動脈(消化作業11) /




美術教師

女生徒
で、藤鬼
シリーズもの






油絵具と、紙と、それから時折、煙草のにおい。それは少しだけ古くて、どこか苦い。
湿気と火気は厳禁だと真面目な言いながら煙草に火を点ける藤崎は胡散臭いと言うよりもむしろ滑稽で、いやそれ火気ですけど、と告げてやると慌てて灰皿で揉み消した。やっぱり無意識やったんか。わたしが笑うと、彼は顔を赤くして口を尖らせた。
初めて美術準備室に入ったのは、もう一年半も前のことになる。

その日は、夕立が窓を打っていた。憂鬱になる理由なんかただそれだけで充分なのに、そこにまたくだらない話を耳に入れてしまったものだから、もうわたしの気分としては憂鬱を超えて、憂鬱に憂鬱を掛けた憂鬱の二乗、くらいの勢いだった。時折どこかで響く雷に小さく肩を震わせて、誰もいない教室の隅の席で膝を抱える。こんなこと、以前は――中学生の頃はどうってことなかったはずなのに。自分の膝頭がやけに白く冷たく小さく、頼りなく見えて、だから視界に入れないようにそこに額を押し付けた。
その時不意に、あ、ヒメコ、とまだ馴染まないその名を呼ばれて、一瞬遅れてから緩慢に顔を上げる。そんなふうにすんなりわたしを呼ぶのは、高橋さんと。
「おー、ちょうど良かった。美準に荷物運ぶの手伝ってくれよ。アイスクリームやるからさ」
副担任の美術教師くらいのものだ。

ひとつ、ふたつ、みっつよっつ……と、段ボールから出したばかりの真新しいキャンバスを、長い指で差しながら藤崎が数えている。注文書とサイズと数とを見比べる彼を横目で見ながら、わたしはアイスクリームをプラスティックのスプーンで掬い取った。
美術準備室の窓もやはり雨に殴られている。初夏の気温は蒸し暑いが、この日は雨のせいか緩い涼しさがあった。それでもわたしの掌の熱気を吸ったためか、紙製のカップには水滴が付いて、やわらかくやわらかく中身まで温度を伝えていく。
「そういやさ、」
数を確かめ終わった藤崎が、不意にこちらを向いた。「隣町の高校生が、開盟の生徒をカツアゲしてるらしいんだけど、どうも上手くやってるようで全然犯人像がわかんねぇんだって」
「ほな、そいつら見つけて取っ捕まえて、泣いて詫びるまで剥いでどつき回したらええんやな?」
「言い方怖ぇな!つーか、そうじゃなくて、――…………いや、知らねぇんだったら、それでいいや」
知らんくないよ。わたしは前歯で軽くスプーンを噛んだ。溶け始めたアイスクリームを見ていると、こちらの思考もこころも溶けて融けて、やがてどろどろと底の生ぬるいところに沈澱していく。
知らん話と、違うねん。
「……そのカツアゲの黒幕は鬼姫やって?」
「な、」
藤崎は手にかけていたキャンバスを落としそうになって、慌ててまたそれを押さえた。「――んだ、知ってたのか……」
「さっき聞いたばっかりやけどな。ま、こんなん、初めて違うし」
「……そ、か」
鬼姫という"悪名"を知らないところで使われるのは、多くはないけれど珍しくもない。その名を望まない内に与えられた時から、わたし自身に覚えのない"悪行"が鬼姫のせいになっていることはぽつりぽつりとあった。そういうことが何度か繰り返されて鬼姫という名がゆっくりと加速しながら広まって、だから、そうか、あの当時はかなしいもくるしいもつらいも噂に撹拌されて溶けて融けて、消えてしまったのかもしれない。今よりずっと平気だった、たとえばカツアゲの黒幕にされたって。
窓の外では雨がまだ降っている。傘、折り畳みでも大丈夫やろかとぼんやり考えながら、アタシもかわらへん、と全然思考と違うことを口にする。
「アタシもその、カツアゲしとる連中とかわらへん。昔はおんなじやったし、根本的にはまだ、今もおんなじや」
「ばーか」
わたしの言葉に、間髪入れず彼が応えた。全然違ぇだろ、いい加減分かれよばか。そう言われてわたしは思わず、睨むように彼を見る。
「せやかて、」
「だから、痛みも知らないで、傷つかないよう自分だけ守ってるそいつらと、おまえは全然違ぇだろ。何を未だにぐちゃぐちゃ考えてんのか知らねぇけど、いいんだって、おまえも素直に怒ったり泣いたり笑ったりして。――傷付いてないわけねぇんだから」
「っ、」
藤崎が少し表情を緩め、困ったように微笑う。ばーか。と、もう一度だけ言って、暫し迷ってから彼はわたしの頭を恐る恐る撫でた。ポニーテイルが、所在無く揺れる。
噂はすぐに無くならない。傷も直には癒えてくれない。かなしいもくるしいもつらいも溶けて融けて撹拌されて、それでも消えるはずなんてなかったんだと、本当は、知っていた。わたしの底の生ぬるいところに澱となって重く重く溜まって沈んでまた重くなって、その重みにいつの間にか慣れた――いや、慣れた振りをしていただけだ。
なんでやろ、この男と会ってから、潰していた感情が表に溢れてしまう。今も、だって、視界が滲んで仕様がない。
ボッスン。口先で呼んで声に出したら嗚咽が混じって、それでも、ああと応えた彼の声は鼓膜を揺らした。頭の上にある手は多分わたしのより冷たくて、なのに積もり積もった何かを優しく解いてくれるようにあたたかい。
いつの間にか雨が止んだその空にある雲の隙間から、初夏の太陽が光を溢す。藤崎は眩しそうに、僅かに目を細めた。

