問答(消化作業13) /




美術教師

女生徒
で、藤鬼
シリーズもの
最終話後編






六月。
空が鳴っている。それに気付いた藤崎佑助はゴーグルを外し、顔を上げた。震える空気はまるで悪天候のように思われたが、カーテンの隙間から見上げた景色にあったものは大きな、花火だった。そうか、こっちにも花火はあるのか、と考えていると自然、四年以上前に離れた日本のことが思い出された。家族、兄弟、職場――意識せずに流れてきたイメージに藤崎は苦く顔をしかめ、息を吐く。
鮮烈な光の色をしばらく眺めてから、再び目の前の巨大な画布に視線を移す。ややくすんだ色合いの宗教画は、災害で水没したものだった。その絵は確かに大きな願いを込めたものであったのだろうが、浸された水の中で歪み、滲み、そして何かを、失っていた。ふ、と軽く息を吐き出した藤崎はそれでもそこに――数百年も前に描かれた画面に小さく灯る光を見つけて、肩を震わせた。ここには、光るような想いがあったんだ。その想いを掬おうと――救おうと、ゴーグルをかけ直した彼は筆を取った。

学生時代に会った絵画修復士のライアンに誘われる形で、藤崎は彼の修復チームに参加した。大掛かりな修復作業で、歴史的価値も高い美術品もよみがえった。留学も兼ねていた藤崎は海外における正式な資格も取得し、ライアンのサポートを無我夢中とも言える姿勢で続けた。
四年半。掛かった時間は当初の予定より長く、藤崎は元の職場に平謝りして休職と研修と年休を目一杯使い、そうしてようやく、花火の上がる夜、最後の一枚を仕上げた。まだ若い藤崎が、価値のある作品を一人で手掛けることは出来ない。それでも彼にとっては価値があろうと無かろうと、救うべき絵画だった。
「日本に帰るのか?」
藤崎が修復した宗教画の点検を終えたライアンが、少し寂しげに訊く。藤崎は頷き、ライアンに右手を差し出した。
「ありがとうな、ライアン。誘ってもらえて嬉しかったし、作業も楽しかったぜ」
「また誘うよ」
「ああ、ありがとう。……でも、暫くは高校のセンセイに戻りたいんだ」
それは彼の本心だった。教員としては、たった二年半しか勤めていない。それでもいつか目指した場所は大切な場所となり、今では還りたい場所となった。
逃げてったくせに。弟と妹に散々電話で言われたが、もうすぐ帰るぞと告げると彼らは一様に面倒くさそうに、あっ、そう、と言っていた。しかし滲み出た照れが受話器からも伝わってきて、藤崎の方も何やらぶっきらぼうな調子で部屋を空けとけよと言ってみたがそれもやはり伝染した照れが隠しきれていなかった。
帰る。胸中でそう呟いてから声に出してもう一度、帰る、と繰り返す。目蓋の裏に、今朝も見た夢の中の笑顔が見えて、贖罪のように修復した宗教画に目を向けた。すきや。今もまだ消えない、あの日があった。


「ユウスケ、」
呼ばれて振り返ると、椿佐介が立っていた。空港のロビーは休日のためか人がやたらと多く、果たして弟を見つけられるだろうかと危惧していた藤崎はほっと息を吐いた。
「お、おぉ……久し振り、だな?」
「ああ……あの…………久し振り」
「えー、と……元気、だったか?」
「ああ……あの、元気だ。その、君は元気か」
照れを多分に含んだ探り探りの会話が暫く続き、お互い疲弊した頃、ようやく椿が「……そろそろ行こう」と藤崎の荷物の一つをさっと奪って歩き始めた。生活品は空輸したので、荷物はほとんど無いものの、その中でも一番大きなものを弟はさらっていった。さんきゅー。その背中に藤崎が感謝を投げ掛けると、彼は一瞬止まってまたすぐにすたすたと歩き始めた。藤崎も、ゆったりとした歩調でそれを追った。

