導線 /




国語教師
と、
女生徒
で、椿丹
(と、美術教師藤崎)
シリーズ的なもの






白玉か何ぞと人の問ひしとき
露と答へて消えなましものを


椿がそう諳じた時、丹生美森は唇に指を添えながら顔を上げた。それは単純な偶然だったのだろうと思いつつも、椿は静かに高まった鼓動を抑えることができず、一瞬奪われた聴覚の在処を探すでもなくただ教科書をぽろ、と掌中から落とした。教壇の上に落下した小型の本は意外にも大きな音を立て、室内で眠そうにしていた生徒たちも一斉に前を見据える。
あ、すまない……。独り言のように躊躇いがちな、小さな声は教室に響くこともなく、しかし真ん中辺りに座る丹生の耳にしっかり届いた。曖昧に濁した謝罪の言葉の深意をはかるように一、二度、長く艶やかな睫毛を瞬かせた彼女は、シャープペンシルを握る手の力を僅かに緩め、ほぅと息を吐き出した。
椿は数秒間そんな丹生を見つめ、やがて気を取り直したように教科書を持ち上げた。和歌の解説をするりとした口調で進める自分に、器用なんだか不器用なんだかわからないな、と評価を下して内心で苦笑を漏らす。うとうとと船を漕ぐ生徒を指名しながら、彼はチョークを左手の中で握り締めた。


「抱き締めた!? 誰が、誰を!?」
勢いよく椿がそう訊ねると、コンビニ弁当を広げていた藤崎は顔をしかめた。長い指でとん、と弁当の蓋を弾き、意味もなく不規則なリズムを刻む。藤崎のそんな行動に苛立ちを増した椿はぐしゃりと髪を掻いてから、それでも感情をねじ伏せた声で、誰が、誰を、と重ねて問うた。
うん、だからさ。藤崎は弁当の中のハンバーグを揺れる瞳に映しながら、ひくりと口端に笑みを浮かべた。正確に記すれば、不器用な、笑みらしきもの、であったけれど椿の認識としてはそれは、表情とも言えない何か、だった。
「あくまで例え話で、男の教師が女子生徒を、な、」
「それは駄目だろう!」
「……ああ、はい、うん、デスヨネー」
間髪を入れない弟の返答に藤崎は項垂れ、重い溜め息を一つ、彼の城に溢した。
油絵の具のにおいが染み着いた美術準備室は穏やかな時が凝縮されたような空間だった。石膏の像が白い布の隙間からこちらの様子を窺ってくるのがたまに気になるが、基本的に藤崎しか使用しない場所のためか人のにおいがほとんどしない。それなのに柔らかいあたたかさが膚を包んで、すっと心を落ち着かせる。
椿は丸椅子の上で弁当をつつきながら、兄の横顔に目を向けた。
「……例え話でも、君がそんな話をするのは珍しいな」
「あん?」
「あれだ、『俺は生徒には手を出さねーよ』」
「ちょっと待て、それは俺の真似か? 似てねー! 超、似てねー!」
「うっ、うるさい!」
怒ったのか笑ったのか、暫く表情を動かしていた藤崎はやがて、あー、うん、そうだな……、と椅子の背凭れに身体を伸しかけた。天井を見つめるその猫目にふと、自分が重なって、椿は思わず目を背けた。
――重なる? なぜ? なにが?
呼吸の隅で、疑問が吐き出される。呟きですらない吐息のような言葉は自身にさえ届くことなく、窒素と酸素と二酸化炭素と、その他諸々の中に溶けて消えた。

「「どうしたらいいと思う?」」

無意識の内に発した二人の声が重なる。一瞬では、二つの声とは判らないほど、ぴたりと揃った。数秒後、あるいは十数秒後にお互いの顔を見つめ、ぽかんと口を開けた。鏡だと、思った。
しかしそれは鏡でも合同でも相似ですらなく、別個の、異質な、違う個体だった。そのことに改めて椿が気付いたのは、ふっと細められた兄の瞳の中に居る人物が、「彼女」ではないと本能で知れたからだ。明確に誰とは、わからなかったけれども。
椿先生、と、「彼女」の、丹生の声が鼓膜よりもずっと深いところでこだまする。「懺悔と後悔は、似ていますね」――うん、そうだな。
「父ちゃんも、こんな気持ちだったのかなー……」
藤崎がぽつりと呟く。血縁上の父は、教師だったと聞く。そして母は――。
椿は、瞳を覆った涙の気配をどうにか堪え、弁当の残りに箸をつけた。冷たくて、味がしなかった。


「椿先生、」
呼ばれて振り返ればそこには、おっとりと微笑む丹生がいた。ああ、と喉に引っ掛かったような声で返答し、椿は目線を足元に落とした。
ふと、水滴が窓を打つ。ゆっくりと顔を上げて外を見れば、細く弱々しい雨が降っていた。
あら、と椿の隣に立った彼女が声を上げて窓硝子に触れる。艶やかな黒髪と後ろ姿を見つめているとどうしようもない衝動が湧いてきて、彼はぎゅうと拳を握った。――抱き締めたら、駄目だろう、さっき、藤崎に僕が言ったばかりだ。
「……これは真珠でしょうか、何でしょうか?」
背中を向けたまま丹生が訊ねる。伊勢物語の芥川。
それは、と答えようとした椿の声が震えた。耳の奥が重たく鳴って全身が冷えていく、けれど胸の辺りは妙にあつくて、隈無く送り流されているはずの血液がどこかで滞って迷子になっているようだった。瞬きしたら彼女の姿が消えてしまう気がして、呼吸すら気管の中にとどめてしまう。
浮いた、それは、の言葉を不思議に思ったのか、彼女が振り向いた。椿先生?
真っ黒な瞳の向こう側に、椿は願う。彼女も自分も消えることなく、この恋が実ればいいのに。




導線上のアリア
(真珠でも露でもなく、それは恋ですと答えたかった。)





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うあああん何これ_(:3 」∠)_











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