一同 /




美術教師

男子生徒
で、藤崎と笛吹






物語のある人生を。
看板に書かれた文字を見て、藤崎は息を吐いた。楽しい物語なら、そりゃ構わねーけど。
煙草屋の角を曲がって住宅地を抜け、校門の前で自転車から降りる。ホームルームまでは時間がある上に、部活を始めるには中途半端な時間のため、登校している生徒はまばらだった。
おはよーボッスン、と横をすり抜けていく生徒に、おぉという短い挨拶と笑顔を返す。何も変わらない。いつもと同じ光景、のはずだ。


化学実験室の扉を開けると、コーヒーのにおいが立ち込めていた。こぽこぽという音が、静かな空間で唯一鼓膜を震わせる。フラスコの中では褐色の液体(決して黒くはない)が揺れ、薄ら湯気を立ち上らせていた。
その光景を、藤崎が副担任を務めるクラスの男子生徒である笛吹和義が、じっと見つめている。結んだまま開かない口からは、空気さえも漏れてこないのではないかと藤崎は思う。
「はよー、スイッチ」
「おはよう、ボッスン」
笛吹は傍らに置いたパソコンに指を走らせ、藤崎に応えた。「もうすぐ飲めます」
「おぉ、ラッキー」
実験器具でコーヒー淹れるとか、どこの漫画の話だよ、と藤崎も最初のうちは笑っていたが、飲んでみると存外に美味かったので、今では毎朝ご相伴に預かっている。元々笛吹も毎朝淹れていたわけではないようだったが、どうも藤崎の為に習慣化させたらしい。
マグカップになみなみと注がれたコーヒーを口にして、ああ美味ぇ、と藤崎は息を吐く。豆は安いものなんだが、と笛吹がパソコンを用いて呟いたのは聞かない振りをして、彼はゆっくりと胃までコーヒーを流し込んだ。
「――ボッスン、」
「あ?」
「いや、なんでもない」
「んだよ、気になんじゃねーか」
「…………ウワサ、」
躊躇いとともに発された単語に、ああ、と藤崎は苦笑を浮かべる。
「やっぱ気になるか?」
「いや、ガセだとは解っているが――拡がりそうですよ」
「噂が?」
「噂が」
ふぅん。藤崎は無表情で頷き、コーヒーの静かな水面を見つめた。すっきりとした香りが、湯気とともに鼻腔から入ってくる。ふっ、と息を吹きかけると、一瞬だけ、湯気が霧散した。
笛吹はその様子を黙って見つめていたが、やがて自身もマグカップに口をつけた。不味くはないが、美味いとも思えない。ボッスンは優しいな、と伝えようとして、結局やめた。
「やらかしちまったかな、」
ぽつりと、藤崎が呟く。笛吹は何も答えず、マグカップに描かれたペロリンに意味もなく視線を落とした。

下らない噂だ、と笛吹は思う。内容は、笛吹のクラスメイトである鬼塚一愛が藤崎と付き合っている、というものだ。美術準備室によく鬼塚が出入りしていたから立った噂だが、真偽など確かめるまでもない。本当に、下らない。
噂、と呼べるようなものでもなかったのかもしれない。美術部の男子生徒が、面白半分に仲間内で溢した冗談だ。それでも、傷つく者がいないわけではない。
鬼塚は、噂の出所である男子生徒を殴った。
その時初めて、もしかしたら、と笛吹は思った。もしかしたら、噂は半分だけ本当なのかもしれない。

「ヒメコは、ボッスンを助けようとしてますよ」
笛吹がそう告げると、藤崎は目を瞬かせた。そして、小さく笑う。
「普通なら、逆だよな」
「まぁ、逆でしょうね」
「厳しいな、おまえは」
藤崎は苦笑を漏らした後、俺はさ、と続けた。「俺はさ、今日おまえがここにいてくれて、すげぇ安心したんだよ。あぁ、いつもと同じ光景だー、と思って」
「いつもと、同じ」
「ああ。いつもとおんなじ」
変わると思ってたんだ、と藤崎は言う。変わるのはすげぇ怖ぇ、と。
指の腹でマグカップの表面を撫で、藤崎は息を吐いた。静かな校舎に染み着くような、そんな溜め息だった。
「しかし、ボッスン、」
「わかってんよ。安心してる場合じゃねぇって」
助けるさ。
藤崎が、微笑って言う。それを見た笛吹は、ああこれはきっと大丈夫だ、と直感的に思った。だって彼は、暗く閉ざされた部屋に籠っていた自分も助けてくれたのだから。
そして、やはりヒメコはボッスンのことが好きなのかもしれないな、とふと考えた。

物語のあり過ぎる人生だ。
藤崎がぽつりと漏らした言葉を、笛吹は黙って聞いていた。




一同、噂には惑わされるな。
(それはただのセンセーショナルな暇潰しに過ぎないのだ。)





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笛吹は藤崎に対して、敬語を使ったり使わなかったりの設定であって、決してミスではないのです本当です。












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