Novels📝



▼ 呪いよりも強引な


 文字通り浴びせかけられた冷水に驚いてサボは目を覚ました。
 正確に言えば、顔面に冷たさを感じる直前には意識が浮上していたようにも思うけれど、いずれにせよ急激に力が抜けていく身体では「何すんだよ!」と飛び起きることも出来ない。

「……ずいぶん乱暴な起こし方だな、ハック……今、何時だ?」

 ベッドの真横で、バケツ片手に心配げに顔を覗き込んでいるハックへと低く問うと、その背中から顔を出したコアラが問いとは異なる答えを寄越した。

「ごめんね、サボ君。私がハックに言ったんだ、海水かけたら消えるんじゃないかって」
「『消える』? 話が見えねェんだけど……」

 一体、何の話をしているのか。
 サボは芯を失ったような身体を何とか起こして、濡れそぼった前髪を後ろへ撫でつけた。しかし、すぐに思い直して片手で頭をくしゃくしゃと掻き乱す。
 必要以上に顔に落ちた重い前髪の合間、睫毛が湛えた水滴が更に狭めたその淡い視界で、ハックとコアラは困ったように互いに目を見合わせている。

「その、自分で予定したくせに会議に来ないから、コアラと一緒に起こしに来たんだが──、」

 そこで一度区切ると、二人分の視線と声は心配と不可解を存分に滲ませながら、同時にサボへと端的に事実を告げる。

「何故か、サボ、すごく燃えてたぞ」
「なんか、サボ君、すごく燃えてたよ」


   ■


 優秀で優しく頼もしく、悪魔の実の能力者に海水をぶっかけるという荒療治を瞬時に実行出来るほど思い切りの良い仲間達の『事後報告』によると、話は次のとおりだ。
 ハックが起こしに来た時、サボはベッドで大人しく眠っていたものの何故かその身体からは炎が出ており、不思議と部屋は燃えてはいないもののシーツは焦げているという状況だったらしい。
 そこで廊下で待っていたコアラを呼び、これは近づいて起こすことは不可能だと互いに判断したため、すぐさまコアラは海水を引いている蛇口まで走ってバケツに水を汲み、それを受け取ったハックが勢いよくその海水を眠るサボへと容赦なくぶちまけたという次第らしい。
 サボとしては幾つか「ちょっと待て」と言いたくなる部分もあったが─例えば顔に水をぶちまける必要はなかったのではないか等─、しかし、そのまま自分が燃え続けて、この本部の建物ごと焼いてしまっていたかもしれないと思うと仲間に言うべきことは「ありがとう助かった」の一言しかない。

「でも、急にどうしたんだろうね?」
「寝ぼけていたんじゃないか? 昨夜も遅かったんだろう?」
「さあ……思い当たることはねェけど。どっかで呪われているのかもな」
「心当たり沢山あるんだからやめてよね」

 軽口を叩き合い、とりあえず会議の三十分延期を決定して、この突如起こった参謀総長炎上事故は終わった──かに見えた。

 だが、その後も度々、サボの意思とは無関係に勝手に炎は上がり続けた。
 どうやら今日のサボは全くといって良いほど、メラメラの実の能力が制御出来ないらしい。

 しかも厄介なことに、当のサボは己の能力であるがゆえに炎の熱さを感じることが出来ないのだ。一人で簡単な携行食をかじりながら机に向かっていた時だって、集中していたこともあってか、妙な焦げ臭さを感じてからやっと延焼に気づくありさまだった。
 おかげで今日一日、サボはコアラに厳命されて海水入りのバケツを携帯することを義務付けられてしまったし、実際何度かボヤ騒ぎを起こして消火の憂き目にもあっている。
 参謀総長が廊下で急にバケツの水をぶっかけられる状況はコントか何かかと思うほどだが、うっかりで灰にした報告書の数々を思えば、そろそろ笑い事でもない。
 ただ、不幸中の幸いと言うべきか、誰かと一緒の時にはメラメラの火炎もそこまで暴走しない。だから仲間を傷つけることはないし、ハックはむしろその状況を利用して「今日はもう常に誰かと一緒に居るようにしたらどうだ」と提案してくれたほどだ。

 しかし、サボは今、ひとけのない本部の渡り廊下で一人うなだれていた。

 夕日が沈んだばかりの空は燻る灰と同じ気配を漂わせていて、足元に置いたバケツの水面にすら張り詰めた切なさを走らせている。
 少しばかり冷える心地を覚えつつも、心配して一緒に居ようとしてくれる仲間達を無理に撒いてまで、サボはどうしても一人になりたかった。
 つらすぎる予感が、頭にこびりついて離れないからだ。

 ──もしかしたら、拒絶されているのかもしれない。

 サボにとって、メラメラの実の能力はエースの形見だ。その火炎が制御出来ないのは、この実が、エースが、己を拒絶しているからなのではないか。
 そう連想してしまえば、仲間の前で笑顔を作る余裕すらない。
 メラメラの実を手に入れた当初こそ、己自身が炎になる独特の感覚に戸惑い、慣れないこともあったけれど、今となっては炎とは一心同体のように生きている自負があった。
 それなのに起きたら突然制御が効かなくなっているだなんて、まるでエースから「お前はおれの意思を継ぐのに相応しくない」と言われているよう。
 そんなことをエースが言うはずないという反論、勝手に赦された気になってただけだろと切って捨てる極論。どちらの言い分も理解は出来るが、どうしたって心情的には後者へと天秤が傾くのを止められない。
 うなだれていた首を持ち上げて、虚ろに見つめる手のひら。こんなことすら覚悟せずに、あの実をかじったわけではない──それでも。
 自嘲ともつかず一瞬逸らした瞳、次の瞬間、急にサボの手の中で何かが弾けた。

