未導入(消化作業12) /





国語教師

女生徒
で、椿丹
シリーズもの






雨が降っている。小糠雨というのか微雨というのか、細く短い雨がコマ切れのようにぽつぽつと、静かに静かに僕の肩を濡らす。もうすぐ夏だというのにまるで、春先のような雨だ。
あの日もこんな雨だったと、ふと思う。あれは確かに、春だったけれど。


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こぽこぽと、コーヒーメーカーが放課後の静かな国語科研究室で音を立てている。ふと気付けば僕以外の教員は部活動や補習に行ってしまい、珍しく室内が閑散としていた。キーボードを叩く手を止めて時計を見上げると、そろそろ五時になろうかという時間だった。
藤崎佑助が海外へ経ってから、二ヶ月以上経過している。荷物少なに日本を去った彼は、実は年明けまで実家にいた。あんな風に学校からいなくなったのだから早いこと外国へ行け、という僕の言葉も流され、藤崎は正月も七日を過ぎた頃に出ていった。またな、とだけ告げて背中を見せた藤崎を空港で見送ったのは僕と妹の藤崎瑠海だけで、ヒメコちゃんにも教えてあげれば良かったかなと小さく呟いた瑠海の言葉を今もまだ引きずっている。終業式で見た鬼塚一愛の小さな背中が、胸に痛かった。
扉を叩く小さな音にはっ、として入り口を見ると、正に今考えていた人物が立っていた。あ、と声に出してそのまま動きを止めていると、彼女は真っ直ぐ僕の席へと向かってきた。肩の辺りで跳ねる金髪が、まぶしい。あの小さな背中はまだ記憶に新しいのに、それなのに彼女はひどく強い眼差しで僕を見据えていた。
「……鬼塚?」
「椿先生、お願いがあります」
「え、」
青みがかった瞳に見つめられてしかも珍しく丁寧な口調を使われ、僕はぽかんと口を開けた。

鬼塚と暫く話をしてから校舎の外に出ると、小雨が降っていた。音も無く緩く静かに、細く細かく世界を濡らす。体育館に寄ったらすぐに帰ろうとしていたため、荷物も外套も持ってきたが、折り畳み傘はロッカーに入れたままだ。だが傘をさすほどでもないかと、そのまま体育館の方へ足を向けたが、覗き込んだ館内には誰もいなかった。整然と並んだ椅子の列と紅白幕が粛然とした空気を醸し出していて、何やらいつもの体育館とは違って見える。
卒業式を翌日に控えたこの日、先程まで生徒会執行部と校長、教頭、そして教務あたりが当日の段取りを確認していた。今年度の新生徒会メンバーはともかく、答辞を読む安形惣司郎の原稿は誰も確認していないという。彼ならば問題無いだろうと思う反面、面倒臭がってまだ文面を考えていないのではと訝る気持ちもある。
――どちらにせよ、本人がいないのでは仕様がないな。
そう思って踵をかえそうとしたその時、背後で足音が聞こえた。振り返って見るとそこには、彼女が、いた。
「――……っ、」
驚いて声も出ない僕に彼女は――丹生美森はふっくらと微笑み、けれど少しだけ申し訳なさそうに眉を下げて言った。
「こんにちは、椿先生」

