▼ 北風と太陽
──雨が。
降っているのは、おれだって分かっていた。ほんのさっきまで雨粒を裂くようにストライカーを駆っていたところだし、港に着いてなお緩まぬ雨足に深く帽子を被り直してもいる。
だから、水分の多すぎる景色に滲む黒い影が、蝙蝠傘をさした恋人の姿だというのにも、当然、気付いている。
気付いては、いるんだが。
「……サボ?」
それにもかかわらず、わずかに首を傾げてしまう。本気で誰何(すいか)したわけじゃねェ。あまりにも意外だっただけだ。
確かに雨足は強い。しかし豪雨と呼ぶほどのものでもないし、この程度の雨模様、不快っちゃ不快だが、傘差すほどかと言われると疑問だ。少なくとも、おれにとっては──ってことは、サボだってそうだろ?
「エース! 無事に着いて何よりだ」
けれど、サボは傘を差したまま小走りで近付いて来て、あまつさえおれに差し掛けすらする。一本の傘に男二人は定員オーバーだ。おれを守るように斜めに掛けられた傘の柄をとっさにサボの手の上から握り込めば、そこからは何故か無言の攻防戦。拮抗した腕相撲みたく奥へ手前へと押し合った結果、重ねた手で持った傘の定位置はちょうど真ん中で落ち着いた。
傘の下で顔を突き合わせたまま、どちらともつかずフッと笑いがこぼれる。
「ったく、なんだよ今の流れは……っつーかサボ、傘なんて珍しいな?」
至近距離で片眉を上げてやれば、サボは「宿で貸し出してたから」と応える。さらりとした物言いだったが、おれは上げた眉をすぐさま下げる羽目となった。先に宿の手配まで終わっているとはな、思ったより遅刻しちまっていたらしい。
「あー……かなり飛ばしたつもりだったが、今ひとつ火力が足りなかったか。不甲斐ねェわ。待たせて悪かったな、サボ」
「おいおい、怒って迎えに来たとでも思ってんのか?」
おれが早く着いただけだぞ、とサボは可笑しそうに声を上げる。きっと、おれが叱られるのを待つ犬のようにでも見えたに違いない。でも、ここのところ三連続で待ち合わせに遅れているおれとしては、どうしたってバツが悪かった。
それなら良いけどよ、と少し顔を背けて頬を掻くおれに、サボは今度は呆れたように肩をすくめる。
「だから、別に遅れたってほどじゃねェって。それにこの雨模様だ、多少は仕方ねェさ」
「能力者っつったって別に雨は平気だぞ? サボだって知ってんだろ、いつも一緒にシャワー浴びてんだから」
「それは知ってるけど……、」
サボはそこで一度区切ると、空いた片手でおれの帽子に触れた。そのまま後ろに脱がされて、帽子の上に溜まっちまっていたらしい雨水が軽い音を立てて流れ落ちる。
湿り気を帯びて顔に張り付いていたおれの前髪を、サボの指が優しく掻き上げて頭へと撫でつけるから、急に開けた視界の先、おれの視線は真正面からサボの瞳とかち合った。
あいにくの空模様で灰色に沈んだ世界の中、そこだけ特別に色づいているかのような、世界に一対だけの宝石。何度見ても目を奪われ息を飲んでしまうのは、海賊の習性だろうか、惚れた弱みだろうか。
「……お前は『火』なんだから、降りかかる雨雫が不快なことには変わりねェだろってこと。だから港まで迎えに来たんだ」
そう言って愛しげにおれの頭を撫でてくるサボの言葉も表情も仕草もあまりにも純粋で、そこには一毫の嘘も一片の曇りも見当たらない。
──こういうことを素でやりやがるからタチが悪ィんだよな、サボは。
おれは心の中で両手を上げて降参する。往来で頭撫でんなよガキじゃねェんだから、なんてセリフすら飲み込んで好きにさせちまう。おれが正々堂々負かされる相手なんて今となっちゃこいつくらいだな。
「サボ、お前のそういうところ、」
「っと、そろそろ行こう。雨が強くなってきた」
それでも何かしら言ってやろうと口を開いたおれからあっさり手を離すと、サボは街へと向けて歩き出す。マイペースな奴だなと思いつつも、おれもそれに従った。
確かに、傘を打つ雨音は激しさを増している。並んで歩き出したおれ達の肩も均等に雨にさらされていた。
でも、やっぱり普段ならおれは傘なんて差さないだろう。たとえサボと二人であってもだ。悠長に傘なんて差しながら歩くより一気に走って抜けちまおうぜ、と提案するに決まっている。もしくは提案すらせずにサボの手を掴んで駆け出しているかもな。その方が有りそうだ。
それでも今は、このままで良い。このままが良い。
おれに降りかかるものならばほんの少しの不快でも退けてやりたいと、そのためにサボがわざわざ傘を持って迎えに来てくれたのだと思うと、まるで心臓にまで沁み入るように実感出来るからだ。
ああ、愛されているんだな、と。
たったこれだけのことで、おれが『そう』だと思えることが。
たったこれだけのことで、おれに『そう』だと思わせることが。
それがどれほど凄いことか多分サボは知らない。それにおれがどれほど救われているのかも。
有り得ないほどの奇跡を当たり前のように起こしながら、サボは平然とおれの隣を歩いている。
「……あんま普段傘使わねェけど、こういう時は良いな。外歩いててもエースと二人きりになれるし。ま、全然周りに人居ねェからってのもあるけど」
サボはサボで、また別の感慨に浸っていたらしい。照れくさそうに、それでいて声を弾ませるのが愛しくて仕方がない。サボの笑顔を見れば雨の不快感なんてとっくに消え失せて余りあった。
「まァな。でも、雨に濡れねェとなると服を脱がす大義名分がなくなっちまうぜ」
だから、応えて続けた言葉も単なる軽口に過ぎなかった──のだが。
「えっ」
サボは思いの外大きな声を上げて、驚いたように目を丸くする。おれもまたサボのその反応に驚いて少しばかり目をみはる。「えっ」ってなんだよ、そんなにダメだったか? ちょっと下心見せただけじゃねェか。こんなの今更だろ?!
「な、なんだよ。良いだろ、別に本当にすぐにヤろうってんじゃなくて、そういう期待っつーか、駆け引きっつーか、プレイっつーか、」
焦って言い訳するおれの身振り手振りのせいで、二人の頭上で傘が大きく揺れる。サボは傘の柄をぐっと握りしめてそれを制すると、グッと押し黙ってしまったおれを訝しげに見つめて呟いた。
「……お前、変なところで自信ないんだな? エース」
「は?」
自信ないって何の話だ? モノにもテクにも自信はあるんだが、と性懲りもなく不埒な考えを転がすおれの顔を覗き込みながら、サボはまるで『なぞなぞ』かのように問いかけてきた。
「まさか、北風が旅人のコートを脱がしているとでも思ってんのか?」
仕方がねェ奴、とサボは眉を下げて笑う。その瞳は曇天の下だというのにひどく眩しそうに細められていた。
【完】
※雨なんかがおれを脱がせられるわけないだろ太陽のお前だから自発的に脱いでるんだよもっと自惚れてくれ、っていうサボなりの下ネタです(?)