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▼ 濡れたシーツのその上で


『……が……から……ねェ……るけど……から……明日……よ……サボ……!』

 電伝虫の向こうでエースが何事か一生懸命喋っているのは分かるが、肝心の中身が全然聞き取れやしない。
 しかしながら、言いたいことはサボの方でも大体想像がついた。大粒の雨が宿屋の窓をひっきりなしに叩いているし、空の果てを見遣っても黒々とした雲は変わらず続いているのだから、この島へ向かって来る途中であったエースも同じような悪天候に見舞われていることだろう。
 つまり、前から約束していた今日の逢瀬はあえなく延期、というわけだ。

「構わねェよ、エース! この嵐だ! 収まったらまた連絡し合おう!」

 こちらの声が聞こえているかも分からないので、なるべく大きな声でそう告げる。間もなく、エースの方の電伝虫が疲れてしまったためか、予告も挨拶もなく通話は途切れた。
「あいつ、無茶してなきゃいいが……」
 この天気では海だって大荒れ間違いなしだ。エースが私用で使っているストライカーは酷く小さく薄い船だから、こんな嵐の中で海に出ようものなら一瞬で転覆してしまうに違いない。そうなった場合、カナヅチとなってしまったエースはそのままデービー・ジョーンズのロッカー行きだから、無理せずどこかの島で過ごしてくれたならばそれが一番良い。
 そこで、はたとサボは思う。革命軍の任務を終えて宿に一人きりなのを良いことに、ついでに口にも出してしまう。

「エース……今、どこの島に居るんだろうな」

 エースの子電伝虫が届く距離じゃないから、どこかの島で電伝虫を借りて連絡してきたのは間違いない。聞こえづらさと空模様から言って、向こうも嵐の真っ只中と予想もつく。そうなると──。
 何の気なしに想像しただけだったが、次第にサボは真剣に考え始めてしまう。部屋を出て宿屋の主人に近隣の海図まで借り、机なんて上等なものはないから部屋のベッドに大きく広げて覗き込む。

「X日前に連絡した時は確か夏島だと言っていたから、海流からすると……ストライカーはある程度潮の流れを無視も出来るから想定しがたいな……でもこの辺りの岩礁は避けるだろう? そうなるとこっちの渦の影響で……風向きが……つまり……」

 顎に手を当てながら、サボはまるで革命軍内で作戦でも立てているかのように状況を把握していく。
 気候、潮流、島の特徴、それからエースの性格。
 それらを組み合わせて考えたサボは、やがて手袋を嵌めたままの指で海図の一点をさした。

「この島、か……」

 サボが滞在する島から一般的な装備の船で半日といったところだ。この広大なグランドラインのスケールで言うならば、かなり近いと言える。メラメラの能力を動力源とするストライカーならば、もっと早く着けるかもしれない。

「だから逆に連絡が遅れたのかもな」

 約束の時刻ギリギリになってから連絡してきたのは、少しでも雨足が弱まればそのまま強行突破しようと考えてのことだったのかもしれない。エースならば有り得ることだ。だが、結局、天気は回復するどころか今なお刻一刻と悪化の一途を辿っている。
 この島か、と今度は言葉にはせずにサボは海図を見下ろした。この島にエースが居る──それはまだサボの予測にすぎないのだけれど、そう認識した途端にまるで海図の中のその場所だけが光っているように見えた。
 サボはじっと、ベッドに広げた海図を見つめ続ける。俯瞰で見るとなおさら近く思えて来る。無論、実際の縮尺が分からないほどサボも無知じゃない。
 だが、冷静な頭の方はいざ知らず、心の方は既に『良くない算段』を始めてしまっている。そもそも平時ならばそう遠くもない距離なのだ。それこそ、借り物の小舟であっても辿り着けそうなくらいには。
 サボは振り返って、今一度窓の外を確認した。雨も酷いが、風も凄まじい。どこかで看板でも吹っ飛んだのか、何かが壊れて転がる音もしている。この宿の窓だってどれほど保つか分からないくらいだ。
 こんな嵐の中、海に出るなんて正気じゃない。
 

