問答(消化作業12.5) /




美術教師

女生徒
で、藤鬼
シリーズもの
最終話前編







毎朝、しあわせではない夢で目が覚める。幸福とは決して呼べないけれどしかし不幸でもない、写実的な夢は現実よりもつめたくて硬い。目尻の裾を流れる涙を指の腹で拭ってから体を起こし、夢で聞いた声を鼓膜の奥でもう一度再現する。目を閉じていつか見たその日を思い起こせば胸の底が疼いて、駆け出しそうになった。

日本を離れて四年半。――君を思い出さない日はない。





*****


懐かしい夢を見ていた気もするし、まだ知らない日の夢を見ていた気もする。
終業式を翌日に控えたその日は、底冷えのする朝だった。布団から出るのが惜しくてしばらく羽毛にくるまれていたが、唐突に部屋の扉が開けられてしかもその上、早くしてよバカ! と急かされたものだから、仕方なく俺はしあわせの世界を手放した。部屋の中にずかずかと入ってきた二歳下の妹が、カーテンを素早く開ける。真冬の朝は遅くて、浅い光すらまだ部屋には届かなかった。
大学生の時から借りていた部屋は、もう解約してしまった。久々に長く実家に滞在することになった(とはいえ、実家も俺のアパートも都内にある。だからこそ盆も正月も実家に泊まらなかったわけだけど)が、俺が使っていた部屋はきちんと掃除されていて、しかしどこか違うにおいがした。
「お兄ちゃんが言ったんだからね、六時に出るって!」
洗顔と歯磨き、着替えを済ませてからマンションの駐車場に向かい、妹――瑠海の軽自動車に乗り込む。可愛らしいベビーピンクの車体は、俺が乗ると少し沈んだ。悪い悪いと口にすると、瑠海はむぅと不機嫌そうに口を曲げた。
「お兄ちゃんかサスケ兄ちゃんが、車買っとけば良かったんだよ」
「日本離れることになったんだから、結果として買わなくて良かっただろ」
「結果論じゃん!」
「甘いなルミ! 結果が全てだ!」
緩やかに走り出した小さな車は、まだ往来の少ない道を進んでいく。そう言えば母は運転が苦手だと言うが、それが妹に遺伝していなくて本当に、良かった。なかなか暖まらない車内でぽつりと、そんなことを考えた。

機械警備を解除して職員玄関の鍵を開けると、外よりもひやりとした空気が顔に触れた。誰もいない学校は外界よりも寒くて、寂しい。
校内用のサンダルは履かずそのまま廊下を歩き出すと、後ろから瑠海がついてきた。およそ四年前にこの学校を卒業した妹は、久々に見る校内を感慨深そうに眺めている。俺も三年間、この学校で高校生活を送った。教員としてはおよそ二年。通算、五年弱だ。薄暗い校舎内では、見慣れたはずの壁や柱や掲示板がやたらノスタルジックに見えて仕様がない。――ボッスン。無邪気に俺を呼ぶ声をどこかに聞いた気がして、少しだけ歩みを速めた。
校舎の隅にある美術室の、そのまた奥にある美術準備室は、窓が西側にある(絶対、設計ミスだ)ので昇りかけの太陽の薄い光は未だ差し込んでいなかった。明けたばかりの藍色をまだ色濃く残した室内には、見えない光の粒がたゆたっていてそれに触れると、皮膚からじわりと、あまいようなすっぱいようなそれでいて冷たく苦いような思いが染み込んでいく。それが涙になって溢れそうで、ここに残りたいと気づく前に出ていきたくて、昨日のうちに詰め込んだ段ボールを慌てて持ち上げた。
「おい、ルミ、こっちの段ボール持ってくれ、」
そう言いながら妹を見ると、彼女は一つのキャンバスに手をかけていた。あっこらバカそれはダメだ、と言いたかったが言葉が頭の中に浮かんだ台詞が正しいルートを通って口から出るには幾分かのタイムラグがあって、だから瑠海は俺のあっ、という声だけを聞いた時にはもうキャンバスに掛かっていた布を剥いでしまっていた。落としそうになった段ボールを抱え直し、俺は項垂れる。瑠海は口を半分だけ開いてそうしてこちらを見て、意地悪くにぃ、と笑った。
「人物画は、描けないんじゃなかったっけ?」
ぐぅ。喉の奥から潰れたような声、というか音が漏れて、恥ずかしさのあまり段ボールを抱えたまま、力なくしゃがみこむ。
「……………………まぁ、約束、だったからな」
「へぇ、ふぅん……。――相変わらず、オリジナルの人物画はあんまり上手くないね。模写はあんなに上手いのに。ちょっとデッサン狂ってない?」
「やめて! おにーちゃんを傷つけることに特化した的確な感想やめて!」
「でも、」
瑠海はそこで視線を画布に戻し、そっと微笑を浮かべる。「でも、いい絵だね。お兄ちゃんが描いた絵の中で、一番、すき」
「……そ、か?」