三月とは言え、照明も点けない体育館の中はしん、と冷えていた。卒業生が歩く花道を辿りながら後ろを振り向くと、丹生が僕の数歩後を追ってくる。僕はまた前を向いて足を進め、無いようだなと訊ねてみた。「ええ、そのようですわね、すみません」と答える声が背中から聞こえて、うん、いや、と僕は曖昧に頷いた。
マフラーを無くしてしまったという彼女は、しかし体育館で落としたかどうかということに確信は持てないらしい。教室にも生徒会室にも鞄の中にも無かったので、もしかしたら式場設営の際に落としたのかもしれないと、最後にここに来たようだ。
本来、生徒会顧問である僕も、明日の段取り確認には居合わせるべきだった。それを中馬先生に頼んでしまったのは完全に個人的な理由だ。
椿先生、すきです。
今も耳に残るその言葉は、消そうとすればするほど色濃く深く浸透して、動悸が全身にこだまする。二ヶ月半が経ったにも関わらず、僕はまだ上手く丹生と接することができない。
「椿先生、」
ふと名前を呼ばれてまた振り返ると、彼女は既に立ち止まり、体育館のちょうど真ん中辺りで僕を見ていた。明かりがない上に天候も悪いため、彼女の姿ははっきりと見えない。けれど、恐らく、微笑っているのだろう。彼女が泣きそうな顔を僕の前でしたのは、あの時、だけだ。だから彼女は、「いつも通り」が上手く取り繕えない僕と違って、以前と何一つ変わらない、のに、
つばきせんせい。
その声があの日の彼女と重なって、苦しいのか切ないのか恋しいのか胸の奥の底まで、泣きたい衝動に駆られた。
どうした、と訊ねると丹生は再び口を開いた。
「やっぱり、諦めて帰ろうと思います」
「いや、……でも、君が持っているものだから、高価なものだろうし、」
「時価です」
「ジカ!? マフラーが時価なのか!? 純金でも入っているのか!?」
「石です」
「何の!?」
僕は大きく息を吐き、額を押さえる。いつもの丹生のペースだ。マイペースな彼女に呆れてさえいるのに、それに安心している自分がいて、ひどく惨めだった。
離れていた数歩を埋めながら、首に巻いていたマフラーを外す。そのまま細く白い丹生の首に緩く巻いてやると、彼女は頬を上気させて僕を見た。高価なものだろうし、それに今日はまだ寒いぞ。先程言えなかった言葉の続きを発すると、その、一瞬。ほんの、刹那。
丹生が、僕の背中に腕を回した。きゅ、と込められたちからも柔いぬくもりも甘いにおいもどうしようもないおもいも、触れたのはほんの僅かな間で、すぐに離れていく。おとなに、なったら――吐息のようにも聞こえたその声は、鼓膜に触れてやはりすぐに消えていった。
呆気に取られた僕を前に、そうして彼女は、きれいに微笑った。
「油断していらっしゃいましたわね、ざまぁみろ」
ありがとうございました、さようなら、と。深々とお辞儀をしてから去っていく彼女の黒く艶やかな髪を見ながら、先程の囁くような声を思い出していた。おとなに、なったら。彼女がおとなになった時、僕は何になっているのだろう。
それでも君は、ずっと、僕の生徒だ。
もう一度あの日の言葉を口先で呟きながら、体育館の外に出る。小雨はまだ止まず、音も無く緩く静かに、細く細かく、ちいさな世界を包んでいた。


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あれから、四年半。変わったことと言えば担任のクラスを送り出したことだろうか、僕自身の暮らしに特段変化はなく、贅沢ではないが楽しくないわけでもなく、教員として過ごしている。そんな日々もあと少しの話で、藤崎佑助が、もうすぐ帰ってくる。部屋を解約してしまっている彼は、僕の部屋にしばらく居るつもり、らしい。
小雨が降る小さい駅のホームで傘もささずに一人立っていると、電車がすっと滑り込んできた。髪の毛に付いた雫を軽く払って姿勢を正し、息を深めに吸って、吐き出す。開いた扉から出てきた数人の中に彼女を見つけ、緊張と安堵とが同時にやって来る。ふわりと広がったワンピースの裾に、雨がゆっくり染み込んでいくのが見えた。
おっかなびっくりに電車を降りた彼女は、また去っていく車体をしばらく見つめていたが、やがてこちらを見て、そして徐々に目を丸くした。
「――――椿、先生、」
「油断していたな、ざまぁみろ」
おとなになったら。その言葉の真意と実在性を確かめるために四年半かけて僕は君に会いに来た。それは多分どこか間違っていて、けれど君がもし正解だと言ってくれるならばきっと、きっと。
肩先に染み込んだ雨が冷たい。冬に見た蝉の抜け殻が今になって思い出されて、それは恐らく、前よりもっと美しくなった彼女を見たからなんだと思う。
風がおよぐ。君は、微笑った。




慈雨に満たされた世界は白紙
(あの日の僕らは、まだ始まってすらいない時を追い掛けていたのかもしれない。)





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椿丹編はこれにて了。
ありがとうございました。















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