▼ Sorry for my Silence
身を削るような夜の深みにランタンを灯し、今日もまた亡霊がごとく廊下をひた歩く。
真夜中にそっと自室を抜け出し、本部の端に位置する書庫へと向かうのは、最近のサボの日課だった。
大勢が寝静まっている時刻とはいえ、中には交替で起きている者も居るから、ブーツの踵を鳴らさないように気を配る。しかし、幹部の内の幾人かはサボが夜毎何をしているかなど知っていることだろう。サボがほとんど真っ当に眠れていないことも。
そうやって見逃してもらっているのを良いことに、サボは日課を続けていた。勿論、革命軍の活動に支障をきたしてはいない。反吐が出るほど都合の良い夢に瞼を泣き腫らす朝を迎えるくらいなら、少しでも意味のあることにこの夜を使いたいだけだった。
辿り着いた書庫には鍵がかかっていたが、参謀総長であるサボに開けられないはずもない。手持ちの古びた鍵を差し込んで回すと、石造りの廊下にはざらついた軋み音が響いた。
等間隔に並んだ書棚の間を、ランタンを片手に、まるで墓守めいて注意深く進む。鼻につくほどの古紙の匂いにも眉一つ動かさず、書棚に並んだファイルの、滲むように照らされた背表紙の数字だけを目で追った。昨夜の続きとはいえ、すべてのファイルを通覧するわけではないため、必要な『日付』のものを探す必要があるからだ。
ほどなく目当てのファイルを見つけたサボは、分厚いそれを片手で抜き取ると、そのまま窓際の小さな机の上へと広げた。ちらりと覗いた窓の外はいつもどおり砂塵が舞っていて、月の光も届かない。やはりランタンの火だけが頼りだ。
立ったまま机に手をつき、ファイルの中身をめくる。珍しく素手のままの指先がたぐるのは、『三年前』の世界経済新聞だ。
事実が書かれているわけではないのは承知の上で、革命軍は手に入れられるすべての新聞をかき集めて内容を確認し、保管している。サボも革命軍に入ってからは毎朝のように目を通しているものだ。
だから、この三年前の新聞だって、サボは当時既に読んでいる。一言一句正確にとまではいかないが、どんな記事がいつ頃の新聞に載っていたのか記憶だってしていた。
新聞をめくるサボの指先に次第に力が入る。見覚えがある。予感がする。そう、この年の、この月、この日。確かにサボは目にしていたのだ。
【火拳のエース、またしても海賊団を撃破か】
サボは真上から垂直にその記事へと視線を落とす。当時は感心程度で済んでいたその短い文字列が、今は錘(おもり)のようにサボの目を釘付けにする。
続く記事は伝える。グランドラインで快進撃を続けるスペード海賊団のことを。船長のエースが島で小競り合いをおこした海賊団を焼き滅ぼしたということを。きっと完全なる事実ではない。けれど、すべてが嘘というわけでもないだろう。
サボはその島の名を見る。日付と共に記憶する。どうでもいいことばかり覚えていて、大事なことは一切覚えていられなかった己の脳に叩き込む。そうやって兄弟にまつわる過去の記事を探しては足跡を辿り覚えるのが、今のサボの夜の過ごし方だった。
どんな欠片でさえも、『あいつ』が生きてきた軌跡を、今度こそ忘れないように、と。
じっと記事を見つめていると、急に文字が滲み始めた。それが自分の眼球から零れた水滴のせいだとサボが気付いたのは、だいぶ新聞がふやけてしまってからだ。
くそ、と小さく悪態をついてサボは袖口で顔を拭う。泣ける権利があるなんて思うな。悲しめる道理があるなんて思うな。己の胸ぐらを掴んで殴り飛ばしたかったが、残念ながら一人きりではそれも出来ない。
『こんな記事』なんて今まで大小様々いくらだってあったのだ。三年前からエースの名声は紙面に躍り、ここ数ヶ月ではルフィの評判だってひどく世間を賑わせていた。
サボだって知っていた。名前を見た。不鮮明ながら写真だって目にした。それでも気付かなかった。思い出せなかった。その時、思い出してさえいれば、今頃はきっと。
喉を迫り上がる自責は呼吸すら止めるほどだ。どうして『そう』ならなかったのか。どうして『そう』出来なかったのか。答えが出ないままに繰り返す問い。握る拳が手の平に刻む悔恨。滲んだ視界の先で繰り返しなぞる文章。涙でふやけてしまうような薄っぺらい新聞の、無機質な文字の羅列は、まるでサボとは無関係な物語のようですらあった。
あまりの遠さに目眩すら覚える。あんなに近くに居たのに、今はもう手も届かない。それもすべて、すべてがサボのせいで──。
ふと、風もないのにランタンの火が揺れる。己の影が不規則に踊ったことに驚いて、そこでサボは我に返った。
そうだ、こんな風に悔やんで悲しんで泣いているばかりでは居られない。だからこそ、サボは今ここでこうやっているのだ。あまりにも遅きに失してしまったけれど、遠い日に交わした約束をサボは思い出せた。まだ出来ることがある、まだやるべきことがある。きっとエースならそう言って背中を叩いてくれたことだろう。
「それにしても……本当に三年前からだな」
ゆるやかに指先でなぞる『火拳のエース』の文字。この名前が新聞に載ったのは三年前が初めてで、それより前にはどれだけ探しても見当たらなかった。しかし、あれほどの男が、この海に出てずっと無名だったはずがない。つまり、海に出たのが『三年前』なのだ。十七歳で海に出ると言っていたサボの言葉を、その誓いを、エースはサボが居なくとも守ったのだろう。
「……お前にばかり約束守らせたままじゃ居られねェよな」
冷え切った夜の底で、サボの独白を聞くものは居ない。孤独を照らすランタンの火も、何も語らず、ただ静かに揺れるばかりだった──今は、まだ。
【完】
※『今はまだ少し物静かな』→『Sorry for my Silence』にタイトル変更しました