「……これ、ルミの車じゃねーか」
「僕は持っていないからな、借りたんだ」
いやにかわいらしいこのベビーピンクの車を堅苦しい顔で椿が運転するのかと思うと、笑ってしまう。乗ってしまえば関係ない、と憤然と椿は言うが、端から見た時のことを考えて藤崎は乗車を僅かに躊躇った。
国際空港からの道は、さほど混んでいなかった。窓から這入ってくる日本の六月の空気はやけにじめっとしていて、生温い。絵画の保存には気を付けないといけない時季だなと言うと、椿に、修復士気取りかと言われた。
「美術教師、兼、絵画修復士」
「……再来週からもう復帰と聞いたが、本当に出来るのか?」
「あれ!? 俺、九月復帰じゃなかったっけ!?」
「臨時講師が残りの期間、産休に入った」
「嘘だろ聞いてねぇ! 校長! チクショー!」
「学校と言えば、少々用事があるんだが、寄ってもいいか?」
「ん。……学校、か」
――知ってる生徒は、皆卒業しちまったんだな。
車の窓から初夏の雲の質感を視線で辿りつつ、そんなことをぼんやり藤崎は考えた。高校卒業どころか、副担任を務めていたクラスの生徒は順調に行けばもう大学四年生だ。それを望んだはずなのに、彼らの未来を知らないことがひどく勿体ない気がして、藤崎は息を吐いた。
椿はそんな兄の様子を横目で窺いながら、再来週、と口にする。
「は?」
「再来週から、教育実習が始まるんだ。僕も一人、指導教員として担当する」
「へぇ。んじゃ、卒業生が来るのか?」
「ああ。熱心な生徒で、二年生の三月にもう、椿先生お願いがありますと僕のところに来て、国語の先生になりたいから勉強を教えて下さいって頭を下げていたな」
「マジか。へぇ、誰だ、それ?」
「今日も、打ち合わせで学校に来る」
「ふぅん、用事ってそれか」
「ああ」
それっきりその話は途絶え、会話は家族の話や海外の話に移っていった。しかし時差ボケのためか藤崎はいつの間にかうとうとし始め、意識は遠退いていった。

