公安局刑事課一係のオフィスは、なにやら甘いにおいに包まれていた。当直である征陸は、不思議に思いながらドアを開ける。部屋にいたのは、縢と名前の2人だった。
「なんだぁ?この甘ったるいにおいは」
「おっ、とっつぁん!こっちこっち」
「おう、2人とも今日は早いな」
「ギノ先生が来る前に食べちゃおうと思って!これ!」
そう言って、名前が嬉しそうに指し示したのは、茶色のケーキのようなものだった。
「これは?」
「「ファンダンショコラっっ!!」」
同時に言い放った2人は、いたずらをしている子どものような表情である。征陸は苦笑した。
「ふふ〜ん、わたしが秀星に頼んで作ってもらったんだ!」
「なんでお前が威張るんたよ、名前」
「すげえ出来だな。しかし、監視官もそろそろ局長のところから戻ってくるぞ。さっさと腹に収めちまいな」
「とっつぁんも食べるだろ?」
「あぁ、頂くよ」
縢が征陸の返答を聞き、フォンダンショコラを手際よく切り分ける。中からとろりとチョコレートが溢れ出るのを見て、わあ、2人が歓声をあげる。名前が、自分のは自分で切りたい!と縢からケーキ用のナイフを奪い取った。
「ふんふんふ〜ん」
「名前、自分のやつだけ大きく切ってんじゃん!」
「あ、ばれた?」
「ばれた?じゃねーっつの!」
騒ぎ出した2人をよそに、征陸は縢から受け取ったフォークでフォンダンショコラを小さく切り分け、口に運んだ。しっとりしたケーキの部分と、とろけるようなチョコレートのほろ苦さが口いっぱいに広がる。
「…うまいじゃねぇか」
「おっまじで!?ほら、名前も早く食べてみて」
「うん、いただきます!」
ぱく。大きめに切ったフォンダンショコラを口に運んだ名前は、次の瞬間顔を緩ませた。
「ふあ〜しあわせ〜…」
「ははっ、やっぱオレって天才〜?」
縢が嬉しそうに笑う。
穏やかな朝だった。
事件を知らせる警報が鳴るまでは。
***
「立てこもり犯の身元、人数はまだ確認できていない。要求は現金一千万と逃走用の車。大財閥、小鳥遊グループのCEOの一人娘、小鳥遊友理を人質に立てこもっている。場所は○○区にある廃工場だ」
「は〜、また遠いなぁ」
「まあ、さっさと片付けて帰りましょうや…」
護送車の中で案の定気落ちしている2人に、征陸はまた苦笑する。
「人質の保護を優先しろ、油断するなよ」
「りょーかい…」
「もう瞬殺。すごい瞬殺だから。わたしの回し蹴り炸裂するから」
「あんなモンに調子狂わされてるようじゃ、お前さんらもまだまだだなぁ」
「あんなもん?」
意気消沈している縢と燃え出した名前を征陸がたしなめると、その言葉に縢のデバイスごしの宜野座が反応する。あ、やばい、縢と名前が思い切り顔に出したのを見て、征陸は噴き出しそうになった。
「いやなんでもないっすよ、ね、名前」
「うんうん。あっ!ギノ先生、この前の資料集めてギノ先生のタブレットに送っといたから、確認しといて!」
「ほう…苗字にしては仕事が早いな。助かった」
通信が切れ、縢が安心したように腕をおろした。名前もほうっと息を吐く。その様子を征陸が声をあげて笑った。
護送車が着いたのは少し街を外れたところにある、廃墟となり蔦のような植物に覆われた巨大な建物だった。ドローンが数十体、周辺を封鎖している。
建物の塀のすぐそばに停車した護送車のドアが開く。宜野座が待ち構えたように立っていた。
「さーて、どうする?」
縢がそう言いつつ、両手を頭の後ろで組みながら護送車を降りる。征陸も後に続いた。
名前もコートを羽織りながらスロープを降りる。質のよいダークグリーンのチェスターコートは、今はもう一係にいない人物に選んでもらったものだった。
「なるべく犯人たちを刺激しないように動く。人質がいるからな」
「でも結局突入しかないですよねえ?説得でもしてみます?」
「ま、要求ははっきりしてるし、応じない可能性が高いけどなぁ」
宜野座、縢、征陸と意見を言っていく中、名前は退屈そうに靴を見つめていた。ふと、思い出したように手首のデバイスをタッチする。
浮かび上がるホロは、工場のマップデータだった。
つまらなそうにホロをスライドさせる名前に、すぐに征陸だけが気付いた。
男たちの話し合いは続いている。
「工場の監視システムは使えないのか?」
「いや〜ギノさん、電気もう通ってないんじゃないっすか、ココ」
「…俺は二手に分かれるのがいいと思うね。説得しつつ時間稼ぎと、突入班。名前、犯人たちの場所の目星はつきそうか?」
征陸に呼びかけられ、弾かれたように名前が顔をあげた。
宜野座からの視線を感じたのか、言いにくそうに口を開く。
「…けっこうカンだけど、目星はついてるよ。智己さんも見た?」
「まあ、工場だからそもそも隠れる場所も限られてるからな。ここは作業員の居住フロアもないしな」
「…また根拠のない憶測で行動するのか?」
「でもそれしかないよ、ギノ先生」
「おっ、名前珍しくやる気だねぇ」
「わたしを待っているフォンダ…いや、なんでもない」
「フォン?なんだ」
感心したような縢に、名前が得意そうに返そうとして途中で口を噤んだ。それにあざとく突っ込むのはもちろん宜野座である。
征陸はそれを見て、小さく息を吐いた。
「伸元、名前の言ってることも一理あるぞ。なんせこの人数だ、他に方法がないからな」
「…少しでも危険だと判断したら、すぐに作戦を変える」
「それでじゅーぶんだよ、ギノ先生」
「…よし、引き付け役は俺と征陸、突入は縢と苗字だ。いいか、人質の保護を最優先しろ。様子を伺い可能なら俺たちも向かう」
「了解〜」
縢が軽快な口調で宜野座に返事を返し、ドミネーターを抜き取る。名前もそれに倣おうとして、ふと宜野座の方を振り返った。
「ギノ先生、」
「…なんだ?」
「わたしのコート、預かっててほしいんだけど…汚れたらいやだから、」
「…わかった」
「さっすが、ギノ先生ってばやさしい」
「っ!さっさと行け!」
「はいはい、わかってるって」
名前は急いでコートを脱ぐと宜野座に手渡し、ドミネーターを手にとった。
「名前、どこ?」
「1階の裏口から入るのがよさそう。右から回り込む!」
「よし、さっさと片付けてフォンダンショコラ食べよーぜ!」
「わかってるって!」
2人は塀伝いに建物の裏へと走りながら、顔を見合わせ笑った。
140811