遊んでいる内にすっかり良くなって、それで今はもう眠くなってしまっているエースの方が、まるで子どもみたいだからだ。

「いいから、おれのことは気にせず昼寝してろよ。適当に起こしてやるから」

 手を伸ばして軽く頭を撫でてやる。ふざけて水を掛け合ったせいで濡れていたエースの髪も、いつの間にかすっかり乾いていた。きっとサボ自身の髪もそうだろう。

「…………そういうのが一番タチ悪ィからな?」
「何か言ったか?」
「何も」

 それ読み終わったら起こしてくれ、とエースは欠伸をして目を閉じる。
 エースが目を覚ますまでの暇潰しとして本を持って来ているのだから、それでは因果関係がまるで逆なのだが──わざわざ起こしてまで指摘することもないだろう。
 一時間ほどで起こしてやるか、と決めてサボは文庫本を開く。
 古本屋で買ったせいもあってか、真夏のビーチにはそぐわないような古色蒼然とした香りが鼻をくすぐる。心地よい潮風がパラソルの下を吹き抜けて、片手で持っていた本のページが勝手にめくられた。

 実は、海水浴場に来たからと言って、サボも含め兄弟全員、海で泳ぐことはない。

 他のスポーツはなんだって得意なのに、どうしてか三人とも重度のカナヅチなのだ。海沿いの街だというのに、この辺りにはそういう連中がやけに多い。
 ──それでも。
 サボは文庫本を持ったまま、パラソルの下から波間を眺める。
 泳げなくとも何故か懐かしい。潜れなくとも何処か愛しい。同じような気持ちの者が多いから、きっと、この海水浴場はいつもこんなに賑わっているのだろう。
 けれども今は、その賑わいすらどこか遠いようにも思えた。大きなパラソルが切り取った日陰は、まるでそこだけ別の時間が流れているみたいだ。たとえそれが、五分も大人しくしていられない弟が騒動を巻き起こすまでの、ほんの束の間の平穏だとしても。


 ビーチパラソルの下、昼寝をするエースの隣で、サボは静かに本を読み始める。
 こんな風に、いつか誰かが願ったかもしれない『奇跡』は、時空を超えて『日常』となっていく。誰も知らないまま、密かに、そして穏やかに。


              【完】


※ローが一緒に居た女子はローの妹なので安心(?)してください。これもまた誰かが願った奇跡。


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