静動 /




美術教師

女生徒
で、藤鬼





鬼塚、と廊下で名前を呼ばれて振り返ると、国語教師の椿がこちらを睨むように見据えていた。機嫌が悪いのかと思ったが、どうもコンタクトレンズの調子が悪いだけらしい。チョークの粉が付着していない方の手で、目を擦っている。
何? と訊きながら一歩近付くと、椿は目元から手を離した。
「君、読書感想文の宿題をまだ提出していないだろう」
「えー、それ、夏休みの宿題やん。今何月やと思ってますの?」
「それは僕の台詞だ!!」
やれやれと椿は息を吐き、次の現代文の授業までに出すよう告げた。出さなければまた居残りだぞ、と脅迫めいた言葉を置いて、渋い顔をするわたしの横を通り過ぎていく。そのまま国語科研究室(と言う名の職員室)に行くものだと思っていたが、彼は急に振り向いて口を開いた。
「……もう、大丈夫か?」
遠慮がちに発された言葉にわたしは首を傾げる。何のこと? とそらとぼけて不器用に笑うと、椿も曖昧に微苦笑を漏らして、今度こそ国研へと向かっていった。
そんな椿の後ろ姿を見て、似とるなぁとふと思う。歩き方も喋り方も服装のセンスも全然違うのに、椿とアイツはどこか似ていると感じる時があった。どこ、とははっきり言えないのだけれど。
「はぁ、」
頭の片隅を過った緩い笑顔を掻き消すように、わたしは図書室へと足を向けた。


放課後の図書室は割に人気がない。見回してみたけれど自分以外の生徒の姿はなく、司書の先生も司書室いるようだった。
埃とインクのにおいで満ちた空気に溜め息を一つ溢し、迫りくるような威圧感を持った背の高い本棚を見上げる。そこから適当な本を二、三冊抜き出して、わたしは近くの席に腰を下ろした。
傾きかけた日が、窓から蜂蜜のように柔らかく甘い光を注ぐ。どこからか這入り込んだ風が重たいカーテンの裾を揺らし、衣擦れのような音が微かに耳に届いた。
時、止まってしもたみたいや――頬に落ちた髪を耳に掛け、静謐な空間に視線を巡らす。孤独な空間に身を浸していると、心の柔い部分がひたひたと冷たい何かに侵されていくような感覚に陥った。急に、自分が弱くて脆い存在のような気がしてくる(或いはそれは気のせいではないのかもしれないけれど)。そんな時わたしが思い出すのは決まって、彼、だった。
あかん、これ、アタシ、泣くんちゃう?
ぎゅ、と奥歯を噛み締めて溢れ出しそうな涙を堪える。細く吸った空気がやけに冷たくて、喉が染みるように痛かった。
視界が僅かに滲む。崩れそうな世界の輪郭をどうにか保とうと手の甲で目を覆った時、不意に制服の襟が引かれた。次いで、おまえなぁ、と聞き慣れた声が頭上でして思わず、目元を濡らしたまま振り向く。
「……ふじさき、」
吐息のように漏らした彼の名前は声にならず、ダイアモンドダストに紛れて緩やかに消えた。
わたしのクラスの副担任である美術教師の藤崎は、眉を寄せてこちらを凝視している。するりと伸びてきた指先が、僅かな躊躇いを見せた後、わたしの目尻に触れた。
「――こんな、柄でもないとこに居んなよ。ちょっと探し回っちまったじゃねーか」
濡れた人差し指を親指の腹で拭い、藤崎は困ったように笑う。柄でもないてどういうことやと問い質したかったけれど、薄く笑んだその顔を見ていたら不安や不満とともに言葉まで溶け消えてしまって、喉の奥から漏れたのは嗚咽に似た声だけだった。
両手を伸ばしたくなるのを堪えながら、あかんよとわたしは細い声で言う。あかんよ、こんなん。
「へ? 何だって?」
「あかんよって……こんなん、誰かに見られたら、また噂になってまう。前、言うてたやん、女子生徒と噂んなったら失職やて、困るて、言うてたやん。せやから……」
「ばーか、」
ぐしゃ、と大きな手がわたしの頭に乗る。いつかのあの温もりとおんなじで、そうして触れられるだけで胃の辺りが熱くなった。
「おまえがそんなん、気にすることじゃねーよ。大体にして、そう簡単に免職されっかよ。疚しいことなんて一個もねぇんだ、堂々としてろ」
だから俺のこと避けんな、と。
そう告げた声がやけに甘く優しく響いて、耳の奥がじんとした。ああ無意識のうちにわたしは彼を避けていたのかと、ようやくそこで気付く。そういえば最近、この声を聞いていなかった気がする。
高校に入ったばかりの荒んでいた頃も、救ってくれたのはやはり、彼だった。絡んだ糸の結び目を一つひとつ解いて、強く優しい言葉で以てわたしを引き上げてくれた。
そしてわたしは恋をした。

――ほんまに時、止まればええのに。

そう願ってしまうことすら、疚しいことになるのだろうか。だったらわたしは、疚しいことが一個もないなんてとても言えない。
「――藤崎、先生、」
震えそうな声をどうにか常のように発し、傍らの鞄を掴む。頭上の手が離れた瞬間、わたしは立ち上がって彼の横をすり抜けた。ヒメコ!? と久々にその名を彼の口から聞いた気がしたが、わたしは止まることなく図書室を飛び出した。
突き破るように扉を開けると、スイッチこと笛吹和義が無表情のまま立っていた。居てたんか、とわたしは軽く息を吐く。
「あれで良かったのか?」
パソコンから流れるスイッチの言葉に小さく頷き、だって、と言い訳のように言葉を紡ぐ。
「だって、これ以上あの人に迷惑掛けられへん……」
「迷惑、か」
「……何やの?」
「別に」
そう言って歩き出したスイッチに続き、わたしも足を踏み出す。
そういえば本を借りるのを忘れたと思って図書室を振り返ったけれど、その静けさをまとった空間にはもう二度と入れそうになくて、もしかしたらあそこは本当に時が止まっていたのかもしれないという気がした。




静動の狭間で
(答えなんて解らないから、ただ足掻いていた。)






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何回も書き直した割に、長い上にまとまりなくてすみません(^p^)ゲフッ←吐血











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