頭に乗っていたぬくもりが離れる頃には、アイスクリームはすっかり溶けきっていた。アイスクリームは飲み物です。藤崎が小さく漏らした言葉に、すん、と小さく鼻を鳴らしてから、飲まへんでとわたしは応える。
ふと視線を巡らすと、美術準備室には絵画が何枚もあった。有名な絵の模写がほとんどで、わたしですら知っているものが多くあった。
「ボッスンが描いたんか?」
「へ? ああ、これか? まぁ、模写とか修復作業とかのが専門だから」
「せや! 何か描いてみ!」
ぱん、と手を打ってわたしが提案すると、彼は眉を寄せた。
「はぁ?」
「ええやんええやん、ほれほれ」
「めんどくせぇな……何がいいんだ?」
「ん、んー………………サバ?」
「何でだよ!?」
文句を言いつつそれでも藤崎は、近くにあった紙に鉛筆でさっと魚の絵を描いてみせた。描いていたのはほんの数分だったのに、光り具合まで鉛筆の濃淡で表している。おー、と嘆息を漏らしてわたしは絵を手に取り、すごいすごいとはしゃいだ。
「ほな次はアタシアタシ」
「あん? おまえが描くのか?」
「違う違う。アタシ、を、や」
藤崎は一瞬きょとん、と目を丸くしてからヒメコを? と不思議そうに訊いた。せや、アタシを。頷いて笑ってみせれば、彼はまた眉間に皺を寄せてから、っつってもなぁと少し考えるように鉛筆を手の中で一回転させる。
「俺、人物画、そんなに得意じゃねぇんだけど」
「いやいや、アンタは大したもんやって。よぉ見てやこのサバ、すごない?」
「よく見たよ! なぜなら俺が描いたからな!」
わたしはもう一度紙の中の魚を見て、すごいなぁと口にする。そんな言葉では足りなかったけれど語彙力も無く、その上ありきたりな表現をするのも何やら薄ら寒い気がして、結局また、すごいなぁと繰り返した。
藤崎はそんなわたしを見ながら気恥ずかしそうに頭を掻いて、じゃあこうすっか、と指を立てた。
「おまえがもっと自分のこと受け入れたら、描いてやるよ」
「は?」
「鬼姫もヒメコも昔も今も、受け入れられるようになったら、描く」
「……何や、それ」
受け入れたら、て、何を、どう。
わたしは俯いて、その意味を考える。爪先。指先。透ける血管。首筋に当たるポニーテイル。白く冷たく小さく、頼りなく見えた膝頭。まだ馴染まない呼び名。世間で知らぬ間に広まった悪名。無くならない噂と事実。直ぐには癒えない傷。アイスクリームのように融けていく思考。わたし自身。その、すべてを受け入れるということ。
――そう言えばアタシは、自分のことが好きて言えへん。
ふと、目の前に手が差し出される。顔を上げると藤崎が小指を立て、ん、と促した。その意味を解したわたしはおずおずと自分の手を出して、彼の小指に自分の小指を絡める。
「約束、な」
その声が、耳にこそばゆい。低い、けれどまだ少年らしさも残しているような彼の声はゆっくりとゆっくりと身体に浸透していつか、この澱のような冷たい傷を本当に融かして消してくれる気がした。
高一の初夏。窓から差し込む陽光が、夕立をどこか遠くに連れていった。





そこから一年半。彼が居てスイッチも加わってもちろんそこにわたしも居て、誰かを知るたびに世界は広がった。いつもしあわせばかりを見れたわけではないけれど、傷付きそうな時はやっぱり決まって彼が手を差し伸ばしてくれるから、いつしか丸くてすべすべしたあまくてにがい感情を、こころのどこかで持て余していた。それが恋だと気付いてからも、彼を本当にすきなのかすきじゃないのかよくわからなくなって、不安にも困惑にも似た感情にぐるぐると悩まされた。それでも、心がぐっと小さくなって縮こまってどうしようもない時、そんな時に限って彼が、ああそういう言葉をアタシは望んでたんやなって自分でも初めて気付くような言葉をくれるから、また改めて何度も同じ恋をした。

目の前のわたしが笑っている。そうか、こんなふうにわたしは笑えるようになっていたのか。なんや、人物画が苦手なんて嘘やないか。キャンバスの中のわたしは、今その前で泣いているわたしよりもずっとずっと、生きている。
あの日の約束なんてわたしは覚えていなかったけれど、それでも彼が居て――彼と居て、わたしは自分を好きだと思えるようになっていた。素直に怒ったり泣いたり笑ったり、してきた。
ボッスン。
呼んだら苦しくなって、恋しいという言葉の意味を知る。ボッスン。それでも呼んでしまうのは、もう呼ぶ機会を失ってしまったからだけではなくて、彼が居たこの部屋でかなしいもくるしいもつらいもこいしいも全部ぜんぶ溶けて融けて撹拌されて、それが彼の呼び名となって口から漏れてしまうからだ。
油絵の具と、紙と、それから時折、煙草のにおい。それは少しだけ古くて、どこか苦い。
あの日は夕立が降っていた。今日は雪が舞っている。冬のにぶい光は厚い雲に覆われたまま、出てこない。ボッスン。わたしは彼の掌と声の温度を思い出そうとして、冷えきった指先をキャンバスに伸ばした。




動脈を流れるのは涙
(これが恋じゃなければ、わたしはあなたにサヨナラくらい言えたのにね。)







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あと二話!(予定)

















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