   □


 残念ながら歴史上、恋する男が正気であった試しは一度もなかった。
 というわけで、サボは危険性を誰よりも理解した上で、宿を出て、港の帆船を一隻拝借してきた。どうせこの嵐で海に出るものは居ないのだから構わないだろう。ちゃんと返す、と誰にともなく約束してからサボは嵐の海へと旅立った。
 正気でないにしろ、サボは無謀でも無策でもないので、しっかりと風向きや波の高さは考慮済みだ。サボの計算によれば、この突風めいた風を利用すれば通常の三倍の速度で進めるし、横転しないように上手く操舵すれば、件の島に到着出来る可能性は七割もある。
 もっとも『無傷あるいは軽傷で』という枕言葉を付けるとその可能性は二割ほどまで下がるし、そもそも無事に到着出来ない三割の場合については問答無用の即死コースだが、サボは特にそれを問題視していない。生存可能性が一割を大きく下回る戦地だってサボには珍しくないからだ。

 ──とはいえ、流石のサボも、この事態は想定外だった。

 無傷あるいは軽傷で目的地に辿り着く、という二割の可能性を勝ち取ったかに見えたサボだったが、あと少しで島に上陸出来るというところで、襲ってきた横波のせいで船のマストがぽっきりと折れてしまったのだ。
 勿論、サボもまた波の直撃を受けて船の外へと放り出されてしまう。浮上も呼吸も許さないとばかりに次から次へと襲いかかる荒波、そして一瞬で体力を奪うほどに冷たい海の水温。
 あたかも首元に死神の鎌を突きつけられたも同然だったが──そこで終わるようなサボではない。何とか泳いで浜辺にまで辿り着き、バケツ代わりになってしまった帽子から海水を抜きながら、波に飲み込まれていく小舟を痛ましげに眺めた。

「マズいな……ちゃんと返すつもりだったのに」

 あれでは回収も出来ない、とサボはがっくりと肩を落とす。そういう問題か、と当たり前のことを指摘してくれる者も今は周りに居なかった。
 そして、大雨に降られた上に着衣のまま泳いだせいで全身ずぶ濡れとなってしまった己の姿を見下ろし、サボは再びひとりごちる。

「これじゃあエースのこと、ビックリさせちまうかもな……」


   □


 結論から言うと、エースは確かに驚いていた。

「…………は? サボ?」

 海からやってきた亡霊の類と間違えられながら、嵐の中を探し回って四軒目。やっとエースの泊まる宿へと行き着いたサボを待っていたのは、ぽかんと口をあけた恋人の顔だった。

「──まさかな、夢の続きか? その割には服着てんな? びっしょびしょだけどよ。ってマジでびっしょびしょだな、なんでだ? 夢だからか?」

 驚きすぎると逆に現実を疑うものらしい。エースは何度も瞬きをしながら己の片頬をつまみ、「痛いっちゃ痛ェな」などと至極真面目に頷いている。

「どういう夢見てんだよ。大丈夫、本物だって。間違いなくお前のサボだよ。久しぶりだな」
「おう、そうか、おれのサボか、よう久しぶりだな……ってなるかバカ!」

 盛大なノリツッコミと共に、エースは急に自我を取り戻したかのようにサボに言い募ってくる。

「なんでここに居るんだよ! どうしてここが分かったんだよ! なんでびしょ濡れなんだよ!?」
「一度に全部言うなよ、って、わっ!」

 エースは素早くベッドからシーツを引きはがすと、それでサボを頭から包み込んで乱雑に拭き始めた。先程までエースが眠っていたせいか、真っ白なシーツはじんわりと温かい。

「なにやったらこんなに濡れんだよ、タオルなんざねェんだぞ、この部屋には!」
「だからってお前、シーツで拭いたら後で困らねェか?」

 サボは今後のことを考えて真面目に心配したのだが、エースは「知るかよ」と小さく答えてサボの濡れた衣服を脱がしにかかる。

「っと、大丈夫、自分で脱げる」
「それも知るか」

 ぐっしょりと濡れて張り付いた服は常よりも更に脱がしづらかっただろうに、エースは文句を言いながらもサボが素っ裸になるまで脱がし切ると、そのままシーツで赤子のようにくるんでベッドへと放り投げた。サボはまさに手も足も出ない。
 そこまでやってようやく気持ちが落ち着いたのか、エースはベッドに横向きに腰掛けて、ゆっくりと話し始めた。

「……マジで、なんでここに居るんだ? 外は嵐だっただろ? 空でも飛んできたのか?」
「いや、普通に海路で来た。上陸直前ってところで船のマストが折れてひっくり返っちまって、最後少しだけ泳ぐ羽目になったんだ」
「『普通に海路』ってお前、この天気だぞ?」

