「海を見るのが好きなのか」 江ノ島の砂浜でひとり座り込んでいると、声をかけられた。 声の主を、名前は知っている。 ゆっくりと振り向いた。 「福富、主将」 名前がつけた砂上の足跡をたどるように、彼はこちらに向かって歩いてくる。 「二人の時は――」 強い海風に、目を細める。 「寿一でいい」 ――昔のように。 すぐ側まで来た寿一に、無表情で見下ろされた。 ため息をついて、立ち上がる。 寿一を見上げたまま喋るのは首が痛い。 「自転車で来たの?」 「ああ」 「オフは休まないと……」 「大丈夫だ」 沈黙が落ちて、会話はそこで終わった。 だけどそれでよかった。 二人の間に、言葉はほんの少しでよかった。 中学生の頃から知っている。 寿一から目をそらして、海を見つめた。 オフシーズンの江ノ島は、うら寂しい。 雲が垂れ込めた灰色の空。茫洋とうねる鈍色の海を見ていると、世界の終わりってこんな感じなのかな、と思ってしまう。 先ほどの寿一からの問いを思い出す。 海が好きとか、そういう次元じゃない。 ただ、海を見ていないと、やりきれなくてたまらない気分だった。 海は寂しさを抱きとめる。 心をぜんぶ目の前の海に溶かすようにして睨みつけることで、やっと呼吸ができるような気がした。 海風が凍てつく冷たさをはらんで吹きつけ、思わず、ぶるり、と身体をふるわせる。 すると、寿一に背後から無言で抱きしめられた。 「あったかい」 恥ずかしくなって、うつむいた。 「マネージャー、辛いか?」 寿一の問いに、すぐに首を横に振ったけれど。 気がつくと、胸のあたりがつんとして、目から涙がこぼれていた。 せき止めていた感情が、あふれ出ていく。 秦野第一中の時から、寿一と名前は選手とマネージャーとして自転車競技部で走り続けていた。 箱根学園に来ても絆は途絶えず、全国制覇を目指して頑張ってきた。 しかし、寿一はもちろんIHのメンバーからも信頼される名前を、やっかむ者も少なくなかった。 名前の志は陰口や嫌がらせで簡単に折れたりはしない。 中学生の時から培ってきた自転車の知識が、部活のメンバーに役立っているのは事実だったからだ。 ただ、心が疲弊した。 悪意というものは、気づかないうちに精神を蝕んでいく。 人間が怖くなる。 大切な仲間であるIHのメンバーでさえ、信じられなくなりそうになる。 だから名前は休みの日になると、電車で一時間かけて箱根から江ノ島へ向かった。 よせてはかえす波のうねりを見て、遠く水平線のかなたを見て、心を洗った。 「先週もこうやって、名前は海を見ていたな」 その言葉に驚いて、名前は振り返って寿一を見た。 寿一は先週もここに来て、遠くから名前を見守っていたのだ。 海を見て安心しきっていたのは、海が名前を見守ってくれているような気がしたから。 でも、それは本当は、寿一に見守られていたからかもしれない。 向き合って、あらためて。 寿一は名前を両腕にかき抱いた。 背中が痛いくらい抱きしめられる。 砂浜の上の二人を、みんなが見ている。 不器用な寿一。ほんとうに――。 「オレは海を見ているお前が好きだ。だけど、お前がどこか遠くへ行ってしまいそうで怖い」 いつもの寿一からは想像できないほど、かすんだ声をしていた。 「どこにも行かないでくれ」 目を閉じて、そっと、寿一の背中に手を回す。 そのまま、子どもをあやすように、小さく左右に身体を揺らした。 ――大丈夫。 いま、わかったから。 海を見るよりも。 自転車に乗ってどこまでも駆けていく寿一を見ているほうが。 ずっと、ずっと好きだった。 140306 ← |