――鬼姫もヒメコも昔も今も、受け入れられるようになったら、描く。
――約束、な。

それはここで交わした、淡い淡い約束だった。あれから一年半が経つこの日、彼女がそれを覚えているかどうかはわからない。今から思い返せば、何を偉そうなことぬかしているのだとのたうち転げ回りそうだが、あの約束が当時の俺に出来た、精一杯の、彼女に対する手助けだったのだ。絡めた小指からせめて少しでも力を分けられればいいと、そんなことをどこかで考えていた。
ただただ教師と生徒だった、あの時。しかし今も当時もいつだって、俺たちは一人の人と人だった。
「約束ねぇ。……自分が描きたかっただけのくせに」
妹が、ぽつりと言う。
――俺が、描きたかっただけ?
「ちっ……げぇよ! バーカバーカ!」
そんなまさか嘘だろいや嘘だわ。そんなの、だって。
「その人の描きたくなるなんて、恋みたいだね」
その言葉で、自分でも気づいてなかった想いを掘り返されたような気がして、もう一度繰り返したバーカ、は驚くほど弱々しく小さな声になった。俺が、描きたかっただけ。この手で、あの笑顔を。
それは小さな衝撃で、あの日のことを思い出させる。

――アタシ、ボッスンのこと、めっちゃすきや。

たとえばその言葉に心臓が大きく大きく反応していたとしてもそこで、「俺もおまえのことすきだぜ、生徒として」とか言って軽く笑えていればこんなにも後ろめたい気持ちにならなかっただろうに、次いで彼女の口から漏れたのは謝罪、だった。

――すきや。……ごめん。

あんな顔を、させたいわけじゃなかったのに――……。
俺が黙ったままでいると、瑠海は小さく溜め息を落とし、キャンバスに布をかけ直した。そうして僅かにばつが悪そうな顔をし、頭を掻く。――母親に似ている。見た目も、仕種も、雰囲気も。しゃがんだまま見上げていると、薄らと窓から滑り込んできた光が妹に流れて淡く、室内が白む。
「お兄ちゃんが誰をすきになっても、誰も傷つかないよ。……お母さんだって、哀しい顔はしてないよ、初めから」
「……なんだよ、それ」
運転が苦手だと言う、その母が運転する車で起きた事故だった。亡くなったのは、俺のもう一人の母だった。
自分が桐島亮輔をけしかけなければ、と母が悔いていた時期があったと知ったのは、桐島の両親を知った少し後だった。父が撮った記録映像に紛れるように、藤崎茜の日記があった。既に「母ちゃんとは血が繋がっていない」という重大な秘密は聞き終えていたため気楽な気持ちで開くとそこには、若かりし頃の継母の苦悩がつらつらと並んでいた。――自分が教師だった時のリョウスケを問い詰めなければ。自分がハルを乗せて運転なんかしなければ。もっと二人の未来は違ったのかもしれないのに。日記は長くは続いていなかった(飽きたのかもしれない、そういう母だ)が、それでも俺は眼球の奥が熱かった。
俺が教師になりたいと告げた時の、母の困ったような微笑を思い出す。哀しい顔は――確かにしていなかった、それでも。
「因果だよなぁ。……違うか、歴史は繰り返す? みたいな」
「お兄ちゃん、」
「認めるのは、こわいだろ。でも学校を辞めるのも、こわいんだ」
誰よりも明るく情け深いくせに、友達なんか要らないと言って世界を拒絶していた彼女。自分のことを嫌いながらも前進していった彼女。誰よりも寂しい振りをしていた俺の、最初の仲間になってくれた彼女。俺を守るために噂の元凶を殴り飛ばした彼女。抱き締めると夕陽に融けていきそうなほどあかい顔をした彼女。俺のことがすきだという、彼女。
いつかこれが悲劇になるんじゃないかと思った。学校を辞めようと思ったが、実父母のことを思い出してそれも出来なかった。繰り返す気がしたのだ、彼と彼女の人生を。
本当は前から知っていた。でも、認めてなんかやらない。これが恋になる前に、俺は休職という中途半端な形で逃げることを決めた。「逃げる」という言葉しか見つからないのはこれが正真正銘、「逃げる」ことそのものだからだ。
「お兄ちゃんって、大概バカだよね」
「うっせー。知ってんよ」
「悲劇なんかじゃなかったのに……お兄ちゃんやサスケ兄ちゃんが生まれたんだよ? 悲劇なんかじゃ、ないよ……」

明日は終業式。翌月に発つくせに、次の日には俺はもうここに居ない。
泣きそうな妹を前に、俺は何かをぐっと堪える。喉に貼り付いた痛みのような後悔は、呑み込むことも出来ずに残っている。後悔。何に対する後悔なのかもわからぬまま、近づいてくる本格的な朝を感じていた。


*****


そのまま日本を発った俺はもうほとんど、家族以外と連絡を取っていない。夢ばかりが、未練がましい。

どうか俺のいないところで、彼女が泣いていませんように。







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後半へ続く!













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