藤崎が目を覚ますと、目尻に薄ら涙が滲んでいた。いつものごとく指の腹でそれを拭い去り、耳の奥に残った声を反芻させないように首を左右に振る。
「……あ、」
気が付くと目の前には、見慣れた校舎が立っていた。起きたか藤崎(職場では名字で呼び合うという約束を彼は律儀に守っている)、という椿の声に本格的に覚醒し、狭い車内から出た。纏わりつくような梅雨の湿度に懐かしさを感じる。
校舎は、まるで変わっていなかった。職員玄関から二人で入って美術室に行くと椿に伝え、裸足のまま廊下を歩く。最後に来たのは、二学期終業式の前日の早朝だった。反対側の季節の今、廊下には強い西日が差し込んでいる。
「俺が高校生だった時からも、そんな変わってねぇか……」
呟きながら美術室の扉を開けると、油絵の具と、紙のにおいが鼻を刺した。あ、と思う。あ、ここだ、と。
そのまた奥にある美術準備室は、また空っぽになっていた。煙草のにおいは全くしない。染み着かなかった、四年半。それでもそこで流れた思い出は紫煙のように、ゆらゆらと。淡い色で霞みながらもコマ切れで目の前を唐突に行き過ぎる。
溶けたアイスクリームの甘さ。傾いた夕日の温度。学級日誌のページを繰る音。無意識に抱き締めた時のシャンプーのにおい。描きかけの笑顔。――忘れていない。ここはあまりに強く色濃く残っているから、記憶が端から溢れ出す。夢で見た。だけど君だけが居ない。
――アタシ、ボッスンのこと、
「俺も、」
藤崎がぽつりとそうこぼした時、不意に美術準備室の戸が開いた。サスケ? と振り向いた彼はそこで、時間が止まるのを感じた。より正確に言うならばそれは、時間が巻き戻ってゆっくりゆっくり、歩むような速さになったような感覚だった。
髪が、伸びていた。初めて会った時から記憶にあるのは鮮やかなまでの金、だったが今は、黒く染め直されている。見慣れないスーツは大人びた様子よりもむしろ、スーツに着られるあどけなさを強調させていて、四年半、その月日をどこかに飛ばしてしまう。
「…………ボッスン、」
掠れた声が耳に響く。こんなにも琴線をはじく言葉があったのかと思うほどに、柔らかく、そっと、その声は心を震わせた。
彼女を傷つけるすべてを避けたかった。彼女を守り、助けたかった。しかし守られ、助けられていたのはいつも、自分の方だったのかもしれない。教師と、生徒、だったくせに。――ヒメコは、ボッスンを守ろうとしてますよ――いつか笛吹和義が、自分にそう言っていたと思い出す。そう、その通りだ。
「教育実習生って、おまえかよ……」
声が言葉にならないのか、言葉が声にならないのか。藤崎の言葉の欠片は美術準備室の床に力なく跳ねた。
「――ボッスン。アタシ、教師になる。ボッスンがアタシのこと助けてくれたみたいにな、アタシも、アタシみたいな生徒を、」
「……ああ、」
「助け、られる……やろか?」
「当たり前だろ、ばーか」
即答した藤崎は、微笑い損ねた表情で窓の外を見た。夕日の光の中、雨が降り始めていた。天気雨だ。橙色が雨粒で滲んで、輪郭が歪む。
「アタシな、ボッスンが描いてくれたアタシを見て、先生になる勇気貰えた気ィする。いつも、いっつも、アタシのこと助けてくれたんは、ボッスンやった」
せやから、ボッスン。藤崎が再び彼女に目を向けると、彼女は言葉を続けた。
「せやからアタシ、ボッスンのこと、ずっとすきや」
彼女が笑う。描きたかった笑顔だった。画布に灯した、光だった。描きたくなるなんて、まるで――。
教師と生徒だった。実父母のことを知っていたからどうしても、そこに在るのは恋じゃないと思って言葉にしなかった。いつか悲劇になるのが怖かった。幸福ではなくても、不幸でなければいいと思った。けれど彼女はそこを乗り越え、藤崎と同じ立場に立つと言う。
初めて出会った頃の彼女は、この前まで修復していた水没した宗教画のようだった。作者の光るような想いを掬い上げて取り戻す、修復というその作業が好きだった。桜の花がけぶる入学式、屋上から見た彼女は滲み、歪み、くすんだ色をしていたけれどその奥には確かに、眩しいまでの光が透けていた。その光が多分、この笑顔に溶け込んでいる。俺は、と藤崎は目を細めた。
俺は、少しでも彼女の光を掬い上げ――救い上げることに力を貸せたのだろうか。
天気雨は夕日の色を映して世界に注ぐ。窓の向こうでゆらゆらと、世界は形を変えている。この世界は優しくて険しい。
そんな世界の中で目の前の光がもう揺らがないように、藤崎は祈りを込めて口を開いた。
教師と生徒だった。けれどどうしようもなく、一人の人と人、だった。――大丈夫、これは悲劇にならないし、俺の両親の恋も悲劇なんかじゃなかった。
「あ、おっ、俺は、」
口の中がやたらと渇いている。趣味に傾倒してこういう類いのことをしてこなかったため、藤崎は緊張で身体を硬くした。

「ヒメコ、俺も―――、」

誰かが、それは恋だと言っていた。




伸縮する世界の端をキャンバスに囚えた
(ここから僕らを始めよう。色鮮やかな世界を君だけにあげる。)






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これにて教師×生徒シリーズ了。お付き合いいただき、誠にありがとうございました。
後記はいつか日記にて。













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