執行官の宿舎フロアの一室。がらんとした自らの部屋に、名前はいた。
ソファも白、テーブルも白、異常性を感じるほどに白一色のその部屋に
帰ってくるのは、かなり久しぶりのことである。
名前は部屋に入るなり、病衣をソファに脱ぎ捨てベッドに横になった。
今日は、やっと仕事に復帰する日だ。
「はぁ…」
しばらく動かしていなかった身体は、なんとも重い。これでも名前は、唐之杜をうまく言いくるめて予定より早くに復帰していた。あきれた顔をした分析官には、無理をすると傷口が開くとも言われているが。
「っ、」
体勢のせいで引き攣った皮膚に、名前はすこし顔をゆがめる。
ちらりと時計を見れば、数字以外すべて白いそれは9時を示していた。
10時には狡噛が部屋まで迎えに来る。そう唐之杜が言っていたのを思い出し、名前はのそのそとベッドから起き上がった。
下着も取り払いひんやりとしたバスルームに入ると、いやでも目につくのは背中の傷痕。人前でそれを見せることなどないのだろうが、醜いそれからは自分でも目を逸らしたくなる。
「汚い、なぁ…」
タオルで髪を拭いながら#name1が部屋に戻ると、脱ぎ散らかした病衣がそのままのソファに見慣れた男が座っていた。
狡噛は煙を吐くと、裸のまま驚いて固まった名前に声をかける。
「悪い、早く来すぎた」
「...まだ9時半なんだけど」
「ギノにも急かされてな。朝から一日中そわそわしてるぞ、あいつ」
「...何言われるかなぁ。うまーく言いくるめて、美味しいもの奢ってもらいたい」
「どうだかな。早く服着ろ、風邪引くぞ」
「はいはぁい。あ、コウ、髪の毛乾かして」
「ったく、わかったよ」
ため息をついた狡噛が投げてよこしたタオルで身体を拭き、名前は急ぐことなく下着を身に付け始める。
狡噛はたばこを携帯灰皿に押し込むと、洗面所からドライヤーを持ってきた。コンセントを差し、ソファにどかっと腰を下ろす。
下着、キャミソール、ワイシャツまで着終わった名前が視線を向けると、狡噛はにやりと笑って自分の足の間をぽんぽん、と叩いた。
「何してんだ、こいよ」
「...わたし、もう子供じゃないもん」
「昔はよくしてやったろ、ほら」
名前は狡噛の太ももをペちんと叩いたが、しぶしぶと言ったように彼の叩いているところに座った。狡噛は満足そうな顔でドライヤーのスイッチを入れる。
「眠くなるんだよね…コウに乾かしてもらうと」
「...懐かしいな」
時間の進みが、急に遅くなったようだった。
二人は、 同じ人物を思い出していた。
「寝ちまったお前をアイツが運ぶってのが、いつものパターンだったっけか」
「そう。わたしが完全に眠るまで...ずっとそばにいてくれたの」
「あいつ、お前にべったりだったもんなぁ」
名前が一係に配属になってから。ロクな環境で育っていなかった名前にいろいろなことを教え世話を焼いたのが、同じ女性であった六合塚。そして佐々山だった。
名前は、佐々山に妹がいたと聞いたことがあった。それも、不憫な死を遂げた妹が。
境遇も、少しだけ似ていた。もしかしたら自分を妹に重ねていたのかもしれない、名前はそう思っていた。
「わたし、今度こそ光留くんのところにね、行けるって思った 」
「…ああ」
「でも、秀星がうるさく引き止めるからやめといた。それに、コウも悲しむでしょ?」
「そうだな、それにお前はあんなんで死ぬほどヤワじゃないだろ?」
「どう言う意味、それ」
「そのまんまだよ。お前は強くなった、あの時よりずっと」
あの時。佐々山が死んだとき、名前は何もできなかった。
名前は俯き、小さく呟く。
「...あの時は、弱かった。無力だった」
「そうだな、俺もだ。でもお前は強くなった。ギノを守ったろ?」
「...」
「お前はすごいよ。俺は...ちっとも進歩なんかしてやいない」
「...わたしにも、手伝わせてよ。”マキシマ”のこと」
「これは、俺のけじめなんだ。わかってくれるだろ?」
「...ひとつ、お願いがあるの」
「ん?」
「死なないで、」
名前は、半乾きの髪を少し乱暴にかき混ぜる狡噛を振り返る。
狡噛は、苦しそうに、でも笑っていた。
「わかってるよ」
「...光留くんの亡霊に取り憑かれて、コウまでだめにならないで」
「...俺がやってることは、所詮自己満足だ。佐々山のためにじゃない、自分のためにやってる。ある意味、もう取り憑かれてるのかもな」
その亡霊とやらに。
そう言った狡噛は、やっぱり笑っていた。
「さ、乾かし終わったぞ」
「...コウ」
「そういえば、今日縢がお前の復帰祝いに、丸一日かけていろいろ料理するってよ」
「コウ!」
「...なんだよ」
立ち上がってドライヤーのコードを折りたたんでいる狡噛は、名前を振り返らない。
名前は、その背中に勢い良く飛びついた。
「うおっ、」
「行かないで、どこにも。わたしの前から、いなくならないで」
「...ああ」
2人とも、なんとなくわかっていた。
この約束が、所詮意味のないものだということを。
「...コウ、だいすき」
「知ってるさ、んなこと」
「...調子乗るな、バーカバーカ」
「小学生かお前は。ほら、早く行くぞ。ズボンはけっての」
***
「苗字名前、本日から復帰します。今までどうもごめんなさい」
一係のオフィス。宜野座のデスクの側で、名前はぺこりと頭を下げた。続いて当直である狡噛、六合塚のほうにも同じように頭を下げる。狡噛は軽く手を挙げ、六合塚はお大事にね、と声をかけ返した。
「名前、その...」
「...?」
不意に背後から聞こえてきた声に名前が向き直ると、宜野座が目を伏せて眉間を押さえていた。
「...すまなかった。それから、コートを用意しておいた」
「えっ、まさか...」
「ああ、同じのだ」
深いグリーンの、チェスターコート。つい最近まで着ていたのも、初めに佐々山からもらったものではなかった。こういう職場だ、事件がある度に汚れ、破れてしまうそれを名前は何回か買い直していた。
まさか宜野座がコートのことに気付き、新しいのを用意してくれているとは。名前は思わず宜野座に飛びついた。
「ギノ先生、ありがと!!」
「おっ、おい!」
焦る宜野座に、狡噛が声をあげて笑う。宜野座はやっとの思いで名前を引きはがすと、その頭をぺしんと叩いた。
「あいたっ」
「躾のなっていない犬か、お前は」
「えへへ、ギノ先生〜」
「うるさい、早く報告書を書け」
「えっ、報告書?」
「そうだ、タリスマンの一件のな。至急提出しろ」
「ええ、病み上がりなのに...」
がっくりその場にくずおれた名前に、また狡噛が笑った。
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