「……うわっ?!」

 声を上げる。目を見開く。背を反らす。何も理解が追いつかないまま、視線だけが手のひらから空へと向かう炎の軌跡を追いかける。
 昇る龍のように蛇行しながら暗い空へと駆けた炎は一番高いところで大きく弾けて、色とりどりの火花を空へと勢いよく拡散した。

「は、花火……?」

 こんなことが出来るなんて、サボは知らない。
 呆気に取られたサボが呆然と空に薄く残った煙を見つめていると、下の方からハックの声が聞こえてきた。

「サボ、そんなところに居たのか。すごい音がしたと思ったら……コアラも探していたぞ」

 花火の音に外まで飛び出したらしいハックは、そう言うが早いか、数分もしない内に渡り廊下まで上がって来た。
 だが、サボは未だに空と己の手を交互に見るばかりで、ハックが言い募る言葉にも生返事を返すばかりだ。

「……聞いてるのか? 能力の暴走が落ち着くまではあまり一人にならない方が良いと思うが」
「……ああ」

 聞いてないな、とハックは溜息を吐いたが、しかしこの場で押し問答してもどうにもならないと思い直したのだろう。とりあえず戻ろう、そろそろ夕食の時間だ、と有無を言わさずサボの足元のバケツを取り上げた。

「おっと」

 その拍子に、ハックの道着の合わせから薄い紙の束がまろび落ちる。どうやら新聞の幾つかのページを抜き取って、畳んで胸元に入れていたらしい。
 サボは何の気なしにその新聞を拾い上げて、そして、そこに刻まれた日付を見てぴたりと動きを止めた。
 じっと日付を見つめながら、少し上擦った声で短くハックへと問いかける。

「……これ、いつの新聞だ?」
「これは今朝の新聞だが──そうか、サボは今日は読んでないんだったな。魚人島に関する記事があったので抜き取っていたんだ。全部読みたいなら資料室に、」
「今日──『三月二十日』なのか」

 ハックの言葉を遮って、サボは念を押すように再度問う。
 つらすぎる予感が、まるでカードの上下をひっくり返したかのように別種の予感へと変わっていく。
 今日が『その日』だとしたら、急に制御の効かなくなった炎の動きは、そしてさっきの意図せぬ花火の意味は──。

「そうだが……どうかしたか?」
「誕生日だ」
「ん? 誰の誕生日なんだ?」
「おれの」
「なんだって?」

 ハックは珍しいほどに声を裏返すと、そんなまさか、と目を白黒させた。

「ちょっと待て、コアラは何度聞いても『サボは覚えてないとしか言わない』と──いつ思い出したんだ? いや今日、今日だと? まだ間に合うか? すまない、先に行く!」

 ハックは踵を返すとバケツを片手に全速力で走って行く。わざわざ取っておいたらしい新聞記事をサボから返してもらうことすら忘れているようだ。

「はは……そういやァ誕生日、言わないでおいたんだった」

 拾った新聞紙を畳んでポケットに大事にしまいながら、サボは思わず笑ってしまう。記憶を取り戻して少し経った頃からコアラに「本当の誕生日も思い出したの?」と訊かれていたが、その度に適当にはぐらかしていた。言えばコアラのことだから、他の仲間と同様にサボの誕生日も祝おうと言い出すと分かっていたためだ。
 それが善意と知りつつも自分の誕生日を祝う気になどなれなかった。誕生日の度に、歳を重ねる度に、同い年のはずのエースとの距離がどんどん遠ざかっていってしまうように思えて仕方がなかった。

「でも、そうか……『そういうこと』なんだよな? エース」

 サボは片手に火を灯す。かすかに揺れる火炎はいつもと同じだけれど、それでもどこか我が意を得たりと頷いているようにも見えた。
 思えば、メラメラの実を食べて初めて迎える誕生日だ。
 今日一日を振り返ると、そのそこかしこに、エースの声が響いている気すらしてくる。

【おい、誕生日の朝だぞ! さっさと起きろよサボ!】
【誕生日に一人で居るなってお前が言い出したんだぞ、サボ!】
【なんだそのメシ、誕生日なんだからもっと良いもん食え!】
【なんで宴しねェんだよ! 誕生日には宴だろ!? パーッとやろうぜ!?】
【ああもう、お前がしないなら、おれがする!】

 どれもこれもあの頃のエースの声で思い浮かぶのに、見つめる炎に重ねるのは肉眼で見ることのかなわなかった精悍な横顔だ。そのアンバランスすらも涙を誘って仕方がない。

 勿論、何もかもサボの妄想かもしれない。
 火炎の調整が効かないのも、出し方を知らない花火が打ち上がったのも、それが今日という日なのも、ただの偶然かもしれない。
 でも、確かにサボは、そこにエースの意思を感じたから。

「ったく、強引なところは変わんねェなァ……どうやってやるんだよ、さっきの花火。おれには見当もつかねェよ」

 乱雑に肩口で涙を拭ってから、サボは笑って炎へ問いかける。そうすると開いた手のひらからは、小さな、とても小さな花火が、まるで祝いの花束のように鮮やかに咲き誇った。

【完】





- ナノ -