 はあ、と大きく息を吐いて、エースは軽く己の親指と中指を擦り合わせる。すぐさま部屋の壁際にあった暖炉に火が灯り、橙色の明かりがエースの影をくっきりと浮かび上がらせた。

「アレか? もしかして、おれの電伝虫通じてなかったか? そっちの声もよく聴こえなかったから、そうじゃないかとは思ってたんだが」
「ああ、おれもほとんど聴こえなかった。でも、要するに『今夜は行けねェ』ってことだったんだろ? この嵐なんだ、聞き取れなくても分かるさ」
「じゃあ、なんでお前はここに来てんだよ。嵐の規模だって分かってたんだろうが」

 エースは不可解そうに片眉を上げる。サボは数回まばたきをして、そして、なにを今更と微笑んだ。


「エースに会いたかったから来た。それだけだ」


「……そりゃあ、ありがたいがな。でも──」
「分かってるって」

 遮るようにサボは声を上げる。こんなシーツに包まれたままの状態ではどうにも格好がつかないが、それでもそのまま言葉を続けた。

「一晩待てば天気もマシになったかもしれねェし、そうなりゃエースだって、それこそ飛ぶ勢いで来てくれたって言うんだろ?」

 分かってんじゃねェか、と言いたげにエースは眉を寄せる。
 そうだ、確かに分かっている。きっとエースは嵐が少しでも弱まったら、危険も顧みずに約束の島まで飛ばして来てくれたことだろう。会いたい気持ちは同じだから。
 けれど──。

「でも、ふと、エースはどこの島に居るんだろう、今なにやってんだろうって考え始めたら……もう駄目だった。今すぐ会いたくて仕方がなくなっちまったんだよ。一晩だって待てなかった」

 だからサボはやってきた。本当にこの島で合っているかの確証もないまま、幾つもの危険も自分の立場も理解した上で、そのためだけに賭けて来た。
 そして、今、会いたくてたまらなかった男が目の前に居る。この賭けは、サボの勝ちだ。
 誇らしげに微笑むサボに、エースは「ったく、こいつは……」と片手で顔を覆った。呆れたのか惚れ直したのかは分からない。後者なら良いなとサボは思う。

「なんだよ。エースだって昔、同じようなこと言って同じようなことしたじゃねェか」

 確か、あれはまだルフィがコルボ山に来ていなかった頃──グレイ・ターミナルでなく『中間の森』を待ち合わせ場所に決める寸前のことだ。
 エースと仲違いしたまま、大雨のせいでずっと会えずに居た、あの時。三日目の一番の大嵐の中、エースは怪我もいとわずにゴミ山までやってきてくれた。サボに会いたかったという、ただそれだけで。

「距離が全然違ェし、場所も違うだろうが。ここ、グランドラインだからな?」
「大して違わねェさ」

 エースはなおも呆れ声を上げているが、サボからしてみれば何も違わない。むしろ、幼いエースがあの嵐の中、険しい山道を越えて来てくれたことは、きっと今日サボがやったことよりもずっとずっと難しかったはずだ。
 押し問答にも飽きたのか、エースは「ったくしょうがねェなァ」とおどけたように言ってから、狭いベッドに乗り上げてくる。サボをまたぐようにして膝立ちになると、巻いていたシーツをほどき、裸のサボの首筋に顔を埋めてきた。

「……身体冷たすぎるだろ、サボ」
「温めてもらうこと前提で来たからな」

 エースの唇からは熱すぎるほどの熱が伝わってきて、まるでサボは自分が魚にでもなったような気分だった。触れ合う肌と肌の温度差は火傷しそうなほどだったが、エースにだったらそうされても構わないと思ってしまう。

「言っとくが、サボ。おれはお前に会えてそりゃあすっげェ嬉しいけどよ……同じくらい怒ってるからな?」

 一度身体を起こしたエースは、黒い瞳の奥で沸々と炎を燃やしながら、腕につけていたログポースやブレスレットを外し始める。

「──優しく温めてもらえるなんて思うなよ」

 望むところだと笑う前に、再び降りてきた唇が今度はサボのそれと重なった。熱を帯びた舌に口内を溶かされれば、口づけは勝利の美酒もかくやというほどに甘い。
 互いの気持ちも欲深ささえも知り尽くした二人だから、後はもう、濡れたシーツの上で足を絡ませ合うばかりだった